第41話 相抜け
冒頭でも申し上げた通り、私は、小学校の高学年から中学まで柔道を稽古していました。高校に入ってからは空手を始めたので、柔道は、それ以来、稽古しておりませんが、少年時代に稽古していたこともあって、今でも体のどこかに柔道の動きが残っています。
高校時代のある日、朝登校して自分の席にカバンを置き椅子に座ろうとすると、同級生が、私に相撲を挑んできました。立ち合いのような形で二度、三度と胸をぶつけ合いました。そして、四度目にまた同級生がぶつかって来ようとした瞬間、私は、彼の制服を両手で掴み、車のハンドルを回すような動きとともに体を右に素早くサッと開きました。すると、彼は、空中を一回転して吹っ飛びました。
この時は、全く意識することなく、自然に体が動きました。後から何度も、同じ動きで同級生を投げようとしましたが、彼は、ちょっとバランスを崩しただけで、空中を一回転するどころか倒れることさえありませんでした。同級生が吹っ飛んで行った時は、我ながら凄い事になったなとは思いましたが、これが無想の動きだとは気付きませんでした。第一、そんな言葉が存在することすら知らなかったのです。
後に、古式の武道を始め、幾たびか、他人の無想拳的動きを目にし、無想拳的体験を耳にし、また自分自身でも経験するようになってから、あの時、同級生が吹っ飛んでいったのは、無意識のパワーの為せる技だと気付いたのです。
私の無想拳的体験の中で最も記憶に残っているのが、私が27歳になる直前に経験した「相抜け(あいぬけ)」であります。「『相抜け』とは何ぞや?」とお聞きになりたい読者の方もいらっしゃるでしょう。「相抜け」とは「相打ち」を徹底的に極めた果てに行き着く究極の境地であります。
「剣の極意は、ついに相打ちにある」と言ったのは、確か北辰一刀流の千葉周作だったでしょうか?この言葉を聴くと、日本少林寺拳法出身の後輩が言っていた言葉を思い出します。それは、「人を殴れる距離まで人に近づくと言うことは、自分も人に殴られる距離に入るということだ」というものです。自分だけが安全圏にいて、相手だけを一方的に叩き回すことは、物理的に不可能です。よっぽどの実力差もしくは体格差があるか、或いは、相手が恐怖心で体が竦んでいれば、また話は別ですが。
剣術も、同様です。一足一刀の間合いから、相打ち覚悟で一気に切り込み、一瞬の差で相手を切り殺す。これが、剣の極意だということです。「皮を切らせて、肉を切り、肉を切らせて、骨を断つ」。物理的に考えれば、これが一番現実的な極意のように思えます。私自身、ずっとそう思ってきました。
しかし、この相打ちすらも、まだ畜生レベルだと喝破した人がいます。それが無住心剣流剣術の開祖、針谷夕雲(はりがやせきうん)であります。「聖(ひじり)と聖(ひじり)の出会いは、いつも相抜けなり」。これは剣聖同士が戦えば、相打ちにはならず、お互いの剣をすり抜けて「相抜け」になると言う意味です。
初めて、この言葉を目にした時は、「物理的に絶対不可能だ」と思いました。「相抜け」とは将棋で言えば、相入玉(あいにゅうぎょく)のようなものです。その考え方はよく分かります。でも、物理的な力が物を言う武道の世界では、「そんなこと、あるわけないよ」というのが、その時の正直な私の気持ちでした。(※相入玉=将棋で、互いの王将が敵陣に入り込む事をこう呼ぶ)
ところが、この文句を読んでから、約一年後に、私は、自分の考えが誤っていたことを自分の体で思い知らされることになるのです。
忘れもしません。あれは、人に場所を借りてやっていた空手道場の経営に行き詰まり、道場を畳んで、別の人生を歩いていこうかと迷い、弟子の来なくなった道場で一人物思いに耽っていたある春の日のことでした。
弟子が来なくなった一番の原因は、私が昔の教え方を貫こうとしたからです。剛柔流の師匠だった上原先生も、
「昔のやり方で教えたら、みんな、逃げて行くもんな。」
と仰っていたにも拘らず、それを断行してしまったんですね。つまり、入門して来た人たちに立ちとか歩きだけを指導したわけです。
当時、高校生や大学生だった弟子たちは、口々に、
「先生、もっと実戦的な技術を教えて下さい。他の道場じゃ、みんなそういう練習をしてます。」
と文句を言いました。弟子たちにそう言われて、伝統的な教えが一番正しい教え方だと信じていた私は、彼等に向って、つい言ってはいけない一言を吐いてしまいます。
「そんなに他の道場がいいんなら、そっちの道場に行けば?」
ダメですねえ。こんなこと言っちゃ。(> <)
私がそう言った翌週のことです。稽古時間である土曜の午後に道場に行くと、弟子が一人しかいませんでした。で、正座して神妙な面持ちで私を見ているその弟子に、
「アレ?今日は、あんた一人か?みんなは?」
と聞くと、口ごもります。で、彼は、懐からおもむろに手紙を出して、私に渡しました。中には、
