第三幕 阿房宮

容疑者十三・謎の脅迫者

 柊と茂木は車で阿房宮に向かった。

 宿泊費は出ないということだったので、昨夜は夜遅く一旦、前橋市に戻り、今朝早く、出直してきた。

 呪い谷へ乗り入れる。昨日、朝に舞った赤い雪は薄く固くなって、地面に貼りついていた。今日も灰色の空が覆いかぶさるように広がっている。

 谷底の村は今日も風が凪いで、まるで時が止まったかのようだ。村のあちこちから立ち上る温泉の湯気が、かろうじて村が生きていることを感じさせた。

「毎日、通うとなると大変ですね」ハンドルを握りながら茂木が言うと、助手席から「おいおい。殺人事件の捜査だぞ。現場百篇、これくらいで値を上げてどうする」と柊に怒られてしまった。ついさっきまで、居眠りをしていたくせに、偉そうだ。

 屋敷に着くと、見慣れぬ男がいた。

 男は中森昭市なかもりしょういちと名乗った。渡された名刺には「中森弁護士事務所」とある。東城グループ、そして秋香の個人的な弁護士だという。

 五十代だろう。髪の毛に白いものが目立つ。小柄で丸顔、広い額を左から右に、髪の毛を撫でしつけている。目が小さく、瞼と涙袋が綺麗な円を描いている。唇がやや分厚いが、全体的に、のぺっとした印象の薄い顔立ちだ。

 事件の連絡を受け、池袋から夜通し車を飛ばして来と言う。仕事を片付けてから、そのまま高速に乗り、車を飛ばして駆けつけて来たところだった。「徹夜ですよ」と中森は油の浮いた顔で言った。

 柊と茂木が一般家庭の居間くらいある阿房宮の玄関ホールで、中森と挨拶を交わしていると、誠一が二階から降りてきた。

「ああ、中森さん! 朝早くから、こんなところまで、ご足労頂いてすいませんでした。おや?刑事さんたち、まだ何かあるのでしょうか?」

「ええ、もう少し、お話をお聞きしたくて、やってきました。来客のようですが、ちょっとお時間、よろしいでしょうか?」柊が一応、遠慮がちに尋ねる。

「そうですね・・・あと二人、来ることになっていますから、それまででしたら大丈夫です。あまり時間はないかもしれませんが、よろしいですか?」誠一は明らかに迷惑そうだ。

「お時間は取らせませんよ」柊はそう言うが、どうせ時間など気にしない。

 誠一は「じゃあ、こちらの応接間に――」と柊と茂木を誘うと、奥に向かって、「飯島さ~ん! 中森さんがお見えです。取りあえず今晩、お泊り頂く部屋にご案内して下さい」と怒鳴った。

 中森が「助かります。シャワーを使わせてもらいますよ。皆さんが揃うまで、少し、部屋で休ませてもらえますかな」と誠一に言った。

 直ぐに飯島が飛んできて、「あら、中森さん。いらっしゃいませ」と挨拶をすると、誠一に向かって、「お部屋のご用意は整っております。ああ、そう、そう。誠一さんのお部屋にバスローブをお持ちしておきましたよ。変ですわね。バスローブがないなんて。私、ちゃんとご用意致しましたのに――」と言った。

 誠一は「ありがとうございます」とだけ返事をして、柊と茂木の背中を押すようにして、応接間へいざなった。

「すいませんね。飯島さん、悪い人ではないのですが、口うるさくて――」

「女性はみな、そういうものです」そう言えば、柊から家庭の話を聞いたことがない。意外に恐妻家なのかもしれない。

「中森さん、弁護士のようですが、どんな用事でこちらに来られたのですか?」

「はあ、それが、秋香の遺言書があるというのです。あの若さでしたから、遺言書なんて、まだ作っていないと思っていたのですが・・・」

「ほ、ほう~それは面白い」と柊が言ったものだから、誠一が眉をひそめた。面白いは不謹慎だろう。

「それでね、秋香の親族――と言っても、中森先生からご指名があった正春君と翔子さんの二人だけですが、こちらに呼んであります。もう直ぐ、二人がこちらにやって来ます。そしたら中森先生に遺言書を読み上げてもらうことになっています」

