第二話『フレンチ・ディスパッチ』

 私は出遅れた。


 だが、総合的に見れば、この遅れは『幸運』だ。


 私は、当初乗る予定だった飛行機に、乗ることができなかった。


 決して、私が、搭乗口への集合時間に遅刻したわけではない。


 予約システムの不具合で、私の予約したはずの席は、誰かとダブルブッキングされていたらしいのだ。

 

 だがそこはさすがエール・フランス。一本後の便でなんと……ファーストクラスの席を得たのだ。


 エコノミークラスからファーストクラス。私は、飛行機のヘビーユーザーではないので詳しくないのだが、これは稀に見る成り上がり方ではないだろうか? それも、初めての海外旅行で、である。座席は身に余るほどの広さで、やけにふかふかとしている。他の座席ほとんど埋まっておらず、私が何かにつけてガザゴソと動くこと以外に音はなく、静寂そのものだ。快適すぎるのも……かえって落ち着かない。なので、これは一種の社会見学であると、さっきから何度も自分自身に言い聞かせている。そして今私の目の前にあるのは……


——シャンパン。


 シェフは、これを食前酒アペリティフと呼んでいた。フランスに着いてから、最初の夜はどこかディープなところで安酒をかっ食らおうと思っていたので、まさか機内で飲酒するとは思いもよらなかった。それに、作法がまるでわからない。いつ、どれくらいの量を、どれくらいのペースで飲めばいいのだろうか? 次の食事が運ばれてくるまでに飲み切るべきか? それとも、大事に、ちびちびと飲めばいいのか? 考えあぐねていると、水面で気泡がパチパチと弾ける音が聞こえる。このシャンパンは、強炭酸なのだろうか? 昔メダカを水槽で飼っていたことがあるが、やや小ぶりのシャンパングラスの中ほどから舞い上がっていく泡は、エアポンプから供給される酸素の泡よりも遥かに繊細で、美しく、でもって力強い。揮発したアルコールの香りを、私の鼻が捕獲する。そうだ、この……今ではすっかり手指消毒はしなくなったが、フレンチではまだ、食事前のアルコールは健在、ということなのか? 気づけば、なぜか私は、憧れの異性と初めてのディナーに行く時のように、極度に緊張し、頭の中には、妙な話題しか思い浮かばなくなっている。そうこうしているうちに……ああ、シェフが次の料理を運んでくるのが見える。食前酒は依然手付かず。私が、食事の始まりを拒否する気難しい客に見えるかもしれない。あ、シェフがもう目の前にいる! えっと次は……前菜オードブルだったはず。


「コチラ、『キャロットラペ』デゴザイマス」


 不必要に縦に長区伸びた帽子を被ったフランス人シェフが、その頭で座席を突き飛ばしてしまいそうなくらいに深々とお辞儀をしながら、『ラペ』という私の知らない言葉を使う。この人も、地下鉄で見かけた女性に負けないくらい日本語が上手いな。いや、それ以上かもしれない。だが待て、ここはファーストクラスだぞ、極上のホスピタリティが保証されているはず。ここでは、不自然なほどの高品質のサービスは、当たり前の現象なのだ。私は今、企業の重役か誰かで……そうだ、演じればいい。自己暗示をかけよう。私は企業の重役。作法がなんだ! 私は私の好きなように振る舞う。食べるも食べないも自由! よし、そうやって行動を正当化していこう。いくらでも、かかってくるがいい!

 私は、浅めの会釈でシェフに感謝を伝える。次に、ぬるくなったシャンパンを一気に飲み干す。美味しくはあるが、美味しいという以外には、私の馬鹿舌では、それがアルコールである、ということしかわからない。キャロットラペの方も、一口で平らげる。塩味とオリーブオイル。マスタードも効いている。なかなかいける。きっと世の重役も、せいぜいそれくらいの解像度の感想しか抱いていないはずだ。ああ、またシェフがやってくるぞ。


 これはメイン料理の……


——仔牛肉こうしにくのクリーム煮。

 

 私がいつも、『シチュー』と呼んでいるものだ。ブラウンイエローの海。水面から、ごろっとした、大きめの仔牛肉がチラッと覗く。双葉のセージも浮かんでいる。シチューの海の粘性はかなり高いようで、それが沈む気配はない。時折、濃厚なバターの香り、仔牛肉の適度な乳臭さ、セージの清涼なかぐわしさが漂ってくるが、それはおそらく機内の換気が確かに行われている証だろう。どれ、一口……おお! 今まで食べたシチューで一番美味しい! 嗅覚で感じたほど、各食材が喧嘩をしていない。味が一つに、見事にまとまっている。それに、見た目のドロドロさ、肉の切り方の大胆さに反して、ペロリといけてしまう。この仔牛肉、たぶんヨーロッパ特有の硬水を使って、相当煮込まれているのだろう。というか今、なかなかの食レポができているのではなかろうか?


——次に、バゲット。


 これは推測がつく。たぶんこれをちぎって、皿に残ったシチューをつけて食べる。そうすることで、汚らしく食べ残すことなく、美しく完食できる。で、これは……全粒粉か? なんというか……深い味がする。やはりいつも昼ごはん代わりにしている菓子パンとはわけが違う!


——そして、魚介料理ポワソンの、オマール海老。


 平皿の中央に反り立つ有頭の海老。遊離したアスタキサンチンによって鮮やかな朱色になった海老と、隣に添えられたハーブの緑とが、補色のコントラストをなしていて芸術的だ。皿の横には、フィンガーボウルとかいう、指を洗うための水が張られた器。昔、初めてフレンチに行った時に、これをいわゆる『お冷』と勘違いして、なんの疑いもなく飲んでしまいそうになったところを、シェフに止められたのを思い出す。あの時は、恥ずかしかったなあ。だが今日は、そんなことは起こらない。  

 手際よく殻を外す。これはたぶん、私の器用さではなく、シェフの技量のおかげで、剥きやすくなっているのだろう。外した頭から、髄液が滴る。それを、タガメの捕食のごとくチューチューと吸う。実を言うと、魚介類の内臓などドロっとしたえぐみの部分が、私の好物なのだ。海老の身もしっかり味わうと、臭い汁まみれになった指を、フィンガーボウルにつけて浄化する。


——ここで、お口直しのソルベ。

 

 それが具体的に何かはわからないが、柑橘系の味がする。冷たさも相まって、とにかくこれで、魚介でやや生臭くなった口の中がリセットされた。いや、生臭いというのは少々失礼か。


——気を取り直して、肉料理ヴィアンドの、ランプステーキとフォアグラの赤ワインソースがけ。


 身肉と、ワインと、肝臓フォアグラの鉄分とが、『血』を彷彿とさせる。それとフォアグラは、ガチョウだかアヒルだかに無理やり大量の餌を与えて育て、肝臓を肥大させるのだろう? なんだか……深く考えすぎると、中々グロテスクな肉料理ヴィアンドだな。正直もう、かなりお腹いっぱいになってきたが、これならまだ食べられる、というくらいには美味しい。これを調理したシェフを呼んでこい! そう叫んで、意味深な沈黙の後、ベタベタに褒め上げる。そんな妄想も膨らむが、私はそのような気取った振る舞いをするほどの身分でもなければ、そんな勇気もない。さっき自分を企業の重役と思うことにしようなどとほざいたが、あれは撤回しておく。

 

——最後はデセールの、オペラ。


 デセール、つまりデザートだな。音が似ているからわかる。よく見るオペラはスリムな四角形をしているが……これに関しては、尖塔型せんとうがただ。それに、本物の塔のように、皿に対して垂直にられている。なるほど、あの観光名所を模しているのがバレバレだ。金箔が散らされていて、高級感もある。そうだ、いいことを考えた。これを一口で、剣を丸呑みするマジシャンのように、飲み込んでしまおう…………うむ、なんて贅沢なんだ。濃厚なチョコレートコーチングとガナッシュクリーム。こんなにいい思いをして、バチが当たらないか心配だな。まだフランスに着いていないのが、嘘のようだ。

 

 私は満腹のあまり、血糖値スパイクに襲われたのか、深い眠りに落ちた……


〈第三話『敷かれたレールの上を走る』に続く〉

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