第48話  礼に始まり礼に終わる

 勤めていた大学の冬休みに、日本に一時帰国しました。中国でいろんな人たちに頼まれた用事を片付けながら、私が中国にいる間に弟子を預かってもらっている小林流空手のY先生の道場に顔を出して、週二回ほど先生から柔術をご指導いただいておりました。

 


 この道場に顔を出した本来の目的は、弟子の上達ぶりを観察することにあったんですが、二時間の稽古の間中なにもしないのも手持ち無沙汰なので、先生から「あなたさえ良ければ、あなたが日本にいる間に柔術を指導しましょう」と有難いお申し出を頂き、お言葉に甘えて柔術の稽古にも励んでおりました。

 


 私が中国にいる間、弟子は、よく練習していたようです。流派の違いから来る動きの微調整に多少戸惑っているところはありましたが、全体的には合格点をあげてもいい動きをしていました。道場生全体のレベルも,

巷に溢れているいい加減な道場とは比べ物にならないほどいいものでした。 


 福岡中を探しても、安心して彼を託すことができる先生は、Y先生しかいらっしゃらなかったので、この道場に彼を入門させたのですが、問題点が皆無というわけではありませんでした。      


  一つは、基本練習と組み手のための基本コンビネーション練習が、かなり慌しい印象を受けたことです。でも、これは、仕方のないことだと思いました。2時間という限られた時間の中で、基本・コンビネーションシャドウ・型・約束組み手・護身術・組み手をやろうとすれば、バタバタと急いでやるしかないからです。

 


 問題は、組み手での作法がなってないことです。Y先生の道場は、全体的にはかなりハイレベルなのですが、先生がご高齢なことと通って来ているお弟子さんの殆どが中学生や高校生だということもあり、中々一人ひとりに細かい指導が行いにくいのです。この道場の組み手は、寸止めルールで行われています。寸止め自体は、悪いことではありません。フルコンタクト空手は怪我が多過ぎますし、防具空手は首を痛め易いので、お互いにキチンと了解ができていれば、安全で有効な組み手の練習方法だと言えるでしょう。

 


 今、私は有効だと言いましたが、これは、あくまで組む二人の人間がキチンと約束事を了解していればの話です。Y先生には大変失礼ながら、この道場ではこの了解がちゃんと為されていないように感じました。私が見学に行った時、私の弟子が参段の人と組んでいたのですが、彼が何発も顔面や中段に突きを決めているにも拘らず、相手の人は、一切「参った」と言う事も無く、動きを止めることもありません。

 


 これは、頂けません。この参段の人は、空手の突きや蹴りの恐ろしさが分かっていないのです。また、自分が武道の稽古をしていると言う自覚もないのです。実戦で私の弟子の突きや蹴りが当たれば、彼は、血反吐を吐いて倒れている筈です。それほど、古式の空手や拳法の突き・蹴りは危険なのです。


 如何に、古式空手の突きが危険なものであるかを示すエピソードがあるので、ここにご紹介させて頂きたいと思います。

 


 今から50年ほど前の話です。空手二段の人が博多駅のコンコースを歩いていた時、頭のおかしな浮浪者にいきなり耐火煉瓦で殴りかかられます。彼は、咄嗟に腰を落としながら左掌底で相手の右腕を跳ね上げ、浮浪者の鳩尾の辺りに右中段突きを放ちます。浮浪者は「く」の字になってその場に倒れます。


 この空手使いの人は、目撃者の証言もあり、正当防衛で無罪となりました。そして、彼を襲った件の浮浪者の胸部のレントゲンを見た医者は、驚きの余りこう叫んだということです。


「空手というのは、恐ろしいもんだな。こんなになるのか?まるで車に撥ねられたみたいに骨と内臓がグシャグシャだ」。

 


 今のように空手がスポーツ化する前は、古式の趣を残す道場が、福岡にも結構ありました。恐らくこの空手使いの人も、キチンとした正当な空手を修行した人だったと思われます。空手には、これほどの威力があるのです。全身の力を一点に集約して突くのが、空手の突きだからです。

 


 ですから、例え寸止めであったとしても、一本取られたのなら、素直に負けを認め、謙虚な気持ちで「参った」とか「参りました」とか言うべきです。私が最初に通った空手道場では、先輩から一本取られて「参った」を言わないと、胸倉を掴まれて「『参った』言わんか!」と怒鳴られたものです。これは当然です。当たっていれば、大怪我をしたか、悪くすれば死んだかもしれないんですから。指導方法は非科学的でかなりいい加減な道場でしたが、この点だけは正しかったと今でも思います。


 

 「空手は、礼に始まり礼に終わる」と言う言葉があります。空手をする人なら誰でも知っている言葉ですが、この本当の意味が分かっている人は少ないようです。組み手の初めにお辞儀をし「お願いします」と言って、組み手を始めます。これは、「今からあなたと組ませて頂きます。勝っても負けても、何かをこの組み手を通して、学ばせて頂きます。」という意味なのです。


