容疑者十・金井明

「私が連れて来てあげる」と翔子が部屋を出ていった。

 建て付けの悪い窓枠をガタガタと揺さぶっていた風が収まると、また重くのしかかるような静寂が訪れた。外は既に暗闇に塗りこめられているはずだ。

「ふむ、ふむ」と柊はうめき声を立てながら、何事か考え込んでいた。先ほどの翔子との会話を反芻しているかのようだった。

 静寂の中、遠くから微かに「カア、カア」とカラスの鳴く声が聞こえた。

「おや、こんな時間にカラスが鳴いていますね。カラスが夜に鳴くと、地震の前触れだっていう言い伝えがあるのを知っていますか?」茂木が言うと、「ふん。迷信だ。カラスが夜に鳴くのは、仲間に危険を知らせるためだ。繁殖期にも鳴くそうだが、時期的にまだちょっと早い」と柊が答えた。

「おや、柊さん。やけにカラスの生態に詳しいですね」

「別に詳しくなんかない。常識だ」

「そうですか。すいませんでした。でも、カラスの鳴き声を聞くと、何だか不吉な感じがするから妙ですね」

「それも、あの真っ黒な姿を想像するからだ。ふん。今でこそ嫌われ者だが、神話の時代には、カラスは縁起の良い鳥だったらしいぞ。八咫烏って聞いたことがあるだろう?」

 柊の言葉を聞いて、(嫌われ者って、柊さんみたいだな。柊さんも神話の時代なら、人気者だったかもしれない)と茂木は思って可笑しくなった。

「はい。聞いたことがあります。やっぱり柊さん。カラスに詳しいですね」

「ふん。カラスなんて珍しくない」

 程なく、翔子が中年の男を連れて部屋に戻って来た。「じゃあね、刑事さん。後はよろしくね」そう言い残すと、翔子は部屋を後にした。

 男は四十代後半、腹回りに若干、肉がついて来ているが、総じて細い。背が高く、足が長くて、顔まで細い。線のように細い顔にかかった、鼻からずり落ちそうな丸眼鏡が知性と個性を感じさせた。八の字になった眉毛が気の弱そうな印象を与えた。

「金井さんですか?」と柊が尋ねると、「金井明です」と小さな声で返事をした。細い体に似合わず、低くて野太い声だ。

「昨晩、東城秋香社長が殺害された事件はご存知ですよね? こちらへはどういう、ご用件でいらっしゃったのですか?」

「はい。食事の時に、仲居さんから聞きました。村中、その話でもちきりのようですね。ここに来た訳ですか? ただ、招かれたから来ただけです」

「招かれた? 東城社長にですか?」

「はい。そうです」金井は伸びのある低音で答える。

「昨晩はどこにいらっしゃいました」

「ここにいました。食事をしてから、温泉に行きましたが、外出はしていません」

「それを証明できる人はいますか?」

「温泉に人はいましたけど――」

「何時頃でしょうか?」

「さあ、八時頃だったと思います」

「どなたと一緒だったのですか?」

「名前までは存じません。中年の男性の方がいらっしゃいました。入れ違いで、直ぐに出て行かれましたけど」関口忠明かもしれない。

「東城社長とはどういったご関係でしょうか?」

「彼女が高校生だった時、漢文を教えていました」

「ほ、ほう~それは面白い。高校の先生だったと。それだけの縁で、ここに呼ばれたのですか?」

「ええ、まあ」金井はずり落ちそうだった丸眼鏡を、人差し指で上げた。

「時間の無駄ですので、単刀直入に伺いましょう。あなたは当時、高校生だった東城秋香さんを強姦して、学校をクビになった。違いますか?」柊のことだ。遠まわしな言い方はできない。

 金井は柊の挑発には乗らずに、「はあ、まあ、そういうことになっていますかね」と他人事のように答えた。

「それで、よくまあ、しらっと、ここに来ることができましたね。まさか、東城社長に招かれた訳ではないでしょう?何をしに、ここに来たのです?」

 金井がさらりと答える。「刑事さん。私は東城秋香さんに招かれて、ここに来たのです」

「東城社長に招かれた!? 東城社長が自分を強姦した人間を、招待したと言うのですか?」

「刑事さん、強姦、強姦って言いますけどね、私と彼女の間に、そう言った負の感情はありません」

「ほ、ほう~合意の上だったと言うことですか?」

「私と彼女は愛し合っていたのです。彼女、漢文に興味があって、授業が終わってから、色々、尋ねに来ていました。彼女は頭が良い。時に、私が答えられないようなことを聞いて来たりしました。彼女の質問に答えられないと、私もむきになってね。お互い、若かった。

