第4話 「合わせ鏡」の夢
最近、大人になってから、
「都合のいい夢」
というのをあまり見なくなった気がした。
それがどういうことなのか?
ということを考えると、
「自分が大人になったからではないか?」
と、朝倉青年は思うようになった。
大学時代くらいまでは、いつも、どこか都合のいい夢を見ていたと思っている。
そのくせ、
「覚えている夢は、怖い夢ばかりだった」
という思いに至るのだったが、最近では、怖くない夢も覚えていることが多くなった。
そのため、
「いつも夢を見ている」
という感覚になってきたのだが、やはり子供の頃に感じていた。
「夢というのは、毎日見ていて、ただ、覚えていないだけではないか?」
という発想が、
「ウソではなかった」
という思いであった。
大学時代になってから、一度、
「夢というものは、都合のいいものだ」
というような小説を書いたことがあったが、それを見て、
「なかなか面白い」
と、教授に褒められたことで、朝倉青年は、
「小説家になりたい」
と、単純に思うようになった。
一年生の時、
「大学に入ったら、何かやりたい」
と思ったが、なかなか見つからない。
そう思っている中で、友達に、
「遊びに行こうぜ」
と言われると、簡単に誘惑に負けてしまって、友達にいつもついていくようになったのだ。
といっても、自分から何かをするというわけではなく、ただ、
「一緒に街に出かける」
ということであり、友達が遊びにいくとことに、
「ただ、ついていく」
というだけのことだった。
ついていく場所というのが、どこであっても、毎回同じというわけではない。
だから、何も言わずについていくのだったが、それも、半年もすれば、急に、ふと、何かを考えるようになる。
「俺って、都合よくつかわれているのかな?」
ということであった。
だが、その思いは結構前の頃から思っていたことであって、
「今までに感じたことのない思いなんだけどな」
ということであった。
というのは、
「確かに友達とどこかに出かけるのは面白いのだが、どうも、いつも楽しい思いというものに誘われる形で、結果として、自分がどこかに置き去りにされているのではないか?」
と感じるのだった。
まるで、
「梯子を掛けられて、この上に昇れば、楽しいものが見れるぞ」
と言われ、
「昇ってみると、梯子を外された」
という感覚である。
それでも、苦笑いをしながら、友達に逆らうことができないのは、
「引っかかった俺が悪いんだ」
という思いが強くあるからであった。
というのも、
「簡単に引っかかる自分が悪い」
という思いは昔からあった。
しかも、
「よく騙されやすい」
という思いも、まわりから、よく指摘されてもいたのだが、それでも、自分の中で、
「騙される方が、騙すよりの、百倍もいい」
という思いがあったからだ。
それは、自分の中にある、
「勧善懲悪」
という感情が大いに意識として働いているからではないだろうか。
最近では、テレビで見ることもなくなったが、その頃はまだ、夕方の時間になると、民放などでは、
「人気時代劇」
ということで、
「勧善懲悪」
と言われる番組をやっていた、
そう、いつも同じパターンの話で、
「その原因が違う」
というだけであったが、最後の方は、そのパターンも出尽くしたのか、皆から、物まねをされるくらいのパターンでしかなくなってしまったという、シリーズであった。
「悪代官が、色とお金に炙れ、そこに、悪徳商人が絡んでくることで、理不尽な話が出来上がる」
というものだった。
なぜか、いつも、悪徳商人は、
「越後屋」
であり、悪の権化は、代官なのだ。
それを取り締まる、
「正義のヒーロー」
というのが、
「お忍び」
で、全国を漫遊しているという、実際にはそんな職はないのに、強引につけた、
「副将軍」
であったり、
「背中に入れ墨を施した、お奉行様」
だったりする。
そのうちに、
「将軍様」
が、街火消しと仲良くなり、その元締めだけが、主人公の正体を知っているという話だったりする。
他にもいろいろなパターンがあるのだろうが、そういうパターンの時代劇を見ていると、高校時代までは、嫌いだったはずの時代劇が、嫌だというわけではなくなったのだ。
もちろん、
「毎回同じパターン」
というところは、気に入らなかったが、それでも、なぜか、
「年寄りには、絶大な人気がある」
というのであった。
少しすると、そんな年寄りの人気が下がったというわけではないが、それ以上に、
「放送局の都合」
というのか、それとも、
「スポンサーの都合なのか?」
ということが分からなかったが、次第に、時代劇というものが、民放から減っていったのだ。
確かに、
「有料放送」
というものができてきて、そっちで、
「時代劇専門」
のチャンネルができたり、
「サスペンスドラマ専用」
のチャンネルができたりして、そっちで楽しむ人が多くなった。
きっと、
「スポンサーや、放送局に事情」
というのは、そのあたりなのではないだろうか?
