第27話

 ◇


 目を開くと、視界の中で二重が縁取るアーモンドのような瞳が瞬きをした。ミハルは安堵し、息を漏らす。そしてその頬に手を伸ばして名前を呼んだ。

「サラ」

 しかし、目の前の人物は驚いたように肩を跳ね上げると、ミハルの伸ばした手から逃れるように後ろに下がる。ミハルの視界には見慣れない天井だけが映った。

 おぼつかない記憶を辿りながらゆっくりと体を起こす。ミハルはベッドに寝かされていたようだ。少し簡易的な作りで、敷かれたマットは薄い。しかし、体が痛むのはそのせいではないようだ。

 ミハルは上半身の衣服を纏っておらず、代わりに腹部のあたりを抑えるように包帯が施されていた。どうやら気がつかないうちに怪我を負っていたようだ。大きな狼の獣人の戦士に助けられ、ミハルはその途中で意識を失ったらしい。

 周囲を見渡す。円形の作りの天幕にミハルが寝ていた簡易ベッドと、何か素材を無理やり繋ぎ合わせて作ったようなソファ、そして質素なテーブルが置かれている。

 天幕の骨組みの頂点から、内部をうっすらと照らすランプが垂れ下がっている。比較的立派な作りで、布地に外部の影は映らないようだ。外の光がテントの入り口に垂れ下がった幕の隙間から漏れている。

 状況を理解し始めたミハルは自分の脇にいる人物に目を向けた。

 少年だった。たぶん人間で、サラより少し幼いだろう。しかし兎の獣人で女の子のサラと、目の前の少年は背格好が似ている。ミハルは少年の姿を見て、最後に「お兄ちゃん」と自分を呼んだサラの姿が脳裏に浮かび、息苦しくなった。

 少年は怯えるほどではないが、少し警戒した様子でミハルを見上げた。

 なんと声をかけようかミハルが迷っていたところでタイミング悪く、ミハルの腹の虫が鳴る。

 咄嗟に腹を抑えたが、少年には聞こえたようだ。その音を聞いて少年は何か使命を授かったかのようにハッと眉を上げ、ピンと背筋を伸ばした後で突然くるりと向きを変えて天幕の出入口へと走る。そしてバサリと幕を捲ると外に飛び出して行ってしまった。

 ミハルは「あ、ちょっと……」と手を伸ばし呼び止めようとするが、その声は少年には届いていないようだった。

 ミハルは行き場を失った手を下ろす。天幕の外からは複数の話し声や足音が聞こえていた。緊張感はほとんどない。あの少年が躊躇いなく出て行ったことから察するに、ここはある程度安全の確保された西の魔女の陣営の中なのだろう。

 ミハルは立ち上がった。

 靴はベッドの脇に揃えられていた。それに足を突っ込み、出入口に歩み寄る。外の様子を窺おうと思ったのだ。しかし、ミハルが幕に手を伸ばしたとき、外から重たい何かが地面を踏み締める音が鳴った。

 ミハルは手を引き一歩後ずさった。音が目の前に近づき幕の隙間から漏れていた光が消えた。かと思ったら、幕がバサリと持ち上がり、ミハルの目の前に大きな影が立ちはだかったのだ。

「ひぇっ!」

 悲鳴をあげ、本能的に逃げようとした足がもつれ、ミハルはその場に尻もちをついた。

 そこに現れたのはミハルを助けた狼の獣人だった。戦士ライニールと呼ばれていた男だ。

「チッ」

 ライニールは舌打ちをこぼし、ミハルの体を跨ぐように天幕の中に入ってくる。

 結構広いと思っていた天幕が、ライニールが入った途端急にこぢんまりとして感じた。

 ライニールは背負っていたアックスを武具立てに置いた。重みのある金属の音が鳴る。

 まだライニールの足音は重い。そのまま天幕の中を移動して、今度はシミだらけのマントを壁にかける。そして鉄製の防具を外していくと、ようやくライニールの足音は少しだけ軽くなった。

