容疑者三・古市卓巳

 これと言って観光や買い物をする場所もない温泉街だ。宿泊客は湯治以外にすることがない。冬場でなければ近隣の渓谷を散策することくらい出来るのだが、山の天気は変わりやすい。冬場に迂闊に出歩けば、命に係わる。

 湯治以外の楽しみと言えば、上杉湯の門前にある小木乃屋に飲みに行くことくらいだ。

 旅館はほぼ満室だと聞いていたが、染み入るような静けさに支配されていた。冬場とあって、鳥や虫の鳴き声もなく、この世から切り離された世界にいるようだった。

 古市卓巳は部屋にいた。

 仲居に呼ばれてやってきた古市は三十代、百八十センチを越える堂々たる体格をしていた。肉体派の茂木と比べて遜色のない体つきだ。黒々と太い眉毛に剃り跡が青々しい。角張った顎の男らしい顔つきだ。威圧的な体格に似合わない小さな目が優しそうな印象を与える。

 肩から斜め掛けで小さなショルダーバッグを吊るしている。貴重品でも入っているのだろう。

「どうも――」と小さく頭を下げながら、テーブルを挟んで柊、茂木と向かいかって座った。寡黙な人物のようだ。

「さて、古市さん。昨夜、村はずれの屋敷で、東城秋香さんが殺害されたことはご存知ですよね?」

 古市はポケットから鼻スプレーを出すと、鼻腔内にシュっと噴霧して、鼻から息を吸った。「すいません。鼻炎なものでして。ええ。さきほど、呼びに来た仲居さんから聞きました」

「おや、随分、おしゃべりな仲居さんのようですな。仲居さんに聞くまで、東城社長が殺されたことはご存知なかったのですか?」

「知りませんでした」

「ほ、ほう~では、昨夜の八時から十一時の間、どこで何をしていらっしゃいましたか?」

「昨夜の八時から十一時ですか? 部屋にいました。部屋でテレビを見ていました。それから寝ました」

「どなたか、それを証明してくれる人はいますか?」

「いませんね」

「となると、アリバイはないと言うことですね。あなたは東城秋香さんを殺したいほど、憎んでいた。違いますか?」

 単刀直入な台詞に、古市は「殺したいほど憎んでいた?」と呟いてから、暫く沈黙し、「ああ、まあ、そうかもしれませんね」と柊の言葉を認めた。

「あなたは東城社長を恨んでいた。一体、東城社長との間に、何があったのですか?」

 古市はポケットから鼻スプレーを取り出すと、ちらと見てからポケットに戻した。さっき、噴霧したばかりだということを思い出したのだろう。

「私の妻は雑誌の記者をやっていました。フリーの記者で、まあ、その、有名人のゴシップなんかを追いかけていました。褒められた仕事ではなかったかもしれません。でも、生きて行くためには仕方がなかったのです。それもこれも、私の稼ぎが悪かったからです」

 古市は自動車部品を作っている工場で派遣社員として働いている。

「ゴシップ雑誌の記者をやっていたのですね。過去形だと言うことは、奥さんに何かあったのですか?」なかなか鋭い。

「二年前に家を出たきり、戻って来ません。行方不明なのです。私に愛想をつかして、家を出たのかもしれません。ですが、もう二年の間、一度も、彼女の両親や妹にさえ、連絡を取っていないのです。事故に巻き込まれたに違いありません」

 古市卓巳の妻、結子は二年前、家を出たきり戻って来なかった。

「なるほど。分かって来ました。あなたの奥さんは失踪前に東城社長に関するスクープを狙っていた。だから、あなたは東城社長に消されたのではないかと考えた訳ですね?」柊が先回りをして言う。古市が「ああ、刑事さん、その通りです」と答えたものだから、柊は「はは」と満面の笑顔になった。

「妻は失踪前に東城社長のゴシップを追っていました。雑誌社に売れそうなネタを掴んだと張り切っていました。そして、行方不明になりました。私が東城社長を疑うのも無理はないと思いませんか?」

