第三話『敷かれたレールの上を走る』

 私は、当初の予定の約半日遅れで、シャルル・ド・ゴール国際空港に降り立った。ここからは、RER地域急行鉄道網を使って、エッフェル塔のあるパリ七区へ向かう。

 行き方は入念に調べてきたので問題ないはず。手順はこうだ。まず、RERのB線に乗り、シャルル・ド・ゴール駅からサン=ミシェル=ノートルダム駅へ向かう。サン=ミシェル=ノートルダム駅では、C線に乗り換える必要がある。そこからは、セーヌ川を右手に(地下なので見えないが)地下鉄の線路が伸びる。そして、シャン・ドゥ・マルス=トゥール・エッフェル駅で下車。所要時間約七十分、料金十七ユーロ。あとは地上に出るだけだ。


 シャルル・ド・ゴール駅のホーム。

 駅の天井と、壁の上三分の一が格子状のガラス窓になっており、斜め上からの日差しが時折眩しいが、なんとなく陰気な雰囲気が漂う。それはおそらく、気のせいではない。と言うのも、RERのB線は、時間帯や混雑具合にもよるが、かなり治安が悪いことで有名なのだ。今の時間帯は、ちょうど怪しい空気が漂い始めるタイミング、であると私は見た。  

 目の前にはパリ方面の電車。先頭車両の顔は、のっぺりとした正方形。その正方形は、地に垂直に立つのではなく、ちょうどキュウリを斜め切りする時のように、わずかに傾きがある。

 私は、初めてのフランスの電車の車内へと、一歩目を踏み入れる。

 二歩目、左手にいる、まるでギザのピラミッドを守るスフィンクスのようにドア横を陣取る、ビジネスマン風の男性の前を通り過ぎる。

 三歩目で、車内を見渡す。

 暗い車内。

 座席は、四人が対面して腰掛けられる区画が多数設けられているタイプ。

 壁には、スプレー塗料の落書きの文字。

 純日本人の私には解読不能だが、一つ言えるとすれば、その落書きはもちろんいけないことではあるのだが、そのデザイン性には、少なからずセンスを感じざるを得ない。

 車両の奥にも目をやる。

 落書きは、一箇所ではなく、へたっぴなものも少なくない。

 時期尚早かもしれないが、現時点で評価を下すとすれば、治安が悪いというのはどうやら本当らしい。

 あまり綺麗とは言えない座席に腰掛ける。

 するとすぐに、この車両には私の他にも観光客がいると気づく。

 観光客は二人組の女性。

 人相だけでの判断になるが、アジア人のようだ。

 私の座席からそう遠く離れていない四人用の区画を、図々しくも人占めしている。

 二人とも、不用心なことに、スーツケースを通路側に寄せ、スマホの画面をみることに熱中している。

 私もそうだが、交通費を少しでも抑えようと、あのような大荷物を抱えて、陰気臭い地下鉄に乗り込んだのだろう。

 私は、常に周囲を見回し警戒しながら、車両に揺られる。


 どこかの停車駅。

 アナウンスのフランス語は早口なのもあってほとんど理解できないので、その駅名はわからないが、とにかく駅に停車する。

 ドアが開くと、二人の男が入ってくる。

 偏見だろうか、両者、不織布マスクで口元を隠し、似たような黒ずくめの格好をしていて、いかにも怪しい。

 私は、男たちに気づかれないように、横目で彼らの動きを監視する。

 

 次の駅に停車。

 そこで……

 事件だ。

 決して、事件が起こることを期待していたわけではない。

 私が警戒していた男二人が、スマホに熱中していたアジア人観光客たちの荷物をひったくろうとする。

「やめてください!」

 聞き取れる。

 日本人だったのか。

 そうと知っても、単に操る言語が同じ、ということだけでは、私は特に親近感を覚えない。

 それは、私が冷たいわけでも、非情なわけでもない。

 自己防衛だ。

 ああ、今男の一人が、日本人観光客の、二つあるうちの大きい方のスーツケースを、奪うことに成功した。

 ここは日本ではない。

 巻き込まれるわけにはいかない。

 今朝東京で、フランス人女性を会社員の男性が救ったように、ヒーローが現れることも、期待しないほうがいい。

 と思った矢先。

 ドア横のスフィンクス……もといビジネスマン。

 男たちが逃走しようと車両を飛び出しかけたところに、彼は尖った革靴の先をひょいと差し出し、引っ掛けて、こかせた。

 男は、とんでもなくダサく、頭からずっこけた。

 ただの陣取り野郎かと思ったら、機転の効く人じゃないか。

 評価が変わった、彼はシゴデキのビジネスマンに違いない。

 こけた男とその連れは、ホームに居合わせた他の男性たちによって取り押さえられ、無事荷物は、日本人観光客へと返された。

 RERのB線、治安が悪いのは確かだが…………悪すぎる、ということもないようだ。


 私は一難去って安心してしまったのか、うたた寝しそうになる。

 時差ボケもあるだろうしなぁ。

 窓が、ガコン、と強く揺れる。

 鼓膜が破れるかと思った。

 それでいくらか、目が覚める。

 というか……今のはなんの揺れだ?

 窓の外には、この車両の電気とは別の明かりが、ビュンビュンと進行方向とは逆側に高速移動する。

 そうか、郊外行きの対向列車が、私の乗る列車の横スレスレを過ぎていったのだ。

 にしても、日本でもそうだが、乗車中、対向列車とすれ違う時はいつも、衝突してしまうのではないか、という不安に駆られる。

 まぁ、そんなことは万が一にもありえないのだが……


 サン=ミシェル=ノートルダム駅で下車。

 B線からC線に乗り換える。

 C線の車両は二階建てだ。車内はB線よりもいくらか綺麗で、治安もまずまずのところ。東京の羽田までの電車でも、飛行機でも、さっきのB線でもそこそこな事件が起こったので、今回のC線も期待するのだが、何も起こりそうにない。それをつまらない、と思ってしまうのは、一種の危険中毒に陥っている証拠かもしれない。だがつまらないのは本当なので、私は、不注意にも、寝た。


〈第四話『私と彼女』に続く〉

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