 しかし、まだ「でかい」と思いながら、ミハルは尻もちをついたままの体制でライニールの動きを目で追っていた。

「あの」

「あ?」

「俺、どのくらい寝てました?」

「いつ起きたかしらねぇ」

「今、起きました」

「丸一日だな」

「丸一日……」

 ミハルは呟きながら立ち上がり、もう一度部屋の中を見渡した。

 ベッドの脇に積み重ねられた木箱の上に、自分の着ていた衣服を見つけ、それを手に取り袖を通す。腹部が血で汚れていたが、誰かが洗い流そうとした形跡があった。あの少年だろうか。

 ミハルはそのままテントの出入口に向かう。

「助けていただいて、ありがとうございました」

 ライニールに一礼をすると、ミハルは出入口の幕に手をかける。

「おい」と呼び止める低い声で、ミハルはもう一度ライニールを振り返った。

「どこに行く」

「妹を、探しに」

「チッ」

 ライニールはまた舌打ちをして、腰に着けていた装備から布袋を外してテーブルに置いた。カシャリと物がぶつかる音が鳴って、袋の中に複数のものが収められているというのがわかる。

「戦線は後退した。お前のいた街は東の軍勢に占拠されている」

 ライニールの声音はミハルに対する一切の同情を含まず、ただ事実だけを乱暴に伝えた。

「お前が寝てる間も何度か激しい戦闘があった。街はお前が見たのよりもっと粉々だ。妹は、もういなかった」

 ライニールは淡々とそう言った。

 ミハルは顔を上げる。ライニールの背後の壁にかかったマントはシミだらけだ。濃紺だと思ったが、どうやら血で染まってそのように見えているようだ。

「いなかった……っていうのは……」

「東西軍関係なく、何度も魔砲撃を受けた。隊服でも着てない限り、身元の分かる遺体の方が少ねぇ」

 ライニールの言葉に、ミハルは喉奥が震えた。手は熱を失っていく。視界の端が白んで、ミハルは倒れないようにゆっくりとした足取りでベッドに向かい腰を下ろした。

「そんな……こんなことって……」

 ミハルは両手で顔を覆い、項垂れた。

「よくある事だ」

 そのライニールの言葉がミハルの心を抉る。

「ライニール……さん」

「あ?」

「あなた、ご家族は?」

「……いねぇ」

 ミハルは口元だけで息を漏らすように笑った。目元は手で覆ったまま、真っ暗な視界で言葉を紡ぐ。

「でしょうね」

「あ?」

「じゃなかったら、あの時あんな簡単になんて言えない」

 ミハルは奥歯を噛んだ。「八つ当たりだ」とすぐに思った。

 サラが死んだ。ミハルはサラを守れなかった。助けてあげられなかった。傍にいると言っておきながら、自分だけこうして逃げ延びてしまった。

 天幕の出入口の幕が開く音が鳴り、ミハルは顔を上げた。

 先ほどの少年だ。茶色い髪と茶色の瞳で肌色が白い。ミハルはその姿を見て思い出した。この子は、あの時ミハルと一緒にライニールに抱えられていた子供だ。

 少年はその手に湯気の立つ器と水の入ったグラスを持っている。そしてこぼさぬようにとゆっくりとした足取りでミハルに歩み寄るとその器を手渡した。

 器の中はリゾットのようだ。ミルクのコクのある香りがミハルの鼻先をくすぐった。

「ありがとう」

 ミハルが言うと少年は頷き、もう一方の手に持っていた水の入ったグラスをベッドの脇の木箱の上に置いた。

「ここは、あなたの天幕なんですか」

 スプーンで器の中身を突きながら、ミハルはライニールに尋ねた。

「チッ」

 舌打ちが返ってきたが、おそらく肯定なのだろうとミハルは察した。

「診療所はお前より重症の兵士らで空きがねぇんだ」

 だからミハルをここに寝かせていたと言う事らしい。

「あと、託児所なんてもんもねぇ」

 そう言って、ライニールは少年を顎で指し示した。

 ミハルは頷きながら、スプーンを口に運ぶ。香りのわりに味がしないのは、ミハルの体に何か異常があるのか、それとも塩が不足しているのか。おそらく後者だろう。それでも空腹にはありがたかった。家を失い、故郷を焼かれて、妹が死んでも、腹は減る。