朝倉青年は、
「時代劇のような話を書きたいとは思わない」
とは思ったが、
「なぜ、老人に時代劇が人気があるのか?」
ということを考えてみた。
確かに、
「年寄りの方が、勧善懲悪が好きだ」
ということは分かる気がする。時代の流れから、理解できないわけではないが、それよりも、
「どうして、あんなにワンパターンな番組がいいのかが分からない」
と思えたのだ。
放送局も途中から、路線変更を考えたのか、
「ワンパターン」
な中に、中年男性の客層をつかもうとしたのか、
「女優の入浴シーン」
を織り交ぜ始めた。
一時期は人気が復活したが、やはり時代の流れに逆らうことはできないということなのか、どうもうまくいかないようだった。
それでも、テレビの創成期から、
「時代劇」
というのは、ずっと変わらぬ人気があった。
確かに、
「同じパターンであっても、見続けるという人」
そして、やはりいえることは、
「勧善懲悪」
というものが、いかに、人気を博すということなのか?
ということなのであろう。
朝倉青年は、それを、
「現代における勧善懲悪」
ということで描こうと考えた。
実際に描いてみるのだが、どうも、なかなかうまくいかない。
何といっても、現代というのは、昔と違って、捜査に人数も掛けるし、民主主義という考え方だけではなく、
「法治国家」
と言われるほど、法律がしっかり出来上がっているからである。
ただし、いくら、
「法治国家」
であり、
「民主主義」
の社会といっても、実際には、ある程度の限界がある。
ほどんどの事件は検挙され、
「検挙率は高い」
と言われているが、実際に、
「検挙される事件でなければ、警察は取り合わない」
ということもある。
例えば、捜索願が出されても、警察は、
「事件性がなければ、取り合わない」
ということだ。
さらに、現代の警察は、
「縄張り意識」
というものがあり、
「管轄同士で、それぞれ、検挙率を争っていたり、下手をすれば、事件の取り合い」
などということをするのだった。
だから、
「平成の刑事ドラマ」
などというと、
「警察組織に対しての、一刑事の挑戦」
というものが話題になったりしている。
それまでの昭和の時代の刑事ドラマというと、
「ヒューマンドラマ」
であったり、
「社会派」
と呼ばれるドラマが多かった。
特に戦後にあった、
「探偵小説」
と呼ばれるジャンルであれば、それは、
「本格派探偵小説」
と、
「変格派探偵小説」
というものに分かれていた。
「本格派」
というのは、
「探偵小説」
というものは、
「謎解きやトリックなどを駆使する形の小説で、それを、主人公の探偵であったり、刑事などが、爽快に解決していく」
という内容である。
そして、
「変格派探偵小説」
というのは、
「それ以外の探偵小説」
と呼ばれるもので、内容とすれば、
「猟奇犯罪」
であったり、
「変質者による、異常性癖」
であったり、
「耽美主義」
と呼ばれるものだったりするのであった。
「耽美主義」
と呼ばれるものは、
「道徳や倫理などを度返しにして、最優先順位として考えられることを、「美」というものだということで考えられたもの」
それが、
「耽美主義」
と呼ばれるのであった。
実際に耽美主義と呼ばれるものとして、
「犯罪が描かれるようになったのは、変格派探偵小説の時代から」
ということではなく、実際に、日本に渡ってくる前の、ヨーロッパにおける探偵小説というと、
「耽美主義」
というものも結構あったことだろう。
というよりも、
「変格派探偵小説」
といってもいいものが結構あったのではないか?
