第5話 フランケンシュタイン症候群

 合わせ鏡というのは、

「自分の身体の前後左右のどちらかに、鏡を置いた場合」

 のことをいう。

 前後に置いた場合だが、

「その鏡というのは、まずは、目の前の自分を映し出すのだが、その映し出した鏡に映っている自分の後ろにも鏡があることになり、その鏡には、自分の後姿が写っている。さらに、その向こうには、前を向いた自分の姿が……」

 ということで、

「どんどん、その姿や光景が小さくなっていく」

 というもので、まるで、

「鏡の中に、鏡がある」

 という感覚である。

 だから、鏡はどんどん小さくなっていくのだが、理屈から考えると、

「どんどん小さくなってはいくが、消えてなくなることはない」

 つまりは、

「無限に続いていくもの」

 ということである。

 しかし、実際には、どんどん小さくなっていっているわけで、

「いずれは、ゼロになるのではないか?」

 と考えられるが、理屈上では、

「ゼロになる」

 ということはありえないのだ。

 ということは、

「限りなくゼロに近い」

 という存在になるのであり。この理屈は、

「マトリョシカ人形」

 と同じ考えであるといえるだろう。

 そんな鏡を見ていると、

「無限と限りのあるものとで、どういう違いがあるのか?」

 と考えさせられる。

 もっといえば、

「無限というものは、本当はあり得ないのではないか?」

 という結論に達する。

 つまり、

「これ以上は無理だ」

 という無限の一歩手前のものが、存在するかどうか?

 というのが、問題なのではないだろうか?

 昔の古代人が、地球を創造した時、すでに、

「地球は丸い」

 ということを表していて、その果てを示していなかったように思えたのだが、その発想でよかったのだろうか?

 そもそも、

「無限という発想があれば、形にする」

 ということはできないのではないだろうか?

 地図を書くことはできても、行きつく先までであり、それ以上先を描くのは、

「その世界に入り込んでみないとできない」

 ということになるだろう。

 つまりは、小さくなって。その模型の上を地表として、その目線で見なければ、

「地球というものを、見ることができない」

 それは、合わせ鏡の最後のところで、

「限りなくゼロに近い」

 という存在で、それが、世の中の果てのすぐ手前に見えるその世界というのが、

「限りなくゼロに近く。ゼロといってもいい世界」

 なのではないか?

 ということである。

 そんな合わせ鏡の夢の中で、想像したのが、

「フランケンシュタイン」

 の話であった。

 フランケンシュタインというと、

「怪物を作った博士」

 であるが、ここまで考えてみると、

「ジキルとハイド」

 という話も、ハイド氏を作ったのは、ジキル博士ではなかったか?

 ということである。

 あの話においては、

「自分の中にいるもう一つの性格である、正反対といっていい、極悪なハイド氏を、薬の力においてあぶりだす」

 というような話ではなかったか。

 つまりは、

「自分の中にある潜在意識を引きずり出した」

 という形になるのだが、ジキル博士は、元々、自分の中に、ハイド氏がいるということを分かっていてのことだった。

 ただ、

「これほど、恐ろしい人物だった」

 ということを分からずに、薬の力で覚醒させてしまった。

 しかも、自分とは正反対の性格でありながら、長所というか、短所も、相対しているということである。

 それは、

「頭がいいところ」

 ということであり、これは普通であれば、

「長所」

 と言われることである。

 しかし、

「長所と短所は紙一重」

 と言われ、さらに、

「長所は短所の裏返し」

 とも言われるのだ。

 この言葉は、

「どちらから見ても、同じ方向で見えているものだ」

 と言えないだろうか?

 もっといえば、

「自分の目線というものは一つしかなく。だからこそ、長所と短所がハッキリと見えるのではないか?」

 といえるのではないだろうか?

 長所と短所というものが、正反対であるといっても、裏を返せば、ひっくり返せば、同じところに来るということになる。

 長所から見れば短所であり、短所から見れば長所なのだ」

 といえるであろう。

 ただし、その見る目線が同じなので、長所を見ていると思うと、短所であっても、長所にしか見えないのだ。

 だから、長所を中心に見ている人には、短所が見えないわけで、

「短所があるということは分かっているが、どこにあるのか分からない」

 ということになる。

 それは、短所を見る時と同じで、長所を見つけられないというのは、

「短所としてしか、自分を見ていないからだ」

 といえるだろう。

 フランケンシュタイン博士もそうだったのかも知れない。

 人間にとっての、理想の人間を作ろうとしながら、見ていたのは、悪いところばかりであり、

「自分には、理想の人間など作ることはできないのではないか?」

 という中途半端な考えを持ったことで、結局、最後には、

「何も答えになっていない世界ばかりが、言い訳のように積み重ねられることで、最後には、理想の人間を作り損ねてしまったのだ」

 ということになるのだろう。

 それが、

「人間に災いをもたらす」

 という、いわゆる

「ハイド氏」

 を作ってしまったということになるのだろう。

 ただ、

「フランケンシュタインが、ハイド氏だ」

 ということではない。

 フランケンシュタインという話は、

「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまったことで、そのまま放っておいたために、結果、被害を巨大化させる」

