第9話 さめないゆめ(勝真&葵衣)

 良い夢を見た。葵衣が帰ってくる夢だった。

 見知らぬ姿で葵衣の表情をした少年が、目をうるませながら必死に怒っているふりをしていた。

 怒って欲しかった。

 どれほど許されないことをしてきたのか。謝っても謝りきれない。

 だけど少年はまるっきり葵衣のままで。

 かっちゃんは悪くないよと全部許した。


 ぼんやりと寝起きの物思いにふけりながら、勝真は重いまぶたを開いた。

 目を開いたら幸せな夢の余韻よいんが消えてしまいそうで少し迷いを感じたが、キッチンから漂う食べ物の匂いに恋しいほどの懐かしさを感じて、ひどく腹が空いた気がした。


 閉じた寝室のドアをぼうっと眺めて、夢の中の光景を思い浮かべる。


 いつもソファーで寝ていたのに、久々に感じるベッドと布団の感触。扉を閉めるとその向こうに葵衣を探したくなってしまうから、ここのところは部屋中の扉を開けたままだったはずなのに、目の前には閉じた扉がある。


 弱り切って鈍い思考回路が、徐々に自分の寝ている状況の情報を拾う。


 少年が手を引いて寝室に連れてきた。


 夢の状況と齟齬そごがない今の自分の状態。美味しそうな匂い。人の気配。


「葵衣?」


 夢ではないのかもしれない。そう結びついた瞬間に勝真は身体をね起こし、めまいを覚えて顔を伏せた。

 無理が効かない体調であることを、そこで初めて思い出した。


「かっちゃん、目が覚めた?……大丈夫?」


 しばらくてのひらに埋まるように顔を伏せていると、扉が開く音とともに幼さを残す声音が聴こえた。

 めまいを振り切って顔を上げると、夢の中の少年は心配そうに勝真の元に歩み寄り、額にかかった髪をそっと撫で上げた。


「葵衣……葵衣、悪かった」


 勝真の中には真っ黒な後悔が渦巻いていた。それは謝る事もつぐなうことも叶わない、行き場のない後悔だったはずだった。

 出口を見つけた想いが一斉にあふれかえって、勝手に口から零れていく。

 なぜ葵衣が少年の姿をしているのかなんてどうでも良かった。

 ただただ葵衣がいてくれる奇跡を噛み締めて、一秒でも長く続いて欲しいと願った。


「もう、俺は怒ってるんだからね」


「ああ」


「何で怒ってるかわかってないでしょう?こんなにやつれちゃってさ」


「ああ。すまない」


「心配するだろ。勝真は俺のこと、ちゃんとわかってるでしょ?俺は細かいことなんてどうでもいいし、かっちゃんの体調のほうがよっぽど心配。だから、心配で怒ってんの」


「……そうだな」


「だからまず元気になりなよ。俺は勝真が元気にしてないと嫌だからね」


「ああ」


 ただ言葉を交わせることが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。勝真はもう二度と聞けないはずの葵衣の言葉を聞けただけで嬉しくて、葵衣が自分のことを棚に上げているのにも気づいたが、言及する気にはならなかった。

 嘆かれても、呆れられても、非難されてもかまわない。葵衣の言葉が聞けるならば。

 そう思ってさえいるのに、葵衣はどこまでも勝真を心配していて、胸が詰まった。


「ごはん食べれる?何もなかったからお粥くらいしか作れなかったけど。でも、ちょっとずつ食べて寝て、まずは体調どうにかしなきゃ」


 ね?と同意を求めるように首を傾げた少年の仕草が葵衣そのままで、勝真は手を伸ばしてぎゅっと少年を抱きしめた。いつものシャンプーとボディソープの匂いがして、少しぶかぶかな葵衣の部屋着をまとった少年は、勝真には葵衣にしか見えなかった。


「ほら、準備してくるから」


 勝真の背を抱きかえして、ぽんぽんと軽く叩いた少年は、迷わずキッチンに向かっていく。

 勝真はひどく安堵した。安堵すると同時にどうしようもないほどの疲労感にみまわれた。

 少年の準備した薄い粥は、葵衣の料理の味がした。

 それを何とか平らげた頃には電池が切れたかのように眠気にあらがえず、再びベッドへと沈んで行った。


 ゆめうつつから覚めた勝真の心身は、明らかにエネルギー不足だった。

 心身が疲弊ひへいして栄養も休息も足りていなかったことに、ようやく直面したのだ。

 衰弱した身体は栄養を取ることですら体力を使ってすぐに眠くなった。葵衣がそこにいるというのに。

 鈍った思考回路はただ葵衣に謝ることばかり考えていて、いつも謝罪が口から零れた。一秒でも長く側に居て欲しくて、すがって手をつないだり抱きしめて眠った。


 少し体力を取り戻すと風呂だ着替えだと追い立てられた。

 気が付けば家の中はすっかりと以前の様子に戻っていて、勝真が無精ぶしょうして散らかした痕跡はなくなっていた。ベッドには清潔なシーツがかかり、干された布団がふんわりとしている。

 料理する葵衣の横に並んで手伝って、起きる時間が長くなったことを喜ばれた。


 いつか覚める夢かもしれない。

 眠りに抗えない身体で必死に繋ぎ止めようとして、目が覚めても葵衣がいることに安堵を繰り返す。

 それが一週間ほど続いたらしい。

 ようやく勝真の頭にも思考力が戻ってきて、疲れやすいものの何とか生活のていを保てるほどに回復していた。


 時々独り言を呟いている葵衣が、この身体の持ち主である奏良と話していることを知ったり、葵衣の財産の件や諸手続きのことを話したり。テレビやスマホを見ての雑談も増えてきた。

 勝真はまだ覚めないこの夢が現実であることを、しっかり理解するようになった。

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