楽しい歌の時間と脳科学

 ノース先生は、視聴覚室の教壇中央に置いたノートパソコンの前に戻った。


「あー、あー、チェックチェック」

「お、なんかおもしろそう」


 あたしからは見えないけど、席に座っている生徒から声が上がった。きっとレベルメーターが上下しているのかも。


「それでは、窓側の列のみなさん、起立してください」


 ガラガラっと、椅子が動く音がした。


「じゃあ、朱巳あけみさん、吉崎さん、お願いします」


 あたしたちは演奏を始めた。案の定、生徒たちの声は小さい。ノース先生、どうするんだろう?


「はい、オッケー、いいですね。皆さん、金髪の僕より英語が上手です」


 あ、褒めた。みんなから笑いが起きた。


「それでは次の列、さっきはここまで上がりましたから、もうちょっと上を狙ってみましょう」


 再び、あたしたちは演奏した。声の大きさはそんなに変わらなかった。


「すごいですね、ひとつですが、目盛りが上がりました。じゃあ、次の列はもっと上を狙ってください」


 え? どういうこと? あたしの耳がおかしいのかな。


 三回目、今度は本当に声が少し大きくなった。


「みなさん、すごいです。目盛りが二つも上がりました」


 四回目、最初は少し小さな声だったけど、途中からだんだん大きな声になった。


「じゃあ、もう一周しましょう。その後で、左右に分かれて歌います」


 すごい、どんどん声が大きくなってくる。


「最後は全員で、レベルメーターを振り切ってしまいましょう」


 あたしたちは、恐らく最後であろう演奏を始めた。みんなの声はとても大きい。きっと、ギターの音は聞こえていない。葉寧はねいのカホンだけ聞こえていると思う。


「じゃあ、最後にもうワンコーラス! 今度こそ、振り切りましょう。プリーズシングアゲイン!」


 ええ? もう、手が痛いよ。葉寧はねいを見ると、葉寧はねいも手をブンブンさせていた。それにしてもノース先生、すごい日本人英語発音。


 ノース先生、こっちを見ている。わかった、やるわ、やるから。


 葉寧はねいがカウントを出し、あたしはイントロを弾き始めた。


 もう、叫んでいる生徒もいて、歌なのか怒鳴りあいなのかわからなくなっている……これ、カホンの音も通ってないかも。


 歌が終わり、ギターとカホンのエンディングフレーズが終わると、みんな、大笑いをした。


 そして、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。


 あたしは、他の生徒のいなくなった視聴覚室で、ギターを片づけながらノース先生の方を見た。


「ノース先生、質問があります」

「どうしましたか?」

「二列目の生徒が歌ったとき、あたしには声量が上がったと感じませんでした」

「はい、その通りです」


 え、なんで、そんなに普通に答えるの?


