第34話  Stop trying to hit her & hit her ! 2

 D君と知り合ったばかりの頃は、時々、喫茶店で会って、武道に関する話をする程度の間柄でした。


 で、ある晩、いつものようにD君と武道の話をしていた時、剣道の稽古の話になりました。

「剣道部での稽古は、どんな具合だい?楽しんでやってるかい?」

と私が聞くと、彼は、

「それが、先輩たちが色々アドヴァイスしてくれるんですが、まだ日本語がよく分からないので困っています。」

と言いました。


 例えば、彼が竹刀を振っているとします。恐らく、彼のフォームのどこかが変なのでしょう。先輩たちが、入れ代わり立ち代わりやって来てはアドヴァイスをするんですが、いくら言っても、彼が欠点を矯正できないので、みんな彼の指導を諦めてしまったそうです。因みに、剣道部の人は、誰も英語を話せないとのことでした。

 


 確かに、武道の教えの中には、ジェスチャーや表情、或いは、実際のデモンストレーションを通じて伝える事の出来るものもありますが、細かく微妙な部分は、言葉でしか説明できないものが少なくないのです。では、英語の話者が剣道部にいれば、問題はなかったのでしょうか?事は、それほど単純ではありません。

 


 D君の話を聞いた時に思い出したのは、以前NHKのラジオ講座のテキストに載っていたお話です。ある日本人女性が、アメリカの大学を卒業し、向こうで就職し、アメリカ人と結婚します。はっきりとした数字は覚えていませんが、十年以上、あちらで生活なさったとのことでした。TOEICの点数も960か970くらいだったように記憶しております。


 


 そんな彼女が日本に帰国し、かつて師事していた茶道の先生から「アメリカ人の弟子が入門して来たので通訳をしてもらえないか?」と言う依頼を受けます。彼女は、気軽に引き受けました。自信があったからです。ところがいざ蓋を開けてみると、先生の話される茶道の技術や心構えなどの深い部分を全く通訳できないことに彼女は気付きます。あまりに特殊過ぎる概念ばかりだったので、彼女くらいの英語力をもってしても、通訳不能だったのです。

 


 私も、以前、イギリス人の友人に頼まれて、通訳として中国拳法のサークルについて行ったことがあります。依頼を受けてから、サークルに友人を連れて行くまで1週間程度の時間的余裕があったので、上記の女性の失敗談を憶えていた私は、事前に武道関係の英語の専門書を読み漁り、サークルで使用されそうな専門的用語と表現は、ノートに書き留めておきました。


 準備していたお陰で、四苦八苦しながらも、なんとか通訳することはできましたが、その困難さは、予想を遥かに超えるものでした。友人の英語を日本語に訳すのは、それほど難しくありませんでしたが、物凄いスピードで次から次へと拳法の専門的な説明をされる先生の日本語を英語に訳すのは、かなり頭脳に負担をかける作業でした。帰宅してから、頭の中が熱を持っているのが、分かったくらいです。通訳というものが、如何に大変な仕事であるかと言う事をこの経験を通じて学びました。

 


 ちょっと話のポイントがずれてしまいました。東洋文化方面に特化した英語の事に話を戻します。明治維新以降、武道や芸道などを含めた様々な日本の文化が、翻訳されて西洋に紹介されてきました。


 1867年の大政奉還を明治維新だとすれば、その翻訳の歴史は約157年にも及びます。くどいようですが、157年の歴史があるのです。その157年分の東洋側と西洋側の努力と協力の結晶である歴史的な言語遺産をしっかり学んでいない限り、自らの東洋的もしくは日本的文化遺産を世界に向けて正しく発信していくことは、出来ないのです。(2024年現在)

 


 世界的に普及している空手を例にとって考えてみましょう。空手の黒帯を持ち、TOEICで高得点を取ったことがある人であれば、ある程度の空手の通訳・指導はできるでしょう。しかし、一度でも英語で空手を教えたことがある日本人に「あなたは空手と言う武道の持つ深い部分を正確に英語で伝える事ができますか?」と聞けば、自信を持って自分はできると答えられる人は少ないのではないでしょうか?「できる」と答えた人がいたとすれば、その人は空手と言う武道に特化した専門的な英語をしっかり勉強した人です。

 


 もちろん全ての技術や心構えが、英語で書かれた専門書に載っているわけではありません。各流派独特の技術や概念は、秘伝とされているものも少なからず存在するので、専門書にも載っていないものも多いのです。そういう場合でも、上記のような基礎があればネイティヴスピーカーの弟子と相談しながら、新たな表現を創り出すことも出来るのです。


 私自身も、D君と武道の話に花を咲かせ、共に汗を流す中で自分の英語を見直し、彼と共に新たな英語表現を創造していったのです。



 D君との思い出話は続きます。(つづく)

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