「あなたは奥さんを東城社長に殺されたと思い、彼女を恨んでいた。だから、彼女を殺したのですか?」

「はは、まさか。私は東城社長を殺してなんかいません。彼女を殺してしまうと、妻の行方が分からなくなるじゃないですか。それに私に、そんな度胸なんてありません。

 確かに東城社長が妻を殺害したのではないかと疑っています。その件で、東城社長に会って話を聞いたこともあります。東城社長は妻と会ったことは認めました。ですが、ゴシップ記事は金で方を付けたと言っていました。実際、行方不明になってから分かったのですが、妻の銀行口座に見たこともないような金額が振り込まれていました。ええ、勿論、東城社長からの送金です。雑誌社に売るより、はるかに良いお金になったと思います」

「お金を受け取っていたのに行方不明になった? 古市さん、それはもしかして、あなたの奥さんは東城社長を恐喝していたのではないですか? 東城社長からお金を受け取った。だが、それに味を占めて、まだ搾り取れると考えた。恐喝を繰り返して、東城社長に殺された」

「刑事さん、私の妻はそんな卑劣な人間ではありません」

 口では否定したが、心の奥底では疑いを捨てきれないのだ。夫婦は金に困っていた。貧すれば鈍する。妻の結子が秋香を恐喝していなかったと言い切れないことを、古市自身、分かりすぎるほど分かっていた。

 結子は秋香を恐喝し、そして、殺された。殺される原因は結子にあったかもしれない。

 古市は心に沸いた疑念を打ち消すかのように言った。「東城社長にはよくして頂いています。妻が行方不明になったと聞いて、とても心配して頂きました。毎年、ここに呼んで下さいます。宿泊代も交通費も、全て東城グループの負担です。私が東城社長を殺すなんて、ありえません」

「そうですか? 例えば、奥さんが東城社長に殺されたと言う証拠が見つかったとしたら、どうです? 東城社長を殺してやる――と思うのではありませんか?」

「そ、それは・・・まあ、そうかもしれませんが、妻の遺体はまだ見つかっていません。死んだとは限りません。警察だって、捜索願を受け付けただけで、本気で妻の行方を捜してくれようとはしてくれていませんよね。妻はまだ何処かで生きている、私はそう信じています」

「捜索願を受理した以上、失踪者の捜索はちゃんと行われています。遺体でも見つかって事件性があれば、殺人事件として捜査が始まるでしょう」まるで古市を挑発しているかのような発言だ。

 隣で聞いていた茂木は古市に同情した。

「ああ、そうだ、刑事さん。私が東城社長を疑うのは、もうひとつ理由があるのです。妻が失踪する数ヶ月前、東城社長はここ、呪い谷で山をひとつ買っているのです。妙仏山というお屋敷の裏手に広がる山です。特に目的があって山を手に入れた訳ではないようです。購入後は、立ち入り禁止にして、ほったらかしになっています。どうです? 刑事さん、変だと思いませんか?」

「ほ、ほう~それは面白い。死体を埋める為に、山をひとつ買ったと言いたいのですか?」柊は察しが良い。やはり優秀な刑事だ。

「東城社長にとっては、こんな僻地の山をひとつ買うなんて、はした金でしょうからね。私はね。妻を捜して、この近辺を隈なく歩き回ったのです。ですが、妙仏山は私有地ですから、勝手に入ることができない」

「東城社長が山への立ち入りを認めてくれないのですね?」

「いえ」と古市は、ばつが悪そうな顔をした。「山への立ち入りは認めてくれるのですが、それも社長がここに滞在している間だけです。後は管理が大変だとかで、勝手に入れてはくれません」

「なんだ、ちゃんと認めてもらっているのではありませんか。あちらさんとしても、留守の間に勝手に山に入って荒しまわられては迷惑でしょう。特に怪我でもされたら。それはそれで仕方ありません」