 もう一口、口に含んで飲み込んだ。その後でミハルは顔を上げて少年に尋ねる。

「君の分は? もう食べたの?」

 少年は話しかけられると思っていなかったのか、驚いたように瞬きをした。汚れているが、質の良さそうな衣服を着ている。たぶん街の中でも良家の子息だったのだろう。

「そいつはダメだ」

 ライニールが横から口を挟む。

「ダメ?」

「喋らねぇ」

「え、そうなの?」

「チッ」

「君、名前は? なんて言うの?」

「……ヒリス」

「あ?」

「喋ったね?」

 ミハルはライニールを向いた。

 何か不貞腐れたような表情で、ライニールはまた舌打ちをする。

「おい、ヒリス」

 ライニールが徐に立ち上がった。

 天井に頭がつきそうだ。ライニールはテーブルに置いた袋の中を漁り何かを握った。

 大きな体で子供のヒリスに歩み寄る姿を見て、ミハルはまさか殴るのかと一瞬ヒヤリとする。しかしそれは杞憂だったようだ。

 ライニールはヒリスの頭に手を伸ばし、持っていたペンダントをその首にかけてやった。トップに大きな翡翠があしらわれている。フレームは銀色だが、少し汚れていた。ライニールは膝を折ってヒリスの前に屈むと、尻のポケットから取り出したハンカチでその汚れた部分を不器用に拭った。

「これしか、持って帰れなかった」

 ライニールが言った。それはヒリスの親の遺品のようだ。遺体はヒリスに見せられる状態ではないのだろう。

 ヒリスはただ黙ってその翡翠の部分を手元に握りじっと見つめている。泣いたり取り乱したりもなく、我慢している様子もない。

「ライニールさん、それは?」

 ミハルはライニールが持ち帰った袋を指差した。ヒリスに渡したペンダントを取り出した時に、袋の口が開いて中身がのぞいていた。そこにはオレンジ色のガラス玉が入っている。

「追蹤玉だ」

「追蹤玉? これが、追蹤玉ですか」

 追蹤玉が人の記憶を魔法で抜き取った物だと言うことはミハルも知っていた。しかし、実物を見たのは初めてだった。

「オレンジ色って、たしか持ち主にとって良い記憶ですよね? なんでそれがこんなにたくさん?」

 ミハルの問いに、ライニールは再びソファに座り直しながら答えた。

「これは、戦線にいた兵士のものだ」

「兵士の? 何故それが、ここに?」

「西の魔女は自軍の兵が戦いに出る前に、一つ魔法をかける」

 言いながら、ライニールは袋に手を伸ばし、その大きい割に繊細な形の指で追蹤玉を撫でた。

「死に際に、一番大切にしている記憶を吐きだすんだ」

「え?」

 ミハルは眉を上げた。しかしその仕草には構わず、ライニールは続ける。

「それでその遺体がどこの誰の物なのか識別する。そしてこれは、その兵士の家族に届ける遺品だ」

 ミハルの隣でヒリスがペンダントを握りしめた。

「それじゃあ、亡くなった人は大切な思い出を失ってしまうじゃないですか」

 ライニールがミハルの言葉に顔を上げた。

「そうだな」

 暫しの沈黙があり、ミハルはライニールの次の言葉を待った。

「前に同じ部隊のやつが言っていた。"人は死んだら無になる。だから、大切な記憶は家族に持っていて欲しい"」

 ライニールは大股を開いて座る膝の上に、肘を置いて体の前で手の指を絡めた。背中を丸め、視線は床の上に置いている。

「これは死んじまった証拠じゃなくて生きたあかし、なんだとよ」

 ミハルはライニールに向けた瞳を、その背後のマントに滑らせた。血で汚れたマント、ヒリスに渡した翡翠のペンダント、兵士たちの追蹤玉。ライニールはミハルに「妹は、もういなかった」と言った。彼は敵陣の中、探しに行ってくれたのだ。

「ヒリス」

 ミハルは妹に向けるような優しい声音でヒリスに呼びかけた。物静かなヒリスはやはり黙ったまま顔を上げた。ミハルは手を伸ばし、ヒリスの体を引き寄せ、その肩に腕を回した。