「でも、目盛りは上がったんですよね?」

「はい、上がりました」

「入力ゲインとかいじったんですか?」

「違います。パソコンと生徒の距離です。最初の列はパソコンから離れていたため、ちょっと小さめに、次の列はパソコンから近いので、マイクがよく音を拾います」


 あ、そういうことか。


「そうすると、三列目の生徒たちは、もっとレベルメーターを上までという欲求が出てきます。一種の承認欲求です」


 ノース先生、鼻の穴をヒクヒクさせている。パパと同じだ。


「そして、レベルメーターが動く視覚効果により、脳にフィードバックがかかり、どんどん声が大きくなっていくんです」


 やられた。三浦高校の生徒でも折田大学にかなわないらしい。


「ところで南島なしま先生、あの、カラオケ音源でも良かったのでは?」

「著作権上、微妙に問題があるの。それに……」


「なんでしょうか?」


「あなたにも、もっとクラスに馴染んでもらおうと思ったの」

「あたしは別に、その……」

「いいのよ。楽しいのが一番なんだから」



  ♪  ♪  ♪



 もう、「例によって」という言葉を付けたくなる。また、職員室に呼び出された。今度は何だろう?今日は窓が開いているせいか、息苦しさは感じない。


 今日はバンド練習の日だから、要件は早く終わらせたい。


「という訳で朱巳あけみさん」

「あの、いつも思うんですが、どうしてコミュ障のあたしを呼ぶんですか?」

「前にも言った通りよ。クラスはあなたを中心に回っているから」

「そんなこと、絶対にないです」


 南島なしま先生とノース先生は、ニコニコしながらあたしを見ている。


「あなたのおかげで、クラスの一体感が高まってきたわ。授業の合間とかにちょくちょくのぞいているけど、いい感じになっている」

「いいえ、どういたしまして」


 あたしは事務的に答えた。また何かやらされるのかな。思わず手を強く握ってしまう。


「ただね、まだ……言いにくいんだけど、朱巳あけみさん、ちょっと浮いている感じがするの」

「コミュ障なので、浮くのはしょうがないです」


 南島なしま先生は、そんなことないない、という感じで手を振った。


「ノース先生、どうぞ、説明して」

「先週の歌で、クラスの一体感は確かに上がっています。しかし、まだ定着していません」

「どういうことかしら?」

「脳科学的観点では、反復による経験の定着が重要です。情報は最初に側頭葉に記憶されるのですが、まだこの段階では、大脳辺縁系に漠然と並んでいる状態です。忘れることはなくても、情報として選択されません。これを大脳新皮質から優先的に選択――」


「わかったわ、難しいけど、わかったわ」


 全然、わかりません。


「とにかく、さらに楽しい経験をしたらいいということね?」

「はい、そうです」


 最初から、そう言ってよ。


「それから、今度は、逆に少人数単位にすることで認知精度が上がり、朱巳あけみさんも、もっとクラスに溶け込むことができると思います」

「そこで、朱巳あけみさん、何かアイデアはないかしら」


 来た~、来たよ。


「ありません」


 あたしは即答した。


「そこを何とか」


 うーん、そうだな。うーん、うーん。そういうことは先生が考えることでしょ……。


 まあ、でも、一応、考えてみるか。こういう時は、ノートに思い付いたキーワードをたくさん書き並べて、連想ゲームをするのが一番。


 あたしは、バッグを開け、ノートを取り出した。

 青いハードカバーの本が目に入った。あ、本、図書室に返すの忘れていた。


朱巳あけみさん、それ、『つくつく』ね」

「あ、はい。図書室に返すのを忘れていました」

「ちょっと見せてくれる?後で私が図書室に返却しておくから」


 南島なしま先生は、本を開き、数ページめくった。目次のページだ。そういえば、この本の目次、全部、カタカナで書いてある。


「これだわ。ひらめいた。さすが朱巳あけみさん」

「あの、何のことですか?」

「いいのいいの。あとはノース君と考えるから」

「わかりました。じゃあ、本の返却、よろしくお願いします」

「ええ、お疲れさま」


 よかった。バンド練習の時間に間に合いそう。


「それでは、失礼します」


 あたしは簡単な挨拶をすると、急いで職員室を出た。


 バンド練習を終えて、いつものように、大通り図書館に向かった。今日も清水きよみずさん、いるかな。今日もエスカレーターを使う。しょうがないよ、膝がちょっと痛むから。


 自動ドアの向こうに清水きよみずさんの後ろ姿が見える。いつも同じワークキャップをかぶっている。間違いない。相変わらず、右手は三角巾でぶら下げている。


清水きよみずさん、こんばんは」

「あ、いらっしゃいませ」

「今日は、何にしようかな。えっと、ミルクヴィエンナ、ホットで」

「はい、かしこまりました。じゃあ、お会計の方、お願いします」


 数分後、カップを受け取ると広い階段を上って三階に行き、読みかけのラノベを探した。残念ながら、読みかけのラノベはなかった。まあいいや、時間さえ潰せればいい。


 あたしはスマホの時計を見ながら、清水きよみずさんのバイトが終わるのを待った。


 あれ? ちょっと寝ちゃったみたい。スマホを見ると……あ! 時間、八時二十分を過ぎてる。清水きよみずさん、帰っちゃったかな。急いで階段を降り、マチカフェを見ると、もう、誰もいなかった。


「ああ、清水きよみずさん、もう帰っちゃったのか」


 なんか、肩の力が抜けたというか、自然と背中が丸くなる。


朱巳あけみさん」


 トボトボと自動ドアの方へ歩いていると、後ろから声が聞こえた。


「あれ? 清水きよみずさん、どこにいたんですか?」

「着替え。あの柱みたいなところが倉庫になっていて、そこで」


 あたしは清水きよみずさんが指さす方向を見た。こちらからドアは見えないけど……今度、見てみよう。


 二人で広いテラスに出ると、下にはいつものように幻想的な色で照らされた大通り公園が見える。エスカレーターには清水きよみずさんが先に乗ってくれた。先に乗ってくれるとちょっと顔の距離が近くなって話しやすい。