「こちらは東城社長の地元でしたよね。確か・・・ご両親が健在なのでは?」

「ええ、彼女は幼い頃に父親と死別して、母親は再婚しています。実父は事故で亡くなったとお聞きしています。彼女の義父と実母がこちらにいます」

「その二人、義理の父親と実母は呼ばないのですか?」

「そうみたいですね。中森先生によれば、彼女の両親は遺言書の内容と関係がないそうです。それで、声をかけていません」

「遺言の内容はどういったものなのですか?」

「さあ、それは聞いてみないと分かりません。彼女、何も言っていませんでしたから――」

「そうですか。ところで東城さん。上杉湯で一通り、関係者から話を聞いてきました。そうそう、作成いただいたリストの最初に名前があった秘書の佐藤さん。東城社長には『恩こそあれ、恨みはない』と言っていました。むしろ、あなたの方こそ、役者として干されていたのに、東城社長は何もしてくれなかったと恨んでいたと言っていました。どうです?」事情聴取の内容をべらべらとしゃべって良いのだろうか。

「あいつ、そんなことを言ったのですか! 冗談じゃない。刑事さん、あいつはね、会社をクビになることが決まっていたのですよ。秋香が死んで、クビを免れたつもりなのかもしれないが、そうは行かない。このままでは済ませませんよ」

「佐藤のクビが決まっていたのですか?」

「刑事さん、堀口久典という男と会いましたか?」

「会いました。本人は突然、会社をクビになったと言って、東城社長を恨んでいたようですが、佐藤秘書の話だと公金横領がバレてクビになったようですね」

「ふふん、佐藤がそう言ったのですか? あいつも同じ穴のむじなですよ。堀口に罪を押し付けて、自分だけ助かろうったって、そうは行かない」

「同じ穴の狢? 佐藤も公金横領に絡んでいたということですか?」

「あいつに会社の金を横領する度胸なんてありませんよ。そう言う意味では堀口以下だ。あいつはね、堀口が会社の金を使い込んでいることに気がついていて、それをネタにやつを強請っていたのです。それもまあ、金を寄越せとか言うんじゃなくて、飯をたかるとか、飲み代を払わせるとか、まあ、みみっちい強請り方でね。

 会社でも、問題にするのが馬鹿らしかったようです。ですが、秋香はそういうことが大嫌いでね。最近、その話をどこからか耳にしたようで、彼女、『私の信頼を裏切った』と怒っていました。秋香はあいつをクビにするつもりでした」

「ほ、ほう~それは面白い。佐藤さん、そんなことは、一言も言っていませんでした。なるほど~面白い」

「でしょう。秋香を殺したのは、あいつですよ。秋香を殺害し、何らかのトリックを使って部屋を密室にしたのでしょう。刑事さん、あいつが使ったトリックを暴いて下さい」

「まあ、お任せ下さい」と柊は胸を張る。

 その自信満々な様子に、端で見ていて茂木は(既に密室の謎を解き明かしているんじゃないか)と思った。だが多分、虚勢だ。

「ところで東城さん。あなたが作成したリストに八田楓さんの名前はありましたが、八田親子の名前がありませんでしたね? 楓さんは上杉湯にはいませんでした」

「八田親子? ああ、あのマダムと引き篭もりの息子のことですか。あの親子に秋香を殺すことなんて無理でしょう。恨んでいたのかでさえ、よく分からない。社長にたかって生きて行ければ、それで満足だと考えるような人たちです。変な話、秋香を殺す度胸があるのは娘の楓だけです。だから、彼女の名前を書いたのですが、そうですか、上杉湯にいませんでしたか。招待はしていますので、来なかったのでしょうね。まあ、彼女らしい」

「東城社長が到着した晩、八田親子が最初に会うことになっていたそうですね。それを、あなたが『頭痛がするので明日にしてくれ』と電話をした」

「ああ、そう言えば、そうでしたっけ。すいません。忘れていました。あちらさんから電話があったんじゃなかったかなあ~今からお伺いしますって。とにかくあの親子、最初に会いたいってうるさいんで」

「飯塚茉莉さんの名前も、あなたのリストにありましたが、上杉湯にいませんでした」

「まあ、彼女は呼んでも来ないでしょう」

「では、何故、名前を書いたのですか?」

「だって、刑事さんが彼女に恨みを持つ人間の名前を書いてくれと言うから。上杉湯にいる人間の名前を中心に書きましたが、あそこにいない人間でも良いのでしょう?誰が一番、彼女に恨みを持っているかと言えば飯塚茉莉なので、名前を書いておきました」

「なるほど。では、他にもここにはいないが、東城社長に恨みを持っている人間がいますか?」

「それはいるでしょう。ぱっと思いつきませんけど。彼女はやり手でしたから、敵が多かった。親しい人間なら、彼女は心が広くて、思いやりのある人間だと言うことを、よく知っているのですがね。仕事上の付き合いだけだと、彼女のことを冷酷で人の痛みが分からない人間だと思う人が多かったことでしょう」

「八田楓のように、今回、東城社長が招待したにも係わらず、こちらに来なかった人間を誰か、思い当たりませんか? 後でリストにして頂いても構いません。佐藤さんは今回、上杉湯に招待した顧客リストをあなたからもらったと言っています」

