第10話 ときのあかし(葵衣&勝真)
「ねえ、電子決済ってどこまで使えると思う?銀行とクレジットカードはダメなんだよね。ネットショッピング系のアカウントはそのまま使えるのかなぁ」
ソファーで勝真と隣り合って座り、スマホを
現実的に、先立つものは必要だ。
手持ちのへそくりはまだ残っているけれど。元々は今年の勝真の誕生日資金にするつもりだった金額はそんなに大きくはない。
勝真のために身体に良さそうな食べ物やサプリ等、奏良に合うサイズの洋服なんかも買ってやりたい気持ちはあるが、そもそも現在の葵衣に財産はないのだ。
墓場まで持って行けないと教訓じみて言うが、その意味をしみじみ感じた。
自分の死後にどんな手続きがされるのかなんて、具体的に考えた事はなかった。その上ほとんど知識もない。
財産の相続に関しては、確か何親等がどうだかなんてことを昔学校で習った気がする。その程度しかわからない。
もし自分たちのように伴侶として生計を共にしていたとしても、内縁関係であれば法律上何も関与できないだなんてことまで考えは至らなかった。
せいぜい、もしもいつか別れることがあったならばと想像もしたくないことを考えて、万が一、億が一と念じながら預金の名義を別にしていたくらいだ。
二人の生活費は稼ぎが多い勝真の口座で管理していたが、これは幸いだったのかもしれない。逆だったら、葵衣の口座が凍結されると勝真の生活も危うかった。
それはさておき、葵衣の預金は難しい手続きをしないと使えそうにないし、それも相続する権利は葵衣の両親にしかないのだから、勝真に申し訳ない。
葵衣の銀行口座が使えなくなったのだから、引き落とし分の請求は全てこの住所宛に届いて、清算は全て勝真が負ったはずなのに。
「葵衣の財産についてはお義母さんが手続きを進めている。事故の件で弁護士も入っているから、色々な手続きも代行してもらってるが……細かい相談事はお義母さんに行くからな。でも情報を伝えた覚えのない個人のアカウントなんかは使えるんじゃないか。使えなければ、その時考えればいい」
まだ痩せた
「うううお世話になります」
勝真はそんな葵衣の姿にやんわりと頬を緩めた。
葵衣の頭を慰めるようにぽんぽんと撫でる。小柄な奏良の身体でそれを見上げると、勝真の手はいつもより大きく葵衣の目に
「葵衣がうまくやりくりしてたから蓄えがある。それを俺のために使うことを、世話になるとは言わない」
昔から変わらず、勝真は葵衣に甘い。葵衣が迷惑をかけてもいつも余裕で受け止めてしまう。叱られたことがない訳ではないが、それ以上にいつも肯定され、受け入れられてきた。
出会った頃……まだ友達だった頃から、葵衣は勝真のそんな所に憧れていた。
懐かしくて嬉しくて切ない。
この先にあるのは、遠くはない別れだから。
「ありがと」
不安定さを見せたくなくて、葵衣はにこりと笑った。
「葵衣の財産は俺に……とお義母さんは言っていたが、断ったんだ。葵衣ならば両親の老後にあれこれと世話を焼きたいだろうと思ったからな。それで、向こうでひとまず預かる形にするという事になっている。……慰謝料も含めて」
勝真はどこかぼんやりと遠くを見て続けた。
きっと話し合いたくなんてない内容だったのだろう。もし逆の立場だったならば自分には耐えられなかったはずだ、と葵衣は思った。
大事な人を亡くして、お金や責任や権利の話をしなければならないことも、その命を奪った事故についての交渉をしなければならないことも。
葵衣が逆の立場だったならば、投げ出していたかもしれない。
「ありがとう、かっちゃん。いろいろさ。ほんといろいろ、俺のために」
言葉にすれば
葵衣を失った哀しみの中で、様々な現実的な手続きに負われているのは両親も一緒だろう。葵衣はその姿を思い浮かべた。
一人っ子の葵衣にとって優しい両親だった。
おっとりとした母は、多分、勝真と付き合った高校時代から二人の仲に気づいていた。高校を出たらルームシェアしたいと言った時も、全く反対はなかった。