 という物語であり、

 さらに、この話の恐ろしいところは、

「本来ならブーメランであるところの、因果応報が、フランケンシュタインであるはずなのに、この物語においては、本人が殺されるわけではなく、まわりの人間が、どんどん殺されていくという話」

 だということである。

 ただ、これは、小説という意味では、二つの意味を持っている。

 一つは、

「主人公が殺されてしまうと、話がそこで終わってしまう」

 という、

「小説を物語として見た場合」

 という理屈である。

 そして、もう一つは、

「恐怖小説ということで、自分が最後には殺されるのだろうが、まわりの人が死んでいくのを、見ながら、自分がどんどん追い詰められていくということが、いかに恐ろしいものなのか?」

 ということが、

「恐怖の境地だ」

 ということになることであった。

 そもそも、フランケンシュタインが、自分の創造したものに、絶望したのは、

「自分が作ったものが、あまりにもみすぼらしい」

 ということからであった。

 何といっても、

「墓暴き」

 というのを行い、そこから死体を盗み出し、つぎはぎだらけのその姿に失望したということである。

 実際に、フランケンシュタインは、怪物を置いて、逃げてしまった。

 しかし、怪物は強靭な生命力で生き延び、完全な怪物となり、フランケンシュタインに復讐を考える。

 自分と同じ怪物の異性を作ってもらおうと考えたのだが、フランケンシュタインは、

「怪物が増えることを懸念して、それを拒否」

 怪物は、フランケンシュタインのまわりの人間を、どんどん殺していくことになるのだった。

 そもそも、この、唯一といってもいい、

「人間らしい考え」

 というものを持った、

「怪物が増えることを懸念する」

 ということは、

「フランケンシュタイン症候群」

 ということで、ロボットを作るうえでの、戒めとなっている。

 フランケンシュタインという話は、

「美」

 というものと、真っ向から歯向かうべき、

「醜悪な身体や顔」

 と持っていることから、

「人間への憎しみは、醜さにある」

 という、普通に当たり前の発想が、

「フランケンシュタイン症候群」

 ということになるのだ。

 だから、その分、怪物の感じている憎悪は、

「激しいものだ」

 といってもいいだろう。

 そんなフランケンシュタイン症候群と呼ばれるものは、

「ロボット開発」

 というものにおいて、その問題が指摘される。

 というのは、

「フランケンシュタイン症候群」

 つまりは、

「悪魔のような人種を作ってしまったことで、さらに、増殖してしまう恐れがある」

 ということから、ロボットの人工知能に、

「人間を攻撃しない」

 という機能を付けておく必要がある。

 そこで考えられたのが、

「ロボット工学三原則」

 というものだった。

 これは、科学者によって提唱されたものではなく、

「SF作家」

 によって提唱されたものであった。

 自分の小説の、

「ネタ」

 ということになるのだが、それを、

「フランケンシュタイン症候群」

 に引っ掛ける形で、提唱されたのであった。

 ということで、第一条は、

「ロボットは、人間を傷つけてはいけない。そして、人間が、危機に陥ったということが分かったのであれば、身を挺してでも、人間を助けなければならない」

 というものであった。

 そして第二条として、

「ロボットは、人間の命令には服従しなければならない。ただし、一条に抵触してはいけない」

 というものであった。

 そして第三条は、

「ロボットは、自分の身は自分で守らなければいけない」

 ということであり、これも、

「第一条、 第二条に抵触してはいけない」

 ということであった。

 要するに、この三条からなる原則は、

「第一条から、優先順位が確立されている」

 ということである。

 例えば、

「第二条の、ロボットは人間の命令に服従しなければいけないという項目」

 であるが、

「人間の命令で、人を殺せというものがあった場合は、その命令は聞いてはいけないのだ」

 なぜなら、第一条に抵触してはいけないということで、第一条は、

「人を傷つけてはいけない」

 とあるからだ。

 また、第三条の、

「ロボットは、自分の身は自分で守らなければいけない」

 とあるが、この場合も、

「人間が危ない目に遭っているのに、ロボットが自分が危険に晒されるからといって、助けにいかないということは許されない」

 なぜなら、第一条に、

「人間が危機に陥った時、身を挺して助けなければいけない」

 という項目があるからだ。

 このように、

「絶対的な三原則」

 というものがあるということで、

「フランケンシュタイン症候群」