「ええ、秋香に誰を招くか聞いて、リストを作りました。なんだか、リストばかり作らされていますね。はは。そうですねえ・・・そうだ。僕も秋香の関係者を全て知っている訳ではありませんが、他に思い当たるのは西岡さんくらいですかね」

「その方はどういう方ですか?」

西岡工にしおかたくみさんと言って、都内でパン屋を経営している人です。佐藤と同じように、経営していたパン屋を東城グループに乗っ取られた形になったのですがね。ただ、西岡さん、気骨のある方で、直ぐに別の場所にパン屋をつくって、今もパン屋を経営しています」

「東城社長を恨んでいたのですか?」

「どうですかねえ~? パン屋を失ったのは、自分のせいだと思っていたみたいですよ。借金をした自分が悪いんだってね。新しいパン屋を出す時、秋香が支援を申し出たんですけどね。西岡さん、きっぱりと断りました。『あなたの世話にはならない』と言ってね。どうです、気骨のある人でしょう?」

「ええ、あなたとは違う人種のようですね。まあ、心の中では、どう思っていたか分かりませんけどね。それは、あなたも同じですけど――」余計なお世話だ。

 案の定、誠一がむっとした顔になった。

 柊が続ける。「こちらにいなかった八田楓さん、飯塚茉莉さん、そして西岡工さんのアリバイはこちらで確認を取っておきましょう。ところで、東城さん。お伺いしたかったことは、他にあります」

「刑事さん。そろそろ、二人が到着する頃なのですが、何でしょう?」誠一は話を切り上げたがっていた。ねちねちと嫌味を言われてはかなわない。

「佐藤さんから聞いた話によると、東城社長への脅迫状が、この屋敷に届いたと言うことですが、間違いありませんか?」

「あっ! ああ~すっかり忘れていました。ええ、ええ。あります。そうなんですよ、刑事さん。この屋敷に脅迫状が届いたのです。今、持ってきます」

 誠一は返事も聞かずに、応接間を出て行った。

 柊は茂木に向かって、「おい、係長に電話して、八田楓、飯塚茉莉、西岡工の三人のアリバイを調べておいてもらってくれ」と言った。

 係長に指示するなんて、どちらが上司か分からない。係長の直江なおえは大人しい性格で、柊はそれを良いことに、態度が横柄だった。直江は性格も大人しければ、印象も薄い平たい顔だ。

「分かりました。今から電話します」

 事情聴取の進捗状況を報告するのに丁度良かった。茂木は応接間に柊を一人、残して広々とした玄関ホールに出た。

 直江に電話をかけた。直江は直哉なおやと言う名前で、氏名に二つも直が入っている。県警内では「ナオさん」と呼ばれている。

「ああ、ナオさん。茂木です・・・はい、はい。柊さんと事件関係者から事情聴取を行っています・・・はい、分かりました」

 茂木は事情聴取の内容を直江に伝えた。そして、最後に柊から頼まれた八田楓、飯塚茉莉、西岡工の三人のアリバイ捜査を頼んだ。

 生真面目な直江のことだ。直ぐに捜査員に指示して、手分けをして、調べてくれるはずだ。

 直江への報告が終わり、部屋に戻りかけたところ、二階から誠一が降りて来た。意外に時間がかかった。柊が待ちくたびれていることだろう。

「刑事さん、ありました」と言いながら誠一が階段を降りてくる。「中でお伺いしましょうか」と誠一を応接間へ誘った。

 丁度、その時、コツコツと扉を鳴らして、来客があった。誠一がドアを開ける。外気が吹き込んできて、一瞬、玄関ホールを凍らせた。

 ドアの向こうに、近田翔子と石田正春の二人が立っていた。

「何でも私どもにご用事だとか。忙しい中、駆けつけて来ましたよ」誠一の顔を見るなり、翔子が嫌味を言った。誠一は苦笑いを浮かべるしかなかった。

 翔子の隣では、正春が所在な気に立っていた。

「すいません。お忙しいとこと、わざわざお呼び立てして。取りあえず、中にお入り下さい。寒かったでしょう。ちょっと立て込んでいて、直ぐに用事を片付けますので、リビングでお待ち下さい」

「あら、そう。呼びつけておいて、取り込み中なのね。まあ、いい。折角だから、お姉様が大好きだったハーブティーを飯島さんに煎れてもらって待っています。さあ、正春さん、中に入りましょう。風邪を引きそう」翔子は正春の腕を引っ張って、ずんずん中に入って行った。屋敷の勝手は分かっている。