「あの人、顔は怖いけどいい人みたいだね」

 ミハルが言うと、ヒリスはもう一度ペンダントに目を落とし、そして顔を上げてライニールを見た。

「ありがとう、おじさん」

 ヒリスが言った。

「チッ、クソが」

 ライニールが丸めていた背中を持ち上げ、背もたれに体重をかけるように座り直す。

「俺は、おじさんじゃねぇ。まだ成人してねぇ」

 膝にくるぶしを乗せるように組んだライニールの足が苛立ちで揺れていた。

「嘘だろ⁈」

 ミハルは思わず声を上げる。

「あ?」

「年下じゃないか!!」

「……チッ、クソが」

 ミハルとライニールの様子をヒリスが戸惑うように交互に見つめていた。


 ◇


 陣営の夜は完全な静寂にはならない。灯を消して眠りにつくが、天幕の外は交代で見張りにつく兵士の足音や気配、向こうの方で薪が弾ける音がしている。それは不快で落ち着かないと言うよりも、戦火の夜にほんの少しの安心をもたらしていた。

 しかし、ミハルは浅い眠りから目覚めた。天幕の中は暗く、ミハルはベッドに横になっている。

 左側から小さく震える息が聞こえた。天井を向いて眠っていたミハルは体を横に返す。ミハルと並んでひとつのベッドに眠っていたヒリスはこちらに背を向けている。

 その肩が小さく震えて、鼻を啜る音がした。ミハルが身じろぐと、ヒリスは隠すようにぐっと頭を胸元に近づけ丸くなる。ミハルはそのヒリスの背中を抱きしめるように腕を回して胸元に抱き寄せた。

 ヒリスはライニールが取り戻してくれたペンダントをずっと首に下げていた。眠っていたはずの今も、それを胸元で握りしめている。

 ミハルはヒリスの頭を顎の下に収め、その髪を静かに撫でた。その感触はあの時撫でたサラの髪を思い出させる。

 サラとは歳が少し離れていた。赤ん坊の頃からミルクをやったりあやしたり、ミハルは甲斐甲斐しくサラの世話をやいていた。そのせいか、サラは近所でも評判のお兄ちゃん子で、ミハルもそれが満更ではなかったのだ。可愛いサラ、笑うサラ、わがままを言うサラ、喜ぶサラ。いくらでも楽しい思い出はあるはずなのに、今ミハルの頭に浮かぶのは、あの戦場で恐怖に怯え、必死に自分に縋る姿だった。

 鼻の奥が痛み、ミハルは大きく息を吸った。途端に涙の粒が瞳から溢れ出し、寝転がっているせいで耳元まで伝った。

 震える息がヒリスにも伝わってしまったようだ。彼がミハルの腕を暖かい手で掴んだ。

 少しして、地響きのような低い音が鳴る。ミハルとヒリスは二人してびくりと体を震わせた。鼻を啜り、お互いに頭を起こす。

 ベッドの足元の方からその音は聞こえる。

 二人はテントの中で視線を滑らせた。

 そこにはつぎはぎのソファがある。そして、その上にはライニールが大きな体をギュッと窄めて寝そべっていた。

 ミハルとヒリスは顔を見合わせ瞬きをした後、もう一度ライニールに目を向ける。

 地響きはそちらから聞こえる。

 二人はベッドから起き上がり、ライニールに歩み寄った。この音は地響きではなくライニールの唸り声だ。

 硬く目を瞑った彼は、眉を歪め奥歯を噛み締め、何か悪い夢にうなされている。

 ソファの傍に膝をついてライニールを覗き込んでいたヒリスが、その手でそっとライニールの腕に触れた。ほんの少しだけ、ライニールの眉間の皺が薄らいだ。

 ミハルとヒリスはまた顔を見合わせ瞬きをした。その後で、ヒリスはそっとソファに這い上がり、ライニールの腹の上に寝そべると、その胸元に片耳と頬をくっつけた。

「うっ」とライニールが唸る。ミハルとヒリスはまた顔を見合わせた。

 今度