浮気調査
まだ明らかになっていない西城春禰殺害の動機があるはずだ。真っ先に疑われたのが、西城俊一の浮気だった。
殺害の動機は当然、莫大な遺産。浮気がバレそうになった西城俊一が、離婚を切り出される前に西城春禰を殺害した。ありふれた動機だが、可能性としては高そうだった。
有名人とあって、西城春禰の知人や関係者を名乗る人物が多かったが、表面上の付き合いばかりで、春禰が心を許した親友となると、ほとんどいなかった。唯一、心を許していた幼馴染の平内比奈を除くと、芸能界には誰もいないのではないかと思えた。
誰もが羨む成功を手に入れた春禰は、孤独だった。そんな中、一人の女性の名前が捜査線上に浮かんだ。
――
デビュー当時、陰のように寄り添ったマネージャーだった。結婚を機にマネージャーを辞め、一線を退いていた。春禰は懸命に引きとめたようだが、野崎の決意は固かった。野崎は母子家庭で育っており、結婚をして家庭に入ることが、子供の頃からの夢だった。
芸能界から距離を置いてしまったため、自然、春禰と疎遠となってしまった――と周囲の人間は考えていた。
だが、春禰は野崎を心のよりどころにしていた。困ったことや悩みがあれば、野崎に打ち明け、相談していた。年に一度か二度、顔を合わす程度だったが、チャットで頻繁に連絡を取り合っていた。
そんな関係がもう十年も続いていた。
野崎の存在が事件を解決に導く。
柊と茂木は千葉県にある自宅に野崎を訪ねた。
年は四十過ぎ、小柄で肉付きが良く、笑っているかのような三日月型の小さな目が、柔和な印象を人に与える。毛量が多く、枝毛の多い髪が、生活の苦労を物語っていた。
「野崎さん。あなたは西城春禰さんが芸能界で唯一、心を許した人物だったようですね?」柊が尋ねる。
「彼女は成功し過ぎました。お金や仕事を求めて、人が彼女に群がってきました。そう言う人たちを相手に、芸能界の荒波を乗り切ってきた訳ですから、人が信じられなくなってしまったのも、無理はありません」野崎は冷静に答える。
「西城春禰さんが亡くなったことはご存知ですよね? それも殺害された」
野崎は意外な返事をした。「はい。知っております。彼女、俊一に殺されたんじゃないですか?」
「西城俊一に殺害された!? 何故、そう思うのです?何か知っているのですか?」
「あら、ごめんなさい。刑事さんの前で、憶測でものを言ってはダメですよね。何時も、子供たちにはそう言っているのに――」野崎はそう言って微笑んだ。
アパートの一室、リビング兼応接間で食卓を挟んで、柊と茂木は野崎と向かい合っている。小さな子供がいるのだろう。片付けても、片付けても散らかると言った感じで、部屋の中は玩具や子供服が散らばっていた。
「俊一が春禰さんを殺した。そう思うようなことがあったのですか? それを、是非、教えて頂きたいのです。最近、春禰さんと連絡を取り合っていましたか?」
「いいえ。あの子、用がある時は、頻繁に連絡を入れてくるのですが、何もない時は本当、なしのつぶてなんですよ。私も忙しいもので、もう何ヶ月も連絡を取っていませんでした」
「最近、連絡を取ったのは何時ですか?」
「そうですねえ・・・今年は一度も連絡を取っていませんから・・・去年の夏頃だったと思いますよ。そうそう、あの時だ。探偵さんのことで、連絡があった時だ」
「探偵? 詳しく話して下さい」
「はい」と野崎は頷くと、順を追って話し始めた。
話は二年前に遡る。「一昨年だったと思いますが、春禰から連絡がありました。久しぶりに会って話がしたい。食事でも一緒にしないかと言われて、彼女と会いました。その時、彼女、俊一の浮気を心配しているようでした」
やはり俊一の浮気だ。俊一が浮気をしていたとなると、離婚しても慰謝料は請求できないだろう。春禰殺害の動機となる。だが、話は意外な方向へ進み始めた。
野崎が言う。「旦那の浮気を確かめたいのなら、探偵でも雇って調べさせれば良いじゃない。私、知っている人いるわよ――と彼女に言いました。芸能事務所に勤めていましたから、そういうコネが出来ました」
「それで探偵を紹介したのですか?」
「それが、彼女、もう人に頼んで調べさせた――と言うのです。それで、どうだったの? と聞くと、それが・・・と言葉を濁します。しつこく尋ねると、頼んだ人が行方不明になったと言うのです」
