嫌だ嫌がっていない自分
あたしはギターを持ったまま立ち上がると、スマホも持ってリビングに戻った。
「ねえ、パパ、この楽譜、F#マイナーが押さえられない。どうしたらいいのかな」
「ん?カントリードーロか、いいね。簡単になるよ。ちょっと待って」
パパは、何やらギターケースから大きな洗濯バサミのようなものを取り出した。
「これは、カポと言ってね、こうやってフレットを押さえるんだ」
ギターネックの2フレット目に、カポとやらがすべての弦を押さえた。エレキギターばかり弾いているあたしにとっては、謎の道具。
「それで、移調する。楽譜は?」
「これ」
あたしは、スマホをパパに渡した。パパは、紙に小節とコードだけの簡単な楽譜を書き始めた。
「
「うん、簡単なやつなら大丈夫」
「こうすると、この曲はGから始まって、人差し指で全部の弦を押さえるのは、この一か所だけになるよ」
「ほんとだ、パパ、すごい」
「いやぁ、それほどでも」
「でも、F、押さえられるかな」
「人差し指で押さえるのは三フレット目だから、F#マイナーより簡単だよ」
「なるほどです」
あたしは、天からありがたい言葉を頂いたような気持ちでパパを見つめた。気のせいか、パパが光に包まれているように見える。
「ぎゃーっ、パパ、何とかして、火が、火が!」
「お、おい、大丈夫か? 水は入れちゃダメだぞ」
後光の正体は、キッチンで燃えさかる炎だった。
パパは、ガスコンロの火を止めると、落ち着いた様子で炎の上がっている鍋にフタをした。
「ほら、もう、大丈夫だから」
「びっくりしたわ。パパ、うちもIHに変えましょうよ」
「いや、やっぱりガスがいいな」
「IH」
「ガス」
「IH」
「ガス」
IH、愛、エッチ。うーん、あたし、最近、考え過ぎかな。あれ? 一瞬、
部屋に戻り、パパに書いてもらった楽譜を見ながら弾いてみた。
――ジャラーン、ジャッ、ジャッ
お、良い感じ。Gで始めると、こんなに簡単になるんだ。カポ、最高。思わず顔の筋肉が緩む。行けそう行けそう。そして、問題のF。
――ポコポコポコ
う、三フレット目なのに押さえられない。確かに、F#マイナーの二フレット目より弦は柔らかいけど、押さえられないものは押さえられない。
いいや、お風呂に入ろう。あたしは下着一式を持つと一階に降り、お風呂に向かった。
お風呂は気持ちいい。とてもリラックスできるし、あたしの身長だと足をしっかり伸ばすことができる。
「はぁぁ、一週間で押さえられるようになるのかな」
あ、ため息と一緒に独り言が出てしまった。自分の言葉が耳に入り、よけい、できない気分になってくる。
ダメかも。一週間で急に指の力が強くなるわけないし、どうしたらいいだんろう?
こういう時はお湯に潜ろう。あたしなりの逃避行動。
♪ ♪ ♪
翌日、いつものようにバンド練習を終えたあと、マチカフェに行った。
「いらっしゃいませ。何にされますか?」
あれ? 手を三角巾でぶら下げている。
「あの、
「え?」
「あの、何か変なこと、訊いちゃいましたか?」
「いえ、ネームプレートを付けていないのに、どうして僕の名前を知っているのかと思いまして」
しまった、そういえばそうだった。マチカフェの店員さん、白いエプロンをしているだけで、ネームプレートは付けていない。
「あの、不審な者ではありません……」
「大丈夫です。ご注文は?」
「ミルクヴィエンナ、ホットで」
「かしこまりました。少々お待ちください」
「はい」
あたしは支払いを済ませて番号札を受け取ると、
どうしよう、一応、訊いてみようかな。
「あの、
「ええ、弾いたことはあります。お店が終わってからでいいですか?」
「はい」
他のスタッフに聞こえない、小さな声での会話はここで終わった。
数分後、ミルクヴィエンナを受け取ると、大通り図書館の三階に上がった。
うかつだった……絶対に不審者扱い事案だ。
カップを人差し指で軽く突いてみた。数ミリ、カップはテーブルの上であたしから離れていった。
バンド練習をしている時、カントリードーロの話をしたら、
不審者……一生懸命、違うことを考えてみたけど、やっぱり
スマホを持ち上げて時刻を確認すると、もう八時を回っていた。ああ、なんか、一時間以上、考えていたのか。
あたしは、ほてった頭を冷やすつもりで二階に降り、
広いテラスは、少し風が吹いていて気持ちいい。ただ、今日はちょっと暑い。
あたしはギターケースとバッグを下ろし、上着を脱いだ。今日は暑くなるという予報だったので、シャツも夏用の半そでシャツ。
もう真っ暗になった空、下にある大通り公園は、ちょっとカラフルなスポットライト風の明かりに照らされている。
時折、光の模様みたいなものも地面に映し出されている。
「ここ、綺麗だよね」
手すりにもたれかかっていた身体が、いきなり直立した。心臓が口から飛び出す思いって、このことだと確信した。声の主は
「はい、あの、名前の事なんですけど」
「うん」
「前に、他の方がそう呼んでいたので」
「覚えていてくれたんだ、ありがとう」
「いえ、そんな。あの、あたしは、
「ロウズって本名?」
「はい。ママ、あ、いえ、母がフランス人で、フランスに帰化する可能性も考えてつけてくれました」
「そっか、俺は
えっと、何を話したらいいんだっけ?
「
「駅から電車。玲鉄だよ」
「あたしも駅から電車、あの、総鉄なので、歩きながら話しませんか?」
「いいよ。ここ、ちょっと目立つしね」
あたしはギターケースを背負い、バッグを持つと、上着を手に持ち
あたしが先にエスカレーターへ乗ったのは失敗だった。振り返ると、
何から話そう……。
「ところで右手、どうされたんですか?」
「ちょっと骨にヒビが入っちゃって」
「大変ですね」
「痛みもないし、指も動くから、けっこう大丈夫」
「フォークギターなら、中学と高校の時、弾いていたよ」
「そうなんですか。Fって、制覇しました?」
「セーハのことだね。なんで、あれ、『セーハ』って言うんだろうね」
人差し指で六本の弦すべてを押さえることを、「セーハ」と言う。
フォークギターを挫折する人のほとんどが、これができないという理由だったりする。「制覇」と言ったのは失敗だった。ああ。
「あの、そんなに面白かったですか?」
「
歩道を数分歩き、横断歩道も渡ったけど、まだ
大きな駅の二階に上がり、ようやく落ち着いたのかな、
「でも
「実は、今、フォークギターの方も練習していて、Fが押さえられないんです。で、本番まで、もう日にちが残っていなくて、どうしようかと思って」
急に左手の人差し指が強くなるなんてことはない。
でも、
視線を左下に落としているのがわかる。何かを思い出そうとしているのかな。
「なんとかなるかも」
「そうなんですか?」
「実は、俺もF、ちゃんと押さえられなかったんだ」
「じゃあ、挫折しちゃったんですか?」
「いや、裏技を使った」
「ええ? 教えてください、ぜひ、教えてください」
「セーハを制覇するにはね、ぷっ、くっ、くっ」
またツボにはまったみたい。
「
「ごめんごめん、ぷっ」
「これじゃ、お手本を見せられないな。
「え、あの、いいですけど、どういうことですか?」
「
「はい、これでいいですか?」
「うん、そのままで」
そっか、ギターケースがあるから、余計に回り込む感じで……やだ、あたし、全然、嫌がってない。
「こうやって、一弦と二弦を人差し指、三弦から五弦までは普通に」
なんだか、身体の中で、きゅって……これ、どこだろう、お腹の下のあたり?なんだか、吸い込まれるような感じがする。
落ち着かないと。そうだ、質問、質問がある。
「あ、あの、六弦はどうするんですか?」
「親指でミュートする」
なるほど、目からうろこだ。そう思ったら、急に気持ちが落ち着いた。
「ありがとうございます。わかりました」
「家に帰ったら、試してみて」
そう言うと、
「じゃあ、俺、行くから」
「はい、また」
「うん、気を付けてね」
♪ ♪ ♪
英語の授業は、ノース先生の提案通り、特別に視聴覚室を借りた。ここには大きなテレビもあるし、ちょっと防音になっているから。
なぜか教壇の中央に小さなテーブルが置いてある。視聴覚室では珍しいかも。
「アメージング・ヘーヴン、ポートランド・オレゴン、カスケードマウンテン、コロムビアリバー♪」
うわ、流ちょうな英語、
コードを書いた譜面越しにチラチラと他の生徒たちを見ると、みんな笑顔で聴き惚れている。さっきまでの
歌い終わると、拍手喝さい、もう、これでクラスがまとまったんじゃない?というレベル。
「じゃあ、ノース君、じゃなかった、ノース先生、ここからはよろしくね」
「はい、わかりました」
クラスの誰かが笑った。やっぱりイントネーションが違うから、おもしろい。
「まずは座席一列ずつ、歌ってもらいます。歌の上手さではなく、声の大きさを競います。声の大きさは、このアプリで測定します」
ノース先生は、パソコンを大きなテレビに接続した。
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カクヨム
数ある小説の中から読んで頂き、ありがとうございます。
「カポ」とは、正確には「カポタスト」というもので、ギターのネックに挟んで移調し、運指を簡単にするための道具です。
「カントリードーロ(カントリーロード)」、ちゃんと原曲の雰囲気を残しつつ、違う言葉に置き換えてみましたので、よかったら、訳してみてください。
おもしろいなって思っていただけたら、★で応援してくださると、転がって喜びます。
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それではまた!
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