 ある時、彼女から詩をもらったのです。刑事さん、『七歩詩ななほのうた』をご存知ですか?」

「知りません。詩とか、感心がないもので――」

「三国志はご存知でしょう? 三国志では損な役回りを与えられていますが、魏の曹操そうそうが亡くなった後、息子の曹丕そうひが跡を継ぎます。魏の文王です。

 曹丕も漢詩が上手かった。だが、弟の曹植そうしょくの才能はずば抜けていました。その才能は父、曹操からも愛されていましたので、曹丕は弟のことを羨んでいた。嫉妬でしょうね。皇帝になると、曹植を殺してしまおうと、『七歩歩くうちに詩を作れ』と無理難題を突きつけます。男の嫉妬は質が悪い。その時、曹植が読んだ詩が七歩詩です」

「それが何か?」

「その詩の一節にこういうのがあります。『萁在釜下燃、豆在釜中泣』、『豆ガラは釜の下で燃え、豆は釜の中で泣く』という意味です。彼女から、受け取った手紙に、この一節が書かれていました。分かります? 刑事さん」

「いいえ、さっぱり。何が言いたいのですか?」

「一説の後はこう続きます。『豆も豆がらも、同じ根から育ったものなのに、豆がらは何故、そんなに豆を激しく煮るのか』とね。要は『兄よ、私たちは兄弟なのに、何故、私を殺そうとするのですか?』ということを曹植は歌に詠んだ訳です。

 私と彼女の仲が学内で噂になり始めていた時期でした。彼女が送ってくれた詩には、私たちは『同根』、常にひとつだと言いたかったのだと思います。当時、私も若かった。気がついたら、彼女の虜になってしまっていました」淡々と金井が話す。

「それで、放課後、彼女を襲ったのですか?」

「刑事さん。ドラマの見すぎです。私たちの関係はずっとプラトニックなものだったのです。それを周りが勝手に邪推して噂になった。当時だって、教師と生徒の恋愛はご法度です。進学校でしたからね。特にその辺は厳しかったのです。

 事実なんてどうでも良い。噂になるのが困る。そんなことを、教頭から言われました。やましいことなんて、何も無かった。お互い、正々堂々としていれば良い、彼女にもそう言いました。でもね、このままだと私が学校を辞めるか、彼女が退学になるかだと学校側に脅されました。彼女には輝かしい将来がある。それを、私のせいでダメになんて、そんなこと出来ない。だから、私が身を引いたのです。色々、言われましたよ。でも、彼女が批難されるくらいなら、私が汚名をきたほうが良い。だから、敢えて何も言い返しませんでした」

「東城社長のため、敢えて汚名を着たということですか。しかし、二十年前の話でしょう。何故、今、あなたがここにいるのです? 焼けぼっくいに火がつくで、偶然、再開する機会でもあって、復縁したのですか?」

「いいえ。彼女とは、あれからずっと会っていませんでした。思いもよらず、今回、ここに呼ばれて、正直、悩みました。彼女は既に結婚していて、仕事でも成功しています。私もね、紹介してくれる人がいて、結婚しました。子供が二人います。お互い、年をとった。今更、彼女と会っても、がっかりするだけだと分かっていましたからね。それでも、会ってみたかった。会いたいと言う気持ちを止めることが出来なかったのです」

「それで、のこのことやって来た訳ですか? それで、東城社長と会えたのですか?」

「いいえ。会う前に殺されてしまいました」

「それはお気の毒でした。二十年振りだったのでしょう? しかし、何故、東城社長は、過去の遺物のような、あなたを呼んだのでしょうね? ここには彼女に恨みを持つ人間が、まるで呼び集められたかのようにいます」

 柊の嫌味をさらりと聞き流して、金井は「私には彼女の気持ちが分かるような気がします」と言った。

「ほ、ほう~それは面白い。過去に愛し合っていただけあって、東城社長の心が分かると言う訳ですね。先生、是非、教えてもらえませんか?」

 柊の皮肉なもの言いに、「刑事さんは、雍歯ようしという人物を知っていますか? まあ、知らないでしょうね。中国の古代、秦末から漢代初めにかけて実在した武将です」と軽くジャブを当ててから、説明を始めた。

 悪名高い始皇帝の死後、劉邦りゅうほう項羽こううという二大勢力が天下を争った。「力は山を抜き、気は世を蓋う」と誰もが認める不出世の豪傑、項羽に対して、寄せ集め軍団の劉邦軍は戦えば必ず負けた。