「先生の教え方にはついて行けません。申し訳ないんですが、辞めさせてください。今までお世話になりました。」
と書いてありました。その別れの挨拶の末尾に、その日、来ていない連中の名前が書いてありました。私は、溜息をついて、一人残った弟子に、
「ま、去る者は追わずだ。二人で頑張って行こう!」
と言って、その日の指導を始めました。心なしか、最後に残った弟子の表情も、稽古が終了するまで冴えないように見えました。
で、その翌週、道場に来てみると、最後に残っていた弟子も、来ていなかったというオチです。もう時代が違うんですよね。昔の沖縄や中国みたいに、基本の立ちや歩きばかりやらせても、人はついて来ません。
私は、一人道場に座り、考え込んでいました。「いつまでも、フラフラしてないで、ちゃんと就職しろ」という周囲の言葉が頭に浮かび、「もしかしたら、自分の生き方は、間違っているのかもしれない」という思いと「いや、自分は、自分の道を行くんだ」という思いが、交互に頭の中を行き交います。
心は乱れに乱れ、日頃弟子たちに説いていた平常心とは程遠い心理状態でした。一時間ほど、ジッと道場の床板を見つめ、考え込んでいたでしょうか。ふと誰かが私の名前を読んだような気がしました。顔を上げて、道場の入り口を見ても、誰もいません。「空耳かな」と思った瞬間、今度はハッキリと「御免下さい」と言う男性の声が聞こえてきました。
重い腰を上げて、玄関に行き引き戸を開けると、大柄でガッシリとした体格の男性が、外に立っていました。年齢は、20代後半くらいのようです。一目見て、彼が武道経験者であることがわかりました。全身から、目に見えない精気のようなものを発散していたからです。
「鷹野先生でらっしゃいますか?」
「はい、そうですが、何か御用でしょうか?」
「先生のお噂を耳にして、佐賀から出て参りました。」
「ああ、遠いところをわざわざお出でいただきましたが、今日は稽古を休みにするつもりですので・・・・・・」
「そうですか。でも、お話だけでも伺わせていただけませんか?」
「もしかして、入門をご希望ですか?それなら、手遅れだったかもしれません。今日限りで道場を畳もうと考えていたところですから・・・・・・」
「あ、いえ、入門希望者ではありません。私も、古伝の拳法を修行しておりますので。」
「そうですか。それは、珍しいですね。で、私の名前をどこでお耳にされましたか?」
彼は、佐賀出身の私の後輩の名前を口にしました。その日は、どうせ何もすることも無く、退屈していた私は、彼の礼儀正しく真摯な態度に惹かれ、彼と話してみてもいいと思いました。
「よろしかったら、お上がりになりませんか?」
「では、お言葉に甘えて、お邪魔させていただきます。」
この人は、お名前を中村さん(仮名)とおっしゃり、中学生のころから佐賀に伝わる古伝の拳法を修行していらっしゃるとのことでした。私は、中村さんと話し始めて、すぐに彼のことが好きになりました。とても礼儀正しく、思いやりがあり、包容力のある人だったからです。お互いに武道が好きなもの同士、話しながら熱が入ると立ち上がって実演をしたりして、武道の話に花を咲かせました。
彼と話し始めて2時間ほど経った頃、私は、彼となら組んでもいいと思い始めていました。通常、他流の者同士が組むことはありません。流派の面子を賭けた殺し合いになりかねないからです。
ですが、中村さんとならそんな心配をする必要も無く、道の追求とお互いの純粋な研究のために組めるような気がしたのです。中村さんも、同じお気持ちだったようです。
私が、
「一手、お願いできますか?」
と言うと、中村さんは,
「私の方から、お願いしようと思っていました。」
とおっしゃいます。二人の思いは、同じようです。この時、道場のことで悶々としていた私は、彼と組めば、何かが見えそうな気がしたのです。
私は、道着姿、中村さんは、履いていた靴下を脱いで素足になっただけの普段着姿です。二人は、道場の真ん中に行き、右拳の第二関節を左掌につけて、お辞儀をしながら、「お願いします」と挨拶をして構えます。お互い左手を顔の前に出した右構えです。
ここで、彼の実力が、ただならぬものであることを私は悟ります。彼のお辞儀をする自然体の姿には、一切隙というものがなかったからです。福岡が生んだ不世出の空手家江上茂(えがみしげる)先生がおっしゃるように、キチンとお辞儀ができる人は、武道家としても人間としても一流です。そんな中村さんと組めるチャンスを与えてくれた天に感謝しつつ、私は、自分の持てる全ての術技を尽くして彼と戦うことに決めました。
私は、まず遠間から中村さんの実力を測ることにしました。中村さんが組み手における「気」の働きを知っているかどうかを確かめるため、拳の届かない遠間から彼の顔に向かって突きを放ちました。勿論、中村さんの顔面に私の突きは届きません。にも拘らず、中村さんは私の突きの目に見えない延長線を掌底を使って受け流します。