「行方不明!?」柊と茂木の脳裏に、一人の名前が浮かんだ。
「何でもフリーの女性記者だそうで、春禰のプライベートについて、根掘り葉掘り調べ回っていたような人です。まあ、あの子も若い頃に色々とありましたから・・・」
(種市巧の妻、結衣のことだ!)茂木は思った。
「西城春禰さんの隠し子のことは存じております。芸能界の重鎮だった八木正大との間に出来た子だとか――」
「ああ、ご存知でしたか。でしたら、話が早い。芸能界では知っている人間もいたのですが、八木さんの権勢に恐れをなして、敢えて口にする人間はいませんでした。それを、フリーの女性記者が嗅ぎ付けて記事にしようとしたのです。寸でのところで、女性記者から記事を買い取って、表に出ないようにした――と春禰が言っていました。彼女、不倫のことを隠す気はありませんでしたが、あの当時、八木さんがまだ健在でしたからね。彼に迷惑をかけてはいけないと思ったのでしょう」
「知っています。先を続けて下さい」柊がいらいらと話の先を促す。
「女性記者から記事を買い取った時、ふと思いついて、仕事をしてみないかと尋ねてみたそうです。春禰は俊一の浮気を疑っていました。ある日、突然、俊一はジムに通うと言い出して、毎日、出かけるようになったそうです。主夫だなんて言っても、家政婦がいましたから、家でごろごろしているだけでした。ごくつぶしに過ぎません。ジムに通うことには春禰も賛成だったのです。ですが、厭きっぽくて、根性なしのあの男が、毎日、ジムで汗を流すなんて変です。飽きもせずに毎日、通う様子を見て、春禰も変だと思うようになりました」
「本当にジムに行っているのかどうか? もし、ジムに行っていないとすると、何処で何をしているのか、調査を依頼した訳ですね」
「ああ、そうそう、刑事さん。そうです。ところが、その後暫くして、調査を依頼した女性記者が行方不明になったと言うのです。春禰は心配していました。春禰の知らないところで、何か、恐ろしいことが起きているのではないかと――」
「それで?」
「私も心配になったので、少し、調べてみようかと言いました。すると、春禰は私まで行方不明になってしまったら、主人や子供たちに申し訳ない。そんなことになったら、とても私は生きて行けないと言うのです。そこで、じゃあ、探偵を雇ってみてはどうかという話をしました」
「ほ、ほう~それは面白い。それで探偵ですか?」
「はい。知り合いの探偵を紹介しました」
「二年前、あなたは西城春禰さんに探偵を紹介した。そして、昨年の夏、何があったのですか?」野崎は良かれと思って丁寧に説明しているのだが、柊には遠まわしに感じられるようだ。話の先を促された。
「ええ。それからちょくちょく、春禰にどうなったか聞いていたのです。そしたら、去年の夏頃、春禰から連絡があって、『色々、探偵さんに調べてもらったんだけど、残念だけど、結局、よく分からなかった』と言うのです。それで、どうするのか聞いてみたら、『ちょっと考える』と言っていました」
「何がどう、よく分からなかったのでしょうか? 探偵は何をどう調べていたのでしょうか?」
「詳しいことまでは・・・夫婦のことですからね。他人があれこれ、口出しするようなことではありません」
「なるほど。では、その探偵というのを、教えて頂けますか?」
「はい。私が紹介したのは、スペード探偵事務所の
柊は野崎の言葉の意味が分からなかったようだ。茂木は直ぐに気がついて、「ああ、『マルタの鷹』ですか。面白いですね」と口を挟んだ。
柊は「――?」と言う顔を茂木に向ける。
「マルタの鷹です。ご存知ありませんか? 有名な探偵小説です。ハンフリー・ボガード主演で映画化もされました。その小説に出て来る探偵がサム・スペードと言う名前なのです。そこから取って、スペード探偵事務所なのでしょう」茂木が解説する。
「ふん!」自分一人、分からなかったので、柊は面白くないようだった。「そのマルタカから話を聞く必要があるな」
「名刺があります」と言うので、柊と茂木は野崎から丸田孝昌の名刺を見せてもらった。
二人はスペード探偵事務所に丸田を訪ねることにして、野崎家を辞した。
スペード探偵事務所は有楽町の雑居ビルの一室にあった。
寂れた個人事務所を想像していたが、意外に小奇麗で、探偵事務所と言うより、不動産会社を思わせた。