「劉邦軍はとにかく弱かった。百戦百敗といわれるほど、戦に負けならが、最後には勝利をおさめました。逃げ上手だったこともありますが、劉邦は人材の扱いがうまかった。個人的武勇に優れていたため、人を登用することに熱心ではなかった項羽と対照的です。劉邦は項羽の幕下で冷遇された戦の天才、韓信をいきなり大将軍に取り立てたりしています。他にも、天才軍師、張良ちょうりょう、丞相の蕭何しょうかなど、劉邦のもとには多士済々な人物が集まっていました。

 項羽を倒して天下を取った劉邦でしたが、戦後の論功行賞に困りました。劉邦は功績が大きい順に褒賞しようと考えましたが、ある日、庭のあちこちで、部下たちが数人、集まって密議をしているのを目撃しました。

 張良に、彼らは何を話し合っているのか尋ねたところ、『彼らは謀反の相談をしています』と答えます。驚いた劉邦はその訳を尋ねます。

 張良が答えます。『今までに褒賞された人は、蕭何や曹参など陛下の親しい者ばかりです。彼らは恩賞を求めて陛下に仕えたのです。それが不満な彼らは謀反を起こそうと密談しているのです』

『どうすれば良いのじゃ?』劉邦が重ねて尋ねると、『陛下が一番、憎んでいるのは誰ですか?』と張良は尋ねます。『雍歯だ。あいつには過去に何度も裏切られて、殺したいほど憎んでいる。それを知らぬものは天下広しといえど居ないだろう』と劉邦は答えます。

 こういった素直さが劉邦の特徴です。

 張良が言います。『ならば先ずは雍歯に恩賞を与えなさい。そうすれば皆、安心するでしょう』劉邦は素直な男です。張良の進言通り、雍歯に恩賞を与えると、『雍歯ですら賞されたのだ。心配は無用だ』とみな安堵し、密談はぴたりと止みました」

「中国の歴史を長々と講義して頂いて、ありがとうございます。さて、それが東城社長とどんな関係があるのでしょうか?はて、何を聞きたかったのか、忘れてしまいました」

「彼女は漢籍に詳しかったですからね。当然、雍歯の話は知っていたと思います。ご質問は彼女が何故、自分に恨みを持つ人物を、ここに呼び集めたのかということです。分かります? 彼女はね、こうして自分に恨みを持つような人物でさえ、全額、費用を負担して温泉に呼んで、話を聞こうとしています。この話を聞けば、彼女の周りの人間はこう思うでしょう。『ああ、あんなやつでさえ、東城秋香という人は見捨てたりしない。自分は大丈夫だ。東城秋香は決して自分を見捨てたりなんてしない』ってね」

「ほ、ほう~それは面白い! いやはや、思ったより参考になりました。あなたの話を我慢して聞いた甲斐があった。東城社長をよく知り、こうして招かれたあなただからこそ、理解できたことなのでしょうね」褒めているか、けなしているのか分からない。

 柊は思ったことを直ぐに口にしてしまう、ある意味、素直な男だ。

「は、はあ・・・」金井は複雑な表情を浮かべた。

「そう言えば丘の上のお屋敷を阿房宮って名づけているらしいですよ。あれも漢籍からの知識だとか」

「阿房宮? はは、彼女らしい。阿房宮は秦の始皇帝が天下統一後に、新たに築いた宮殿でした。結局、始皇帝が生きている間には、完成しませんでした。始皇帝の死後、劉邦と天下を争った項羽により焼き払われています。宮殿が焼ける炎は三ヶ月の間、燃え続けたといわれています。よほど、巨大な宮殿だったのでしょうね」

「東城社長は巨大な屋敷を自慢したかったのですかね?」

「そうではないでしょう。自分の栄華なんて一瞬のものに過ぎない――そういうはかなさを、阿房宮と名付けることで表したかったのだと思いますよ。そうそう刑事さん、ここが何故、呪い谷と呼ばれているか、訳をご存知ですか?」

「さあ、知りません。興味もありませんがね」

「はは、そう言われると、話が続きませんね」

「東城社長と係わりのあることでしたら、話してもらって構いませんよ」

「どうにも話し難いなあ。ここではね、風花と言って、晴れているのに雪が降ることがあるのです。天気雨の雪版だと思ってもらえば結構です。それが朝焼けや夕焼けと重なると、雪が真っ赤に見えるのです。その赤い雪が降るのが不気味だと言われ、呪い谷と呼ばれるようになったというのが由来のひとつになっています。昨日の朝も、その風花が降りました。初めて見ましたが、不気味なものでした。東城さんが殺されたと聞いた時、あの赤い雪が真っ先に頭に浮かびました」