実際に、
「ジキルとハイド」
の多重人格性の話であったり、
「フランケンシュタイン」
のような、
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」
という、一種の、
「ブーメラン」
のような話として、一言でいえば、
「因果応報」
といってもいいような話が、戦前に日本で流行ったところの、
「変格派探偵小説」
といってもいいのではないだろうか?
そういう意味もあって、
「多重の夢」
として、
「ジキルとハイド」
の話が例に出されるのであれば、
「合わせ鏡の話」
として、
「フランケンシュタイン」
の話が例に出てきてもいいのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「変格派探偵小説」
というものから、
「探偵小説黎明期」
を思い起こしてみると、
「今の時代にも、あてはまるような内容の物語ができるのではないか?」
と、朝倉青年は考えていた。
さすがに、
「勧善懲悪を、ワンパターンで描く」
ということよりも、
「変格派探偵小説」
というものを、
「今の時代によみがえらせる」
と考える方が、面白いと思うのだった。
しかし、一時期から、今でも流行っているような、
「アニメ化された探偵もの」
というものは、あまり好きにはなれない。
あくまでも、
「子供向け」
ということであるので、トリックに凝ったものはなく、さらに、子供むけということで、
「猟奇殺人」
「異常性癖」
「耽美主義」
というのは、ある程度まではいいが、それ以上は、表現できないということで、
「変格派探偵小説」
としても、
「本格派探偵小説」
としても、成り立たないといってもいい。
それでも、目指しているのは、
「本格派と変格派探偵小説」
というものを、いかに、うまく織り交ぜるか?
ということであった。
そのためには、
「推理小説」
と呼ばれるジャンルに、
「ホラー」
「オカルト」
などというものを織り交ぜる形が多かったりする。
「森の中に建っている、古城」
であったり、
「無人島にある元財閥の屋敷」
であったりなどというのが、
そんな中で、
「昔の財宝が、無人島の洞窟に眠っていて、それを聞きつけた、金の亡者が、訪れて探検するのだが、最後には、変死体となって見つかっている」
などという、
「いわれのあるところ」
だったりする。
本当であれば、
「そんなところには、立ち寄ってはいけない」
ということで、
「立ち入り禁止」
ということにすべきなのだろうが、
「探検に来た人が死んでいく」
ということも、実際には刑事事件にならず、伝説として残っているというところだったりするのだ。
それが、
「マンガだから、許される」
ということであろうが、
「警察というものがいかに、事件性のないことは、打て合わないか?」
ということからきているという話もあったりした。
さすがに、朝倉も、
「そういう、子供だましのようなものは、俺には書けない」
ということで、大学時代に、小説を書きたいと思ったが、なかなか、最初の作品ですら書き上げることができなかったのだ。
ただ、小説というのは、
「とにかく、どんな作品であっても、書き上げるということが大切なのだ」
ということを、大学時代に、
「小説を書きたい」
と思った時に知った。
ほとんどの人が、
「書きたい」
と思って、筆を進めるのだが、最後になって、辻褄が合わなかったり、納得のいくものでなかったりして、最後には、
「あきらめてしまう」
ということが、多かったりした。
それを考えると、
「小説を書く上での、ハウツー本」
を見ていると、
「最後まで書ききることができないのは、自分には小説を書くなどという大それたことはできない」
という自己暗示にかけているからだと書いている。
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