探偵というと、ラフな服装の草臥れた人物をイメージしてしまうが、きちんと背広を着こなした細面のススキを思わせる、短髪で髪の毛の立った、細い人物が二人を迎えてくれた。小さな目は黒目ばかりで、吸い込まれそうだ。
丸田孝昌だ。内密の話が多いからだろう。事務所の一画に小部屋がいくつかあり、そのひとつに通された。窓の無い部屋は取調室を思わせた。
「で、本日はどのようなご用件でしょうか?」丸田が尋ねる。
「西城春禰さんが亡くなった件はご存知ですよね? 丸田さん、あなた、野崎博子さんから紹介を受けて、西城さんの為に調査をしていたと伺いました」
「ああ、やはりその件ですか。いずれ、私のもとに刑事さんが来るだろうと思っていました。まあ、想像よりちょっと遅かったですけどね」と言って、丸田が笑った。
笑うと、頬に深い皺が寄る。捜査が遅いと嘲笑されたと感じたようで、柊がむっとしたことが、隣にいた茂木には直ぐに分かった。
「有益な情報をお持ちでしたら、自ら警察に出頭して頂きたかったですな。それが、市民の義務ですから」
「そうですね。そうも思ったのですが、何せこちとら、微妙な立場ですからね。職業柄、相手が警察であっても、依頼人の秘密をべらべらと喋った――なんてことが世間に知れると、商売、あがったりです。探偵事務所は信用が命ですからね。やはり、私としては、こうして刑事さんが来て、問い詰められて、仕方なく白状したという形にしておきたいのです。市民の義務ですからね」丸田がまた頬に皺を寄せて笑った。食えない人物のようだ。
「西城さんからは、ご主人の浮気調査を頼まれたそうですね?」
「浮気調査といえばそうなのですが・・・まあ、西城俊一さんの浮気については、調査時点では完全にシロでしたね。たっぷり調査費用を頂きましたからね。こちらとしても、総出で彼を見張りましたが、浮気をしていた形跡は見られませんでした」
「浮気はなかった。そうですか・・・」
「刑事さん、言った通り、調査時点で浮気の証拠を押さえることは出来ませんでしたが、西城さんからは、それとは別に、過去のあることを調べて欲しいと頼まれました」
「ふふん。種市結衣の失踪のことですね。西城俊一が種市結衣の失踪に係わっているのかどうか、調べて欲しいと頼まれたのでしょう」
「ああ、流石に刑事さん。ご存知のようですね。でしたら、話が早い。事が事ですので、その件は私が自ら調べました。いくつか分かったことはあったのですが、結局、はっきりとしたことは分からなかったのです」
「分かったことだけで結構ですので、教えて頂けませんか?」
「う~ん。守秘義務がありますからね~」今更だ。案の定、柊が言う。「西城春禰さんは亡くなっているのですよ。それも殺されたのですよ。殺人事件の捜査です。今更、守秘義務も、へったくれも、ないでしょう」
「ですが、西城俊一さんはご健在ですからね~」丸田が渋る。
柊をからかって遊んでいるかのようだ。(後が怖いぞ)と茂木が思った途端、柊が言った。「丸田さん。先ほど、問い詰められれば喋ると言っていませんでしたか? もし、西城俊一が春禰さん殺害の犯人であったならば、あなたを証拠隠滅、いや、共犯として逮捕しますよ。こう言えば話してもらえますか?」
丸田は「うへっ!それは堪らないなあ~」と大袈裟に驚いて見せてから、已む無しと言った体を装って言った。「まあ、良いでしょう。警察では俊一さんが犯人だと疑っている訳ですね?」
当然、柊は答えない。「さあ、何が分かったのか、最初から、西城春禰さんか依頼があった時点から、順を追って話して下さい」と話を促した。
「はは、分かりました。野崎さんから紹介があって、西城春禰さんとお会いしました。日時を指定され、彼女の芸能事務所で、二人切りで会いました。そこで、西城春禰さんから、西城俊一が種市結衣さんの失踪と関係があるのかどうか、調べて欲しいと頼まれました。
種市結衣さんはフリーの雑誌記者で、西城春禰さんの周辺を探っていたようです。掴んだネタを雑誌社ではなく、春禰さんのもとに持ち込み、買い取ってくれないかと言ってきたそうです。体の良い恐喝ですよね」
「種市結衣が西城春禰に持ち込んだネタが何なのかも知っているのでしょう?」