 というものを打破できるという発想であった。

 しかし、小説としては、それでは面白くない。

 この三原則の盲点を突くかのような話が、SF小説として描かれ、

「三原則だけでは、ロボットとしては、まだまだ未完成である」

 ということを示しているのであった。

 ロボット開発というのは、実に

「人間によって、都合よくできている」

 人間社会において、今の時代では、

「人間を奴隷として扱ってはいけない」

 という風潮になってしまったからで。昔の古代帝国などであれば、

「戦争に負けたところが、奴隷となるのは当たり前」

 ということであった。

 宗教などの教えで、それが、次第に、、民主化の動きとなって、社会的に

「人間を奴隷として扱ってはいけない」

 ということになってきた。

 とは言っても、中世からの、

「封建制度」

 であったり、大航海時代以降においての、

「植民地支配」

 などというのは、完全に、奴隷制度のようなものといってもいいだろう。

 アジア、アフリカ諸国は、ほとんどが、欧州の国々に、植民地化され、20世紀前半まで、

「植民地」

 ということで、完全な、

「従属支配」

 とされていたのだ。

 それが、次第に、日本が台頭することになって、

「欧米列強から、アジアを解放し、アジアにての、新しい新秩序を築く」

 という日本における、

「大東亜共栄圏の建設」

 というのが叫ばれるようになった。

 そもそも、元々、ヨーロッパから解放してやろうといっているのに、それに逆らう人種もいたりして、どこまでが、本当なのか、歴史の事実として表に出てきていないので、ハッキリとは分からないが、実際には、それまでのアジアは、

「欧米列強に、食い物にされていた」

 ということは、紛れもない事実である。

 それを、日本が救おうとしたというのが、欺瞞であるかのように言われるが、

「確かに、アジアの盟主を狙ったというのも事実であろうが、どこかの国が、盟主にならなければいけないのであれば、それを日本が担ったとして、何が悪いというのか?」

 ということである。

 それなのに、戦争に敗北すると、

 閣議決定された名前である、

「大東亜戦争」

 という言葉を、戦勝国は、

「自分たちに都合が悪い」

 ということで、いうことを禁じたのだった。

 やはり、

「勝てば官軍」

 ということを言われるのはしょうがないことであるが、実際に、占領から解放され、

「独立国になってまで、いまだに、大東亜戦争と言わずに、太平洋戦争といっている」

 ということを思うと、

「日本という国は、いつの間にか、米国の属国に成り下がった」

 といってもいいだろう。

 政府が、

「自分たちのことしか考えない連中ばかり」

 ということであれば、それも仕方がない。

 それでも、民主国家として、

「自分たちが政党を選び、その代表がソーリになるというのだから、それが、民主主義なので、政治家が何をしようと、国民とすれば、因果応報であり、自業自得ではないか」

 ということになるのであった。

 それを考えると、

「奴隷制度は、今の日本のようなものだ」

 といってもいいだろう。

 そんな時代において、人間は、

「開けてはいけない」

 という、

「パンドラの匣」

 を開けてしまったのだ。

 それは何かというと、

「核兵器」

 という、人類を破滅に導くことができる、いわゆる、

「最終兵器」

 であった。

 最初は、確かに、

「大東亜戦争をいち早く辞めさせることでの、米軍、あるいは、日米両国の被害を最小限に食い止める」

 という大義名分だったのかも知れない。

 しかし、実際には、それを使用すると、

「数十万人という市民が住む大都市を、一発の爆弾で廃墟にし、さらには、その放射能によって、二次災害が生まれる」

 という、使用するには、

「使用することで得られるものよりも、失うものの方がはるかに大きい」

 ということを知ったはずだった。

 それによって、人類は、

「使用してはいけない兵器」

 ということで、

「これで、戦争はできなくなった」

 と言われたものだ。

 それが、いわゆる、

「核の抑止力」

 というもので、

「持っているだけで、平和が保たれる」

 と、一時期、真剣に言われたものだった。

 だが、それが一体どういうことなのぁ?」

 というと、実際には、お互いに、

「相手よりも、強いものを持つ必要がある」

 という考え、あるいは、

「相手に劣ってはいけない」

 という考えから、新たな破壊力の強い兵器を、開発するようになるのだった。

「今でも、十分な抑止になるのに」

 ということが分かっていないのだ。

 それによって、行う核実験で、地球環境を破壊していることに、本当に気づいていなかったのだろうか?