 そして、組み手の終わりにも「有難うございました。」と言ってお辞儀をします。これは「あなたとの組み手を通して、尊い経験をさせて頂きました。」と言う意味なのです。

 


 もし、寸止めの組み手で自分が遅れを取ったとすれば、それは相手が自分の体の安全を守ってくれた上、タダで自分の欠点を指摘してくれたのです。松濤会の江上茂先生がおっしゃるように「全ての稽古相手は、有難い存在」なのです。たとえ徹底的に嵩にかかって、自分の弱みに付け込んで来るような人と組んだとしても、その人には感謝の気持ちをもって接しなければなりません。組み手の時も、稽古が終わった後もです。こんな人がいなければ、自分の弱点をハッキリ自覚することができないからです。


 因みに、我々の流派では、組み手のとき、金的カップと胴のみを着用して行います。顔面は寸止めです。要するに、折衷方式を採用しているわけです。型の分解・応用の練習や組み手の一場面を切り取って断片的組み手をする時は、面も使用します。もっとも、防具は最低限の安全性を確保するためのもので、気休めにしか過ぎませんが・・・。


 スーパーセーフの胴を二枚重ねて胴の下に厚い毛布を入れても、古式の突きや蹴りは突き抜けてきます。衝撃の瞬間、気合を入れて息を吐かないと体の中に痛みが走ります。以前、組み手の最中に突きで散弾も通さないと宣伝されていた硬質プラスティックの面が割れたこともあります。その時、殴られた人の頚骨は、衝撃で歪んでいました。すぐに整体をして、元に戻しましたが・・・。


 これだけ威力があるので、たとえ寸止めで組み手をしても、一本取られたら、自分が死んだかもしれないという自覚がいやでも生まれます。また組み手を通じて、相手に対する敬意も自然に沸いてきます。

 


 「防具組み手は、首に深刻なダメージを与えるので、以前はやっていたけれども、今はやらなくなった」とY先生がおっしゃっておられました。和道流空手のT先生も、全く同じことをおっしゃっておられました。


 確かに、その通りなんですが、最初から寸止め組み手ばかりやっていると危険性に対する認識が薄くなってしまうのも事実のようです。危険性を認識してないから、一本取られても、「参った」も言わず、平気な顔をして突いたり蹴ったりして来るようになってしまうのでしょう。寸止め組み手のいいところと防具組み手のいいところをうまく調和させ、危険な技をより安全に且つ真剣に稽古できるように、これから試行錯誤を繰り返していくべきだと私は考えています。

 


 42年ほど前になりましょうか、「電光石火」に登場したTさんとI さんの組み手を見たことがあります。普段は、後輩の私たちの引き立て稽古をするだけで、お二人が組むことは殆ど無かったので、お二人の組み手の稽古が始まると分かった時は、皆自分の練習の手を休めて、固唾を呑んで二人の対決を見ていました。

 


 二人は、右の拳の第二関節を左の掌に当ててお辞儀をしながら、「お願いします」と言って、対峙します。お互いに右の相対構え。二人は、お互いに構えを変化させながら、相手の出方を探ります。I さんは、100キロの体重があるにも拘らず、上段に軽々と回し蹴りを放てる人なので、Tさんが中途半端な位置にジッとしているのは危険です。


 私がそう考えた瞬間、Tさんは相手の蹴りの起こりを前もって両手で押さえ込むようにして、I さんの懐に入りました。相手の呼吸を呼んだ絶妙な足の運びと安心感のある堅実なTさんの構えでした。内側に入られたI さんは、グズグズしていると危ないと判断したのでしょう。蹴りの陰を押さえたためにガラ空きになったTさんの顔面に上段突きを放ちます。その瞬間、「フッ!」というような気合とともに、後退しながら放たれたTさんの踵蹴り(サイドキック)が、I さんの胴に決まります。


 胴に蹴りが入った瞬間、I さんは苦悶の表情を浮かべますが、すぐさま受けの構えを取りながら間合いを切ってTさんから離れ、「参った」と叫びます。お二人は、再び礼式の通りにお辞儀をし、お互いに「有難うございました」と言って、組み手稽古を終了なさいました。固唾を呑んでお二人の組み手を見ていた我々は、思わずタメ息をつきました。そして、拍手が起こりました。

 

 いつもの笑顔に戻ったI さんがTさんに、


「今日はやられたなー。T君、コソーッと一人で練習しよっちゃろ?今度は負けんばい。」


と言うと、Tさんは、


「いつでも、いいぜ。返り討ちにしてやるけん」


とこれも笑顔で言い返します。言葉でジャレ合うそんなお二人を見て、皆微笑んでいました。どちらが勝っても負けても、爽やかな後味が残る、そんなお二人の組み手でした。



 ※「陰を押さえる」=技の起こりを事前に察知して、構えで押さえ込んでしまうこと。



★次回は、2012年に帰国した後に、中国人拳法家たちと交流した時のお話です。では、次のエピソード「中国拳法家たちとの交流」でお会いしましょう。

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