就職して落ち着いた頃、結婚と同等の意思があることを伝えた時には、普通に祝福してくれた。
勝真のことをもう一人の息子だと言ってくれた。
葵衣の父は真面目で純朴な人間で、不器用がゆえに母ほど順応はできなかったけれど、それでも接し方がわからずにギクシャクしてしまうだけで、勝真のことを家族として認めてくれている。
勝真の親は同じ報告を聞いて、事実は理解したと言ったが、いい顔はしなかった。以後、勝真は両親と疎遠になった。
葵衣は勝真に悪いことをした気がした。親の反応としてはそれが普通なのかもしれないと思っていたところもある。
葵衣は、自分が本当に恵まれていたと思っている。
優しくて葵衣を想ってくれる両親に育てられたこともだけれど。
不器用で要領が悪く、引っ込み思案で、自分のあまりのダメさに自信を持てずにいた自分を、勝真に認められて大事にされて生きてきた。
心から、こんなに幸福な人生は他にないと思っていた。
「そうだ、勝真。引き出しにさ」
葵衣はふと思い出してソファーから立ち上がり、寝室の一角にある自分の机へと向かった。
小さな作業机にデスクワゴン。狭い間取りの中でそこだけが葵衣のプライベートスペースだ。居室にある勝真の作業場よりもささやかな机には、ごちゃごちゃと乱雑にものが置かれてる。長年の経験で家事や掃除のスキルは身につけたが、性格的には勝真よりも葵衣の方が大雑把だった。
天板にもいろいろとものが乗っかったワゴンの、まん中の引き出しを開ける。
その中には記憶通りの形で、葵衣の大切なものが仕舞われていた。
デスク周りのどこよりも綺麗に整頓された引き出しには、たくさんの思い出が詰まっているのだ。
いかにも学生といった味気ない緑単色のクリアファイルに詰まっているのは、まだ付き合っていない頃から何度か貰ったことがある勝真からの手紙。
初めて貰った時には胸が高鳴り過ぎて、緊張と恥ずかしさで眠れなかった。
クッキー缶に入ったキーホルダー。ご当地キャラや自然を
幾つか並んだ腕時計。一番古い腕時計は金属が
引き出しの中央には、大事にケースに入れている指輪が二つ。
就職した年の春にはもう準備していたというのに、仕事が上手くいかずに葵衣が心身を壊してしまったから、貰ったのは半年後だった、大事な大事な結婚指輪。
もう一つは葵衣が再就職が上手くいってから貯金し、お返ししたペアリングだ。
「ここに宝物を全部隠してたんだ」
今まで秘密にしていた宝物置き場を見せるのが少し恥ずかしくて、葵衣は照れた笑みを浮かべながら勝真を振り返った。
照れくさいけれど、持って行くことはできないから。全部ここに置いて行くしかないから。
葵衣が大事に大事にしまっていた幸せだった時間の証を、勝真に知っていて欲しかった。
「これ、かっちゃんは覚えてる?就職してから一度だけ、保険の契約の保証人になってもらったでしょう?」
葵衣が仕事に慣れて落ち着いてきたときに、ようやく目が向けられるようになって、いくつか健康保険の契約を結んだ。その中で、一つだけ特別なものがあった。
ふと思い立って、若くて話しやすかった保険の外交員に尋ねたのだ。同居者を保険金受取人に指定できるかと。
結婚指輪を贈られて、これから保険の契約期間の10年や20年先まで一緒にいられたらと願った。
そのことを正直に白状すると、まだ経験が浅かった外交員は手を尽くして考えてくれた。そして、金額的な上限と、相手を保証人という形で登録することで契約を結んでくれたのだった。
ただの保険契約でしかないが、書面上二人の関係性を認められたこの保険証書は、葵衣の宝物の一つだった。
「大した金額じゃないけど、勝真が受け取って。俺の、旦那さんだからね」
勝真は書類を受け取り、その内容に目を見開いた。
他には何処にもなかった二人の関係の証が、葵衣の幸せな想い出とともに現実に形を残していた。
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