「はは、刑事さん。ご覧の通りですので、手短にお願いします」

 茂木と誠一は応接間に戻った。案の女、柊は待ちくたびれていた。「やあ、お二人とも、もう戻って来ないのかと思っていました」茂木にまで嫌味を言った。

「すいません」茂木が慌てて言う。

 謝るのは茂木に任せて、誠一は「刑事さん。ありました。この手紙です。これが秋香宛に届いていた脅迫状です」と白い封筒を柊に渡した。

 長形四型と呼ばれる縦長の普通の白い封筒だ。阿房宮の住所だろう。封筒には呪い谷の住所が印字されていた。消印は新宿北郵便局のものだ。都内で投函されたものだ。

「ああ、ちょっと待って下さい」柊は胸ポケットから手袋を取り出すと、封筒を受け取った。封筒から便箋を抜き出して、慎重に開く。柊の手元を茂木が覗き込む。


 東城秋香様


 時間だ。

 お前がやってきた数々の悪行を悔い改める時がきた。金儲けのために、お前が踏みにじってきた人々に対して、命をもって償うのだ。

 天に代わって、制裁を加えてやる。

 呪い谷は、お前の死に場所として相応しい場所だ。お前のために泣かされた人々の呪いを受けて、苦しみながら死ぬのだ。

 死ね。死ね。死ね。

 お前のようなやつは、生きていれば人を苦しめるだけだ。死んだ方が世の中のためだ。

 呪い谷の屋敷で、お前は死ぬのだ。

 それがお前の運命なのだ。


 同じプリンターを使ったのだろう。封筒と同じような字体で、秋香の殺害予告が印字されていた。文面からは秋香に対する強い殺意を感じた。だが、脅迫者の身元に繋がるような表現は一切無かった。ただ、秋香に対する恨み辛みが書き連ねてあるだけだ。

「これを見ただけでは、事件に関係があるのかどうか、分かりませんねぇ~まあ、鑑識に調べてもらいましょう」そう言って、柊は脅迫状を茂木に渡した。

 茂木が大事そうに胸ポケットに仕舞う。

「ところで、東城さん。お待ちかねの客人が到着したようですね。いよいよ東城社長の遺言書が公開されるのですね」

「はい。ですので、この応接間を使いたいのですが・・・」

「我々も、その遺言書の公開に立ち合わせてもらって、構いませんか?」

 柊は遠慮がない。誠一は「えっ!」と複雑な表情を浮かべた。明らかに迷惑そうだ。

「そ、そうですね・・・プライベートなことですので、出来れば私たち、関係者だけにして頂いて、ご遠慮頂きたいのですが・・・」誠一が渋ると、「ええ、勿論、無理にとは申しません。東城社長が亡くなり、誰が一番、利益を得るのか、それを知りたかっただけです。当然、最も利益を得る人間が疑わしいことになります」と柊がねじ込んだ。

「そう言われましても・・・では、中森先生と相談してみます」

 自分からは断りづらいので、中森に断ってもらうつもりなのだ。

 柊と茂木は応接間で待たされた。やがて、誠一に連れられて、中森、翔子、正春がぞろぞろと部屋に現れた。

「刑事さん。東城秋香氏の遺言書の公開に立会いたいそうですね」中森が部屋に入ってくるなり言った。

「いけませんか?」柊は挑発的だ。

「あくまで私的なものですので、本来はご遠慮頂きたいのですが、東城社長があのような形で亡くなられたことですから、遺言書の内容が事件に絡んでいるのではないかと心配しています。そこで、どうでしょう?皆さん。皆さんの同意があれば、刑事さんたちが同席できることにしてはいかがでしょうか?」

「ああ、それで結構です」と柊が賛同する。柊の同意は必要ない。

「近田翔子さん」と中森に指名された翔子は、「私は構いませんよ。あのお姉さんが私に遺言したことなんて、どうせ説教がましいことに決まっていますから。それに、この刑事さん、しつこいから。ダメだと言ったって、どうせ、後からあれこれ聞かれるに違いありません。だったら、今、一緒に聞いてもらった方が早い」と言って、柊を見てにっと笑った。

 柊は無表情だ。

「石田正春さん、あなたはいかがですか?」中森に名指しされた正春は「俺はどっちでも良いよ。刑事さんたちが聞きたければ、聞いてもらって構わない」と同席を認める発言をした。

 残りは誠一だ。

 翔子と正春が同席を認めてしまったので、断り難い雰囲気になってしまった。誠一は渋々といった感じで、「僕も刑事さんたちに聞かれて困ることはありません」と同席を認めた。

「よろしいでしょう。では、刑事さんたちの立会いのもと、東城秋香氏の遺言書を公開しましょう」中森が宣言をするように言った。

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