第52話  空手奪刀 1

 2012年に中国から帰国した私は、プロとして武術指導を始めました。これまでに教えた弟子は、延べ12人程度です。弟子たちの中には、大学時代の後輩のY君もいました。


 今回は、Y君と空手奪刀(くうしゅだっとう)の稽古をした時に起きた事をお話ししたいと思います。空手奪刀と言うのは、素手で刃物を持った相手を制する技術の事です。


 その前に、もう一人の弟子と稽古した時のお話をさせて頂きます。この人は、福岡市の繁華街でバーを経営なさっていた方で、別の弟子からの紹介でうちの会に入会なさいました。公園で中国拳法家たちと交流した時に、私と一緒にいた人です。


 晴れている時は、中央区にある舞鶴公園で、雨の日は、開店前の彼のお店でやっていました。


 ある雨の日に、彼のお店で、いつものように空手の型をやってもらって動きを矯正し、受けの関節技への応用と推手を稽古しました。ギックリ腰でしばらく無理な動きが出来なかった彼の動きは、かなり落ち着いた型になっているようです。


 無理な動きをすれば、腰に痛みが走るからでしょうか、これが逆にいい効果を齎したようです。人生、何が幸いするかホントに分からないもんです。「災い転じて福となす。」と言う諺がありますが、この場合は、「災い転じて福となる。」ですね。


 その日は、普段とは違う稽古をすることにしました。あまり人に目撃されたくない素手で武器に対処するための秘密の稽古です。と言っても、私は、普段弟子たちに、

 

 「刃物を持った相手とは、絶対素手で戦うな!必ず、武器を使え!」


と教えています。何故なら、私自身、刃物で切り付けられたり、突かれたりして、死にかけた事が二度ほどあるからです。一度は、激しくドスで何度も突かれました。その時は、手首と肩に刀傷を負いながらも、何とか急所を刺されないように凌いで間合いを一旦外しました。


 陳家太極拳には、後ろ手で、ベルトや帯の背中側に挟み込んだ刃物を抜く技があります。この時に、その技を使いました。ただし、その時、私が抜き取ったのは、刃物ではなく・・・


 私は、相手との間合いが一瞬開いた時に自分の後ろにたまたま積んであったビールケースからビールの空瓶をこっそり後ろ手で抜いて、相手が突っ込んで来た瞬間に、それを相手の顔面に投げつけ、相手が瓶をよけている隙に全速力で走って逃げました。あの時は、火事場の馬鹿力で、100メートル10秒は軽く切ってたんじゃないかと思えるくらい速く走っていたように思います。


 それから、アパートに帰ってホッとしていると、ズボンがじくじくに濡れていることに気が付きました。


「しまった、腹を刺された!」


 平常心を失っていた私は、出血でズボンが濡れていたと早とちりしてしまったのです。力道山が、チンピラに腹を刺されて腹膜炎を起こし亡くなったことを思い出して、この瞬間、顔面からスーッと血の気が引いていくのが、自分でもよく分かりました。結局、恐怖のあまり小便を漏らしていただけだった事が分かった時は、心の底から、


「生きてて良かった!神様、ありがとう。」


と思いました。かなりみっともない話ですが、現実はこんなもんです。カッコイイ事なんか何もないです。


 「絶対殺してやる」と言う覚悟を決めて自分にかかって来る相手と戦うことほど、恐怖を感じることはありません。空手の組手や単なる殴り合いのケンカとはワケが違うんです。



 この時は、私の方から相手にケンカを売ったわけではなく、酒癖の悪い知り合いが起こしたトラブルに巻き込まれて、こうなってしまいました。この事件以降、私は、酒癖の悪い人と暴力団関係者に遭遇しそうな場所は、極力避けるようになりました。まだ、死にたくはなかったからです。


 まさに、「君子危うきに近寄らず」です。空手を使って、ケンカをしようなどと、愚かな事を考えている人たちは、恥を忍んでここに公開した私の恐怖の体験談を読んで、よく考えてほしいと願います。ケンカ相手が、武器を持っていない保証などどこにもないんですから。


 また、この事件がキッカケになって、これ以前は、いい加減にしか稽古していなかった棒術やトンファー術などの武器術の稽古にも熱心に取り組むようになりました。

                                 (つづく)



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