「F、ちゃんと押さえることができました」

「よかったね。曲は何を演奏したの?」


 あ、そうだ、曲名、話していなかった。


「カントリードーロです」

「ああ、カントリードーロ、あれ、古いけど、いい曲だよね」

「はい。あたしもなんとなく好きです」

「カスケード渓谷って、すごいきれいらしいね。行ったことないけど」


「それ、どこですか?」

「アメリカのオレゴン州。カントリードーロは、カスケード渓谷に流れるコロムビア川ってのがあって、その傍にある村に帰りたいっていう歌なんだ」

「へー、それは知りませんでした」


「割とシンプルな英語だから、一度、自分で訳してみるといいよ」

清水きよみずさん、詳しいんですね」

「うん、まあ」


 あれ? 今、清水きよみずさん、ちょっと遠い目をしたような。視線が少し上向きになった気がする。


「それで、ギターとカホンで伴奏して、クラスのみんなで合唱したんです」

「へー、それはすごいね。ニコニコしているってことは、うまくいったってこと?」

「はい、ばっちりでした。清水きよみずさんのおかげです」

「そんなこと、ないない」


清水きよみずさん、英語、しゃべれるんですか?」

「しゃべれるってほどじゃないけど、簡単な日常会話ぐらいなら」

「すごいですね」


 清水きよみずさん、どうしたんだろう? 何か迷っている気がする。こっちを見ない。いや、歩道を歩いていたら、普通、前を見るよね。うん。


「実はさ、というほどでもないんだけど、俺、ハーフなんだ」

「ハーフですか?」


 清水きよみずさんの顔、めちゃくちゃ日本人なんですけど。


「母が台湾出身で、中学に入学するまでは台北タイペイに住んでいたんだよ」

「そうだったんですか」

「母はアメリカ人が集まるバーで働いていて。あ、怪しい店じゃなくて、陽気な感じでさ」

「へえ」

「俺もよく遊びに行っててね。それで、特別、英語を習ったわけじゃないんだけど、なんとなくは」

「そうだったんですね」


 なんか、すごい秘密を聞いてしまった気がする。


「あ!」


 そうか、それで金髪を見慣れているんだ。そうかそうか、なるほど。


「びっくりした。どうしたの?」


「ごめんなさい……あの、台湾語も話せるんですか?」

「まあ、多少は」

「何か話してみてもらえませんか?」

「うーん、じゃあ、ニイカンチイライハオピョウリャン」

「すごい、すごいそれっぽい発音です。でも、意味は?」

「秘密」


 清水きよみずさん、なんだか、いたずらっぽく笑った。


「金髪、うらやましいよ。その髪、とても綺麗だね」


 え、やだ、綺麗だなんて。でも、髪のことだよね。うん、でも、髪様、ううん、神様、ありがとう。


「俺なんか、ハーフって言っても、誰も信じてくれないんだ」

「確かに、顔、すごく日本人です」

「うん、母も日本人っぽい顔つきで」


「へー、台湾の人って、どんな顔をしているんですか?」

「三種類かな。ネイティブと、中国から移民した人たちが二種類って感じ」


「ネイティブ?」


「うん、ミンツー、あ、民族って呼んでいるけど、割と堀の深い顔の人。それからモンゴル系って言ったらいいのかな、ちょっと日本人っぽい感じ、そして、中国人って感じの人」

「全然、知りませんでした」

「そうだよね。教科書にも載ってないし」


 なんか、ちょっと得した気分。何より、清水きよみずさんの新しい情報、ゲット! あたしは心の中でガッツポーズをしながら飛び跳ねた。




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カクヨム

数ある小説の中から読んで頂き、ありがとうございます。


登場する「つくつく」の元ネタ本、実は、目次に仕掛けが入っています。どの本とは、あえて書きませんが、良い本なので、良かったら探してみてください。


「ニイカンチイライハオピョウリャン」の意味は……秘密ですが、目の前の人をほめる言葉です。



おもしろいなって思っていただけたら、★で応援してくださると、転がって喜びます。

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それではまた!

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