「刑事さん。行ってみてくださいよ。とにかく、あんな広くて大きい山、一週間くらい歩き回ったって、たかが知れています。それこそ大人数で、徹底的に捜索しないと――」

「そうですか? 一日、歩き回ると、一周くらいできるのではありませんか? 一週間もあれば、ほとんど見て回れるのではないですか?」

「そ、そんな無茶苦茶な! もし、地中に埋められていると――」古市はそこで言葉を切るとかぶりを降った。それ以上は考えたくないというジェスチャーだ。

 頭の回転は早いが、気遣いに欠ける柊がきっちりとフォローをしてくれる。「ほ、ほう~それは面白い。死体が地中に埋められているとすると、それを探し当てるのは至難の業だと言いたいのですね。まあ、そうでしょう。しかも、時間が経てば経つほど、死体を埋めた場所は分からなくなります。大雨でも降って、土砂崩れでも起きて、そこにたまたま死体が埋まっていない限り、地中の死体が地表に現れることはないでしょう。可能性は限りなくゼロに等しい」

「ああ、刑事さん。もう結構です」古市が苦々しく遮った。

 古市の気持ちを察した訳ではないだろうが、「ところで――」と柊は話題を変えると、「奥さんが追っていた東城社長のゴシップがどんなものだったのか、ご存知ありませんか? ひょっとしたら、今回の事件と関係があるかもしれません」

「ああ、そうですね。そうですよ。私なんぞ疑っていないで、彼らを調べてみた方が良い」

「彼ら?」

「妻は何時も取材ノートを持ち歩いていました。ゴムバンドの付いた、ちょっと大きめの手帳なのですが、残された私物の中にありませんでした。それがないと、詳しいことは分かりませんけど、大体のことは妻から聞いています。刑事さん、八田正武はったまさたけと言う人間をご存知でしょうか? ほら、新聞配達から不動産王に成り上がり、最後は国会議員にもなった、あの人です」

「名前は聞いたことがあります。その八田さんが何か?」

「東城社長は八田正武の愛人だったのですよ」

「ほ、ほう~それは面白い」

「東城社長がエステ・チェーンを都内に展開できたのは、背後に八田の財力とコネがあったからです。随分とあくどいことをやったみたいですよ。ほら、秘書をやっている佐藤さん。彼も実家の工場を借金のかたに取り上げられたと聞きました」

「佐藤さんからは、話を聞いてあります。それで――?」

「東城社長が八田と知り合った頃、彼女はまだ独身でした。ですが、八田には奥さんがいて、子供もいました。不倫関係だった訳です。妻の調査で、二人の間に隠し子がいることも分かっています。八田の奥さんは心中、穏やかではなかったでしょうね。

 ゴシップが表に出ると、八田の名前に傷がついてしまう。だから極秘だった。でも、東城社長にとって、八田の妻の存在は目障りだったと思います。しかもね、刑事さん」寡黙だった古市が水を得た魚のように、よく喋る。他人のゴシップを暴露する喜びは、人を饒舌にさせるようだ。「八田が亡くなってから、八田の不動産会社は東城社長の会社に乗っ取られたようですよ。ミイラ取りがミイラになるってやつですかね。会社の経営は、実質、東城社長に牛耳られていて、八田親子は身ぐるみ剥がされて放り出されたという噂です。正妻の立場を使って、嫌がらせでもしていたのかもしれませんね。それで、東城社長の恨みを買って復讐された。そんなとこですかね。自業自得ですね」

「八田親子は東城社長を恨んでいたということですね?」

「そうです。刑事さん、その八田親子もこの旅館に宿泊しています。ちらりと見かけただけですけど、間違いないと思います。休みの日に妻の仕事を手伝って、書類整理をしたことがありますので、写真を見て、八田親子の顔は覚えていました」

「ほ、ほう~それは面白い」柊がにやりと陰険な笑顔を浮かべて言った。「ほ、ほう~それは面白い」が柊の口癖のようだ。

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