「ええ、それも西城春禰さんから聞きました。芸能界のドン、八木正大と不倫関係にあって、隠し子までいるそうですね。それを聞かされた時には驚きましたが、その時はもう、八木正大は故人になっていましたので、彼女、気にしていませんでした。今更、隠し立てする必要などありません! ――って強気でしたよ。たくましい女性でした」
「それで?」
「八木正大のネタを持ち込んだ雑誌記者に、夫の俊一の素行調査を依頼したそうです。浮気を疑っていたようで、最近、様子が変なので、調べて欲しいと金を渡したそうです。ところが、その雑誌記者が行方不明になった。
そこで、先ずは失踪までの種市結衣さんの足取りを洗いました。いやあ、苦労しました。彼女、取材ノートを持ったまま行方不明になっていましたからね。目立つ人物じゃないし、秘密主義で取材のことは雑誌社や知人にも一切、秘密にしていました。足取りがまるで掴めなかった。そこで、発想を変えてみた。反対に西城俊一の行動範囲内で、彼女の目撃情報が無いか調べてみたのです」
「ほ、ほう~まるで刑事のようですね」
「はは、刑事さんから褒められるなんて、光栄だな。彼女、失踪する直前に、ある場所で頻繁に目撃されていました。そこはまあ、刑事さんとは違って彼女は素人ですから、尾行や張り込みに慣れていなかったからでしょうね」
「ある場所とは何処です?」
「西城俊一こと、山名俊一は一人っ子で、千葉県船橋市に実家がありました。西城春禰と結婚して、婿養子に入ったのでしょう。両親が健在ですが、西城春禰と結婚した際に、都内にマンションをプレゼントされ、二人はそちらに移っています。俊一の実家は俊一名義になっていて、空き家の状態です。
一戸建てですが、表通りから細い路地を入ったとことにあって、車で出入りするとなると、かなり不便です。しかも、前にでっかいマンションが建ってしまって、日当たりも悪い。マンションとは日照権の問題でモメたようですが、まるで陽が当たらない訳ではないし、住宅地として再開発が行われている地域でもあり、結局、泣き寝入りだったようです。
老人夫婦の二人暮らしだと、マンションの方が楽だったりする。西城俊一の両親は息子の嫁に感謝しながら、引っ越して行ったそうです」
「ほ、ほう~その西城俊一の実家周辺で種市結衣の目撃情報があったという訳ですね」
「いやだな~刑事さん。そう先回りされちゃあ。順を追って説明しろと言ったくせに――」と丸田が恨み言を言う。それを「ふん」と柊は聞き流す。
「一戸建てとは言え、民家がひしめき合っているような場所ですからね。身を隠そうにも、隠す場所がない。そんな場所でした。だからでしょうね。
最初はね。西城春禰さんから教えられた場所を調べていたのです。日頃、西城俊一が頻繁に顔を出すと言うレストランやジム、ブランド・ショップなんかをね。でも、種市結衣さんの目撃情報は出て来ませんでした。
それが、『ひょっとしたら――』と西城春禰さんから、西城俊一の実家の住所を教えられて、近所を聞き込んで回ったところ、もう出るわ、出るわで、目撃情報が出てきました」
「ほ、ほう~それは面白い。西城俊一は実家で何をしていたのでしょうか?」
「それは分かりません」丸田はあっさり答えた。
「分からない! それだけ調べて、分からなかったのですか?」
「私どもは警察ではありませんからね。調査には限界がありますよ。空き家同然でしたから、西城俊一の実家にこっそり潜入して調べてみたかったのですが、家宅侵入になってしまう。そういう訳には行きませんしね。
それに私どもが調査を行っている時期、西城俊一は実家に立ち寄っていません。
種市結衣さんは西城俊一の浮気調査をしていて、やつの実家に何かがあるのを嗅ぎ付けた。そこで、実家を見張っていた。そして、ある日突然、行方を絶ってしまった。西城俊一は実家にあった何かを、始末してしまったのでしょう。今はもう、実家に行く必要がなくなった。
そんなところですね。残念ながら、種市結衣の失踪と西城俊一との間に、関連があるのかどうか、はっきりとは分からなかった。そう西城春禰さんには報告しました」
「あなた自身はどう考えています? 種市結衣の失踪と西城俊一との間に関連があると思いますか?」
「はは。それを調べるのは刑事さんの仕事でしょう」丸田が突き放したように言った。
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