次に、間合いの取り方を知っているかどうかを確かめるために中村さんの構えの外側(彼の左腕の外側)に回ります。私が外側に回り込もうとすると、中村さんは、体全体を私の方に向けながら、前足をスッと小さく弧を描くようにして後ろ足に引き寄せます。もし、この時、中村さんが体だけを私に向けて前足を引かなかったら、彼は、後手を取ることになったでしょう。前足を引いたことにより初めの五分と五分の構えに戻ったのです。
これだけ判断材料があれば充分です。中村さんは、真正な古伝拳法を修行した人に間違いありません。となれば、私も、そのつもりで組まないといけません。
五分五分の構えに戻った中村さんと私は、互いに蹴りのチャンスを窺いました。中村さんは、私が蹴りのための準備動作に入ろうとすると、ことごとく構えで蹴りの陰(動作の起こり)を構えで押さえてきます。中村さんが、蹴りの腰構えを取ろうとした時は、逆に私が同じことをします。
後は、突きの勝負があるのみです。私は、顔面への突きを誘ってカウンター狙いでいくことにしました。私より3センチほど長身な中村さんなら、突きに誘われ易いと考えたからです。一瞬、「この人相手に、この手が通じるかな?」という不安が頭をよぎりましたが、組み手に迷いは禁物です。あれこれ迷っていると、余計な隙が生じるからです。まして、実力伯仲の相手との組み手においてをやであります。えーい、ままよ!私は余計なことを考えず、今決めた戦術を最後まで貫くことにしました。
腹を据えた私は、少しずつ間合いを詰めながら、前に構えた左腕を下げていきます。
二人の間合いが限度まで来た瞬間、二人は声にならない気合を発して、同時に相手の顔面に左上段突きを放ちました。いや、正確に言えば、「放った」のではなく突きが自然に「出て」いたのです。お互いの突き腕は、顔面防御の役割も果たしつつ、相手の腕の外側を滑り抜けて行きます。そのまま相手の後ろまで抜けた二人は、間合いを遠目に取りながら、振り返ります。
そして、お互いの目を見詰め合ったまま、右拳を左の掌で包んで静かにお辞儀をします。こんな風に文字にして書くと長くなりますが、二人が前方に動きだしてから後ろに抜けるまで、全て一瞬の出来事でした。お辞儀が終わると中村さんは、笑顔で私に握手を求めて来られました。
「イヤー、素晴らしかったです。」
「それは、こっちの台詞です。」
「あんな突き、二度と出来ないような気がします。」
「同感です。」
組み手が終わってから、中村さんは、御自分のことをいろいろ話してくれました。幼い頃は体が弱く、随分苛められたこと。強くなりたくて武道を始めたこと。武道に熱中し過ぎたために、彼女に逃げられたこと。そして、アメリカにいる兄弟子から、あちらでの指導員の話が来ていることなど、どこか私自身と重なる中村さんの人生でした。
中村さんは、私に会いにいらっしゃるまで、アメリカ行きを随分迷っていらっしゃったようです。安定した生活を捨て言葉の通じない異国に行って、指導員として食っていくのはリスクが大き過ぎると思う反面、これは、一生に一度のチャンスかもしれないと言う思いもあったようです。
「でも、先生と手合わせして、吹っ切れました。グズグズ迷っていた自分が、馬鹿みたいです。」
「アメリカにいらっしゃるんですか?」
「行きます。」
「それは、よかったですね。私も、中村さんと組んで気持ちがスッキリしました。一旦道場を閉めて出直します。」
「武道をお止めになるんですか?」
「止めはしませんが、ここで一旦道場経営から離れて、自分を見つめ直すつもりです。気持ちの整理がついたら、また(この世界に)戻って来るでしょう。」
「そうですか。先生が道場をお閉めになるのは、ちょっと寂しい気もしますが、先生がお決めになったことですから、それもいいでしょう。」
それから、二人は近くの酒屋でビールとツマミを買って来て、道場の外に置いてあった長イスに座って飲み始めました。その晩の9時頃まで、大いに語り、大いに笑って楽しいひと時を過ごしました。
人生の岐路に立った二人の武道修行者が、運命の導きによって出会い、相抜けを初めて体験し、人生の次のステージへの一歩を踏み出すことができたのです。武道に関わった者同士の間で、こういう物語が生まれるところが、武道の醍醐味であり、魅力なのかも知れません。
その後、私は、道場を畳み、数年の間、様々なアルバイトで食いつないだ後、武道の修行や語学学習の時間を持てる仕事を見つけ、会社勤めを始めました。武道は趣味レベルにとどめておいて、ごく普通の人生を歩んで一生を全うしてもいいかなとも考え始めておりましたが、現実は、それを私に許してはくれませんでした。その後、私は、もう一度、相抜けを経験することになります。
★次回は、私自身の剣術・剣道修行についてお送りいたします。では、次のエピソード「剣術と剣道」でお会いしましょう。
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