第27話 山籠もり
20代の半ばに、3週間ほど山に籠って、空手修行に励んだ事があります。
食料は、米と缶詰、そして近くの川で獲れる川魚でした。かなり山奥だったので、山に籠り始めてから一週間は人に会う事はありませんでした。この一週間は、人恋しくて孤独感に苛まれました。それが過ぎると、一人であることに慣れて来ましたが、その後、山中で登山者に遭遇したりすると、かなりドキッとしました。今度は、逆に人に会う事が怖くなったんですね。人間心理の不思議です。
テントを張って生活していましたが、藪蚊が多いのには閉口しました。一度麓に下りて、蚊取り線香を買って来たので、あまりにひど過ぎる虫刺されからは、解放されました。夜、テントの周りを歩く獣の足音も、幽霊が歩いているようで最初は怖かったんですが、これも、暫くすると慣れてきました。
山籠もりの目的は、体作りと精神の鍛練でした。自分の道場を持つ前に、頭の中を整理しておきたかったっていう事もありました。山を走り回ったり、歩いたりして体を鍛えつつ、川原などで型の稽古に励み、時々座禅をして精神を鍛練しました。(正確に言うと、その時の私は、大真面目で精神を鍛錬しているつもりでしたが、実のところ山の中で瞑想している自分自身に惚れていただけでした。)午前中は、筋トレがメインで、午後は型の稽古をメインにしていました。
ある日の午後、型の稽古が終わり、他にやることもないので、道に迷わないよう充分注意しながら、周囲の藪の中を歩き回りました。山の中には、獣道のような小さな道があって、そこを歩きながら野鳥を観察したり、虫を捕まえたりして暇をつぶしていると、前方の下生えの中からガサゴソと何かがこちらに進んで来る音が聞こえました。
一瞬犬かなと思いました。さらに進むと、そいつがいきなり私に向かって突進して来たんですね。
「危ない!」
金的にそいつの頭が当たりそうになったので、咄嗟に体全体を平仮名の「く」の字のようにして横に動き衝突を避けました。通り過ぎて行った毛むくじゃらの後姿を見ました。
「エッ? イ・ノ・シ・シ?」
その猪は、クルッと向きを変えて、再び突進して来ようとしたので、私は、慌てて近くの木の上に避難しました。猪は、木の下を暫くウロウロしていましたが、すぐにどこかに行ってしまいました。その後、その近辺の散策は、やらないようになりました。
山籠もりを始めて確か2週間目くらいの事でした。
ある朝、筋トレを開始しました。普段は、スクワットや腹筋、そして腕立て伏せから始めるんですが、その日はいつもと趣向を変えて、懸垂から始めることにして、野営地の近くにほぼ水平の木の枝があったので、そこに摑まって懸垂を始めました。その当時は、若く体力もあったので、30回くらいは楽にできるようになっていました。山に入って、少しずつ筋力もアップして、出来る回数が増えていくのが、修行のいい励みでした。
懸垂を始めて25回目くらいで、自分の左横で何かが動いているのに気が付きました。一体何だろうと思い、懸垂をしながら、そちらを見ると、猿でした。
猿は、興味深そうな目で、私が懸垂をしているのを観察してます。
私が上に上がる。猿が上を見る。
私が下に下がる。猿が下を見る。
私が上に上がる。猿が上を見る。
私が下に下がる。猿が下を見る。
それから、暫くの間、猿と目を熱く見つめ合いながら懸垂を続けました。猿は、見飽きたのか、それから間もなくして去って行きました。その時、広背筋がかなり痛くなっている事に気が付きました。猿の出現で、数を数える事を忘れてしまい、体力の限界以上に懸垂を繰り返してしまったためでした。
後に人から、猿の目を見るのは危険だと言われましたが、この猿は、眼を見ても敵意は一切示しませんでした。
肝心の山籠もりの効果は、あまり感じられませんでしたね。極真空手の創始者である大山倍達先生が山籠もりの後で、「俺は強くなった」と感じられたそうですが、私の場合は、全然、そんなことなかったですね。私が山籠もりを敢行したのは、「空手バカ一代」の影響もあります。山籠もりしたら、強くなれるんだと信じてたからです。
少年時代に読む劇画や小説の影響って、かなり大きいとは思いますが、自分が読んでいた劇画や小説の中で描かれていたような事は、現実の世界では起きないですね。逆に、古式武道の世界で体験する現実は、まるで劇画か小説のようですが。
★次回は、人間が緊急事態に陥った時に起きる不思議な現象についてお話しさせていただきます。では、次のエピソード「火事場の馬鹿力」でお会いしましょう。
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