「ああ、そうですか」柊の反応は薄い。この手の話が苦手なのだ。

「もう、ひとつ由来があって、刑事さん、新田義興にったよしおきという人物をご存知ですか? 新田義貞の次男になります」

「ああ、新田義貞なら分かります。太平記ですよね?」

「新田義貞は後醍醐天皇による建武の新政の立役者の一人です。地元、群馬が生んだ英雄の一人です。源氏の一族で、太田市あたりの新田荘の荘官に任じられたため、新田氏を称しました。新田義貞は鎌倉幕府を攻め落としましたが、足利尊氏と対立し、後醍醐天皇の南朝方につきました。楠正成と共に、一度は足利尊氏を九州に追い落としますが、その後、勢力を盛り返した尊氏軍に敗れ、敗走します。最後は越前で戦死しています」

「その次男坊が何か?」

「いえね。義興は父親の死後も足利幕府に抵抗を続けます。尊氏の子で鎌倉公方だった足利基氏は、竹沢右京亮という人物に義興の討伐を命じます。そこで、竹沢は少将局という美女を与え、義興が油断した隙に謀殺しようとしました。史実では義興は多摩川の矢口渡しで謀殺されています。ところが、ここ呪い谷には新田義興にまつわる別の伝説があるのです」

 長引く歴史の講釈に、柊は退屈そうだ。

「ご興味が無さそうなので、簡単に言いますが、新田義興は少将局を伴って、ここ呪い谷に湯治にやって来ます。少将局はそのことを密かに竹沢に伝えました。竹沢は急ぎ義興討伐の兵を差し向けます。何も知らない義興は呪い谷の湯殿で、丸裸のところを惨殺されました。

 湯殿で襲われた義興は『さても卑怯なり! 例えここで命尽きようとも、悪霊となってお前たちを呪ってやる!』と叫んだという言い伝えがあります。

 ここは上杉謙信にちなんで、上杉湯と名乗っていますが、かつては呪い湯と呼ばれていたそうです。ここで新田義興が惨殺されたのです」

「そうですか。ここの温泉に入るのが、嫌になりますね」

「ええ、だから上杉謙信が湯治に来たと言う史実はありませんが、上杉湯と名前を変えたのでしょうね」

「東城社長と関係のないお話でしたが?」

「ああ、すいません。昔、彼女が少将局のことを、貂蝉ちょうぜんのようだと言っていたのを思い出したものですから、長々と新田義興の話をしてしまいました」

「貂蝉ですか? 知りませんね」

 金井が「貂蝉のこと、説明してもよろしいでしょうか?」と尋ねると、「簡単にお願いします」と柊に釘を差された。

「貂蝉は『三国志』に登場する絶世の美女のことです。後漢末、皇帝の権力が衰えると、董卓どうたくという人物が権力を握ります。後漢の高官だった王允おうじゅうという人物が、横暴の限りを尽くす董卓を排除するために、娘の貂蝉を董卓と彼の有力な武将だった呂布りょふという人物に近づけます。貂蝉の美貌に目がくらんだ二人は彼女を巡って争い、仲たがいを始めます。結局、董卓は呂布に殺されてしまいます。

 新田義興を謀殺するために、彼のもとに送られた少将局と貂蝉は、どこか似たところがある――そう彼女は言っていました。ここに来ると、色々なことを思い出します」

「東城社長と昔話をすることができたのですか?」

「刑事さん。先ほど、彼女と会う前に、事件が起きてしまったと言ったはずです」

「そうでしたか? まあ、東城社長はこちらに来て直ぐに殺害されたようですので、誰とも会えていないようです」

「そうなのですね。私はてっきり、避けられているのかと思いました」

「やましいことは無かったのでしょう。東城社長があなたを避ける理由はなかったのでは?」

「刑事さん。彼女と別れてから、もう二十年ですよ。月日は残酷なものです。会うと、彼女を失望させてしまうのではないかと、私は怖かった。私が知っている彼女は、高校生のままなのですから。彼女だって同じように考えたかもしれません。女性なら、尚更でしょう」

「そう言うものですかね」その辺の微妙な機微は柊には分からない。

「いいです。忘れて下さい。刑事さん、もうひとつ、お教えしておきましょう。ここには私なんかより、余程、怪しい人物がいます。今、ここ、呪い谷に帰って来ていると聞きました。彼はきっと、私より、彼女のことを恨んでいたと思います」

「ほ、ほう~それは面白い。その怪しい人物とは誰のことでしょうか?」

 怪しい人物がまた浮上してきた。

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