 それとも、

「核兵器の魔力に取りつかれていた」

 ということなのか、人間というものは、

「本当に愚かな種族だ」

 と言われたとしても、仕方がないだろう。

 最初に、核開発競争を行った、

「米ソ両国」

 は、すでにその恐ろしさに気づいたが、それ以外の、

「核発展途上」

 と言われる国は、まだまだ気づいていない。

 今の時代に、まだまだ、核兵器をもっていなければ、外交ができないということで、

「核を外交の手段」

 として考えているところもあるくらいであった。

 もっとも、今の時代は、

「核兵器廃絶の時代」

 ではあるが、それを、保有国がいうのでは、説得力がない。本来であれば、日本のような、

「保有せず、さらに、世界唯一の被爆国である」

 というところが、先頭に立たなければいけないのに、実際には、

「使用した国の属国になってしまっているのでは、どうしようもない」

 それでも、

「日本は、属国ではない」

 と言うのだろうが、少なくとも、まわりの国からは、そうとしか見えないのであるから、実際には違ったとしても、

「何を言っても、言い訳にしかならない」

 ということであろう。

「核兵器」

 というものは、

「人類が作り出してはいけない」

 と言われるものということで、まるで、

「フランケンシュタインが作り出した、怪物」

 と同じだといえるのではないだろうか?

「理想の人間を作るつもりで、怪物を生んでしまった」

 しかも、それは、フランケンシュタイン博士が、抱いた野望で、さらには、その醜さに、作った自分が失望したことで、怪物化してしまい、復讐に燃えた、

「悪魔のような怪物」

 である。

 フランケンシュタイン博士は、怪物のどんどん追い詰められていき、それこそ、自分が死ぬよりも恐ろしい苦しみを何度も何度も味わうことになるのだ。

 それも、

「自分が作った怪物」

 にである。

 そんな悪魔のような怪物は、フランケンシュタインに、

「自分一人では寂しいので、異性の怪物を作ってほしい」

 と願い出たが、それにより、怪物の増幅を恐れた博士は、拒否をした。

 そのために、さらに苦しめられることになるのだが、この発想が、

「フランケンシュタイン症候群」

 ということであり。

「悪魔の怪物の増殖によって、人類の破滅を招く」

 という、簡単な、

「数学の公式」

 であるのだが、それを、核開発の科学者は、数万人もいるのに、誰も気づいていなかったということであった。

 それだけ、

「核の抑止力」

 というもので、

「平和が守れる」

 と考えたのであろうか?

 いや、少なくとも、彼らは、自分たちが作り出した原爆の威力を、人類史上最初に見たはずである。

 それが、

「史上初と言われる原爆実験」

 なのである。

 少なくとも、その破壊力に閉口したのは間違いない。

 中には、

「こんなものか」

 といって、その破壊力に失望し、さらなる兵器開発を考えたという、ごくまれな科学者がいたのも事実だったが、ほとんどの学者が、驚いたのは、無理もないことであろう。

 ただ、結果的に、

「原爆投下」

 ということにより、

「大東亜戦争は、終わりを告げた」

 といってもいいだろう。

 アメリカ兵の損害をいたずらに増やすこともなく、日本人の本土における、

「玉砕」

 というものを防いだということで、

「ヒロシマ」

「ナガサキ」

 の犠牲は、役に立った。

 ということで、核兵器を開発した科学者は、英雄となり、アメリカ社会での発言力が増したのだ。

 しかし、実際には、その末路は決して、順風満帆ではなかった。

 何と、

「ソ連のスパイ容疑」

 というものを掛けられ、失脚することになってしまったということであった。

 それを思えば、

「人間というものは、何と愚かな人種なのか?」

 ということである。

 もちろん、

「ソ連のスパイだったのかどうか分からないが、結果として、失脚したという事実に変わりはない」

 ということだ。

 ということは、

「国家の最高機密を相手に漏らさないために、失脚させられた」

 ということなのか、それとも、

「単純に、権力闘争に敗れた」

 ということになるのかは分からないが、アメリカという国は、それだけ、シビアなところだということであろう。

「権力を持つと、失脚する」

 つまりは、

「出る杭は打たれる」

 ということになるわけである。


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