第2話
清潔なエタノールと、少し甘いシャンプーの香りで目を覚ました。
先ほどまで見ていた夢を思い出そうする。しかし、それは既に霧散してしまったようで、その尻尾を掴むことは出来なかった。
天井は白く、明かりの付いていない蛍光灯にトラバーチン模様が群がっている。ピッシリと張られたシーツに指を這わせると、そこに波紋が浮かぶ。
(病院だろうか?)
窓からの清涼な風が清潔な香りから甘い香りを運ぶ。
そこには少女がいた。甘い香りは彼女からかすめ取ってきたものなのだろう。
少女は来客用の丸椅子に座ったまま、髪を結わえている最中だった。
カミソリのようなスカートのひだは礼儀正しく、少女のふとももの上で心地よさそうにしている。すこしくたびれたセーラーも、首元の赤いスカーフと共に落ち着きを帯びていた。
ヘアゴムを咥えたまま、目を閉じ、両手で結び目をポニーテールの正しい位置を模索している。汗ばみ、綺麗に揃えられた前髪の何本かが、額に張り付いていた。位置に納得したのか、左手を離し、咥えていたゴムで髪を結び始める。
何度か首の角度を変え、輪の中に髪を通す。それを何度か繰り返し、完璧なポニーテールを作り上げる。それから、ゆっくりと目を開く。
アーモンド型の大きな目だ。
「......ヘンタイ」
と少女は言う。
「起きてたのなら、教えてくれてもいいじゃないですか」
少女――夏木が非難げに言う。
「ぼうっとしてたんだ」
「......そうですか」
彼女の声や顔から、美咲を連想する。
「そう言えば、美咲は?」
「お姉ちゃんなら別の病室にいます」
「無事......だったんだな」
夏木ちゃんはテキパキと身支度を始める。
「その話は後です。早く着替えてください」と彼女は言う。「私は手続きをしてきますから」そういって、夏木ちゃんは病室を後にする。
静かな病室とは裏腹に胸騒ぎが止まない。
確か、瓦礫の山で俺は死んだ。そして生き返った?では美咲は?
生きていた。息はしていた。脈もあった。目覚める気配も確かにあった。
そもそも、あれは何だったんだ?なぜ俺達が襲われて......。エンコ?なんだそれは?分からない。瓦礫も刀も爆発も意味が分からない。
「早く服着てください」
退院の手続きを終わらせて、夏木ちゃんが扉を開いた。
「ぼうってしてたんだ」
「着替てから耽ければいいじゃないですか」
〇
305号室。
簡素なベッドと、銀色のテーブル。そこに置かれている花瓶と花。
美咲は枕を背もたれにして、窓の外の景色を眺めていた。
部屋は春太と同じ方角のようで、よく風が入る。景色も道路と田んぼの合いの子だ。風が彼女のボブヘアーを揺らす。
「よかった。無事だった......」
春太は安堵と共に、美咲に近づく。
「見ての通り、外傷はありません」
と、夏木が春太を制止する。
「ただし、感情がすっぽりと抜けてしまったように、表情も反応もないのです」
彼女の目線は姉でも、春太でもなく窓の縁に向けられている。夏木はそのまま淡々と説明を続ける。
「食事はちゃんと取りますし、トイレだって自分で行けます。知能も確認されているのですが......感情だけがどうしても確認出来ないのです」
夏木の言う通り、美咲には感情が確認できない。春太の来訪に一切の反応を示さない。おそらく、夏木の時もそうだったのだろう。それはまるで、ある一場面を切り向いた絵画のようだった。ただ、風が吹き、髪を揺らし、それを否定する。
「どうして......」
「わかりません」
夏木は自信の無力さを噛みしめるように言う。
水変えてきますね、と言って夏木は病室を後にする。
部屋には春太と美咲の二人だけが残される。
「無事......ではないみたいだけど、生きてて良かったよ」
春太は来客用の丸椅子に腰掛け、空っぽの美咲に話かける。
太陽が雲にかかったのか、部屋の隅の影が領域を広げる。
窓に美咲の顔が映っていた。情緒を失った顔は、恐ろしい程整っており、それは人のいなくなった街を連想させる。
「絶対に何とかするよ」
〇
セーラー服の少女がハンドルを握っている。
免許を取ってままないのか、肩が上がっている。そもそも、16歳は免許を習得できるものなのだろうか?なんだか、セーラー服とハンドルは非道法な香りがする。
前方からやってきた景色は足早に後方に流れていく。といっても周りは田んぼと時々家屋があるばかりの代り映えのない景色だ。家屋には足場がかけられている。
「先輩は感情が物質に与える影響を知っていますか?」
夏木は前方に視線を向けたまま尋ねる。素っ気ないというよりは、安全に考慮した結果だろう。
「無機物に命が吹き込まれるってやつだろ」と言う。「都市伝説だよ」
いや、あの瓦礫の中で僕を守ったのは瓦礫だ。そして、奴を切ったのは鉄骨だ。あの日の事を夏木は知っているのだろうか?
「とぼけなくていいですよ」
「もしかしてニュースで流れてた?」
「まさか」と彼女は笑う。「あんなの誰も信じませんよ」
「未解決ファイルとかその類いだよな」
「確かに都市伝説ですね」
「それで」
「先輩みたいな人、結構いるんですよ」
「超能力者?」
「私達はトリガーと呼んでます」
「私達?」
質問が上手いですね、と夏木は言う。
「私達――感情処理委員会は失われた大地、大和瓦外を無機感情受容生物、通称エンコから奪還すべく活動してます」
企業のキャッチコピーを読み上げるように言う。おそらく彼女も誰かから同じ事を言われ、あるいは目にして、それをそのまま言っているのだろう。
感情処理委員会、トリガー、エンコ、大和瓦外。
「それでエンコってのと戦うのがトリガー......ってことは君も?」
「ええ一員です」
「これからよろしくお願いします......先輩」
夏木はこちらを向き、いたずらっ子のような顔で言う。
「年功序列でいこうぜ後輩」
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