第二話『フレンチ・ディスパッチ』
私は出遅れた。
だが、総合的に見れば、この遅れは『幸運』だ。
私は、当初乗る予定だった飛行機に、乗ることができなかった。
決して、私が、搭乗口への集合時間に遅刻したわけではない。
予約システムの不具合で、私の予約したはずの席は、誰かとダブルブッキングされていたらしいのだ。
だがそこはさすがエール・フランス。一本後の便でなんと……ファーストクラスの席を得たのだ。
エコノミークラスからファーストクラス。私は、飛行機のヘビーユーザーではないので詳しくないのだが、これは稀に見る成り上がり方ではないだろうか? それも、初めての海外旅行で、である。座席は身に余るほどの広さで、やけにふかふかとしている。他の座席ほとんど埋まっておらず、私が何かにつけてガザゴソと動くこと以外に音はなく、静寂そのものだ。快適すぎるのも……かえって落ち着かない。なので、これは一種の社会見学であると、さっきから何度も自分自身に言い聞かせている。そして今私の目の前にあるのは……
——シャンパン。
シェフは、これを
「コチラ、『キャロットラペ』デゴザイマス」
不必要に縦に長区伸びた帽子を被ったフランス人シェフが、その頭で座席を突き飛ばしてしまいそうなくらいに深々とお辞儀をしながら、『ラペ』という私の知らない言葉を使う。この人も、地下鉄で見かけた女性に負けないくらい日本語が上手いな。いや、それ以上かもしれない。だが待て、ここはファーストクラスだぞ、極上のホスピタリティが保証されているはず。ここでは、不自然なほどの高品質のサービスは、当たり前の現象なのだ。私は今、企業の重役か誰かで……そうだ、演じればいい。自己暗示をかけよう。私は企業の重役。作法がなんだ! 私は私の好きなように振る舞う。食べるも食べないも自由! よし、そうやって行動を正当化していこう。いくらでも、かかってくるがいい!
私は、浅めの会釈でシェフに感謝を伝える。次に、ぬるくなったシャンパンを一気に飲み干す。美味しくはあるが、美味しいという以外には、私の馬鹿舌では、それがアルコールである、ということしかわからない。キャロットラペの方も、一口で平らげる。塩味とオリーブオイル。マスタードも効いている。なかなかいける。きっと世の重役も、せいぜいそれくらいの解像度の感想しか抱いていないはずだ。ああ、またシェフがやってくるぞ。
これはメイン料理の……
——
私がいつも、『シチュー』と呼んでいるものだ。ブラウンイエローの海。水面から、ごろっとした、大きめの仔牛肉がチラッと覗く。双葉のセージも浮かんでいる。シチューの海の粘性はかなり高いようで、それが沈む気配はない。時折、濃厚なバターの香り、仔牛肉の適度な乳臭さ、セージの清涼な
——次に、バゲット。
これは推測がつく。たぶんこれをちぎって、皿に残ったシチューをつけて食べる。そうすることで、汚らしく食べ残すことなく、美しく完食できる。で、これは……全粒粉か? なんというか……深い味がする。やはりいつも昼ごはん代わりにしている菓子パンとはわけが違う!
——そして、
平皿の中央に反り立つ有頭の海老。遊離したアスタキサンチンによって鮮やかな朱色になった海老と、隣に添えられたハーブの緑とが、補色のコントラストをなしていて芸術的だ。皿の横には、フィンガーボウルとかいう、指を洗うための水が張られた器。昔、初めてフレンチに行った時に、これをいわゆる『お冷』と勘違いして、なんの疑いもなく飲んでしまいそうになったところを、シェフに止められたのを思い出す。あの時は、恥ずかしかったなあ。だが今日は、そんなことは起こらない。
手際よく殻を外す。これはたぶん、私の器用さではなく、シェフの技量のおかげで、剥きやすくなっているのだろう。外した頭から、髄液が滴る。それを、タガメの捕食のごとくチューチューと吸う。実を言うと、魚介類の内臓などドロっとしたえぐみの部分が、私の好物なのだ。海老の身もしっかり味わうと、臭い汁まみれになった指を、フィンガーボウルにつけて浄化する。
——ここで、お口直しのソルベ。
それが具体的に何かはわからないが、柑橘系の味がする。冷たさも相まって、とにかくこれで、魚介でやや生臭くなった口の中がリセットされた。いや、生臭いというのは少々失礼か。
——気を取り直して、
——最後はデセールの、オペラ。
デセール、つまりデザートだな。音が似ているからわかる。よく見るオペラはスリムな四角形をしているが……これに関しては、
私は満腹のあまり、血糖値スパイクに襲われたのか、深い眠りに落ちた……
〈第三話『敷かれたレールの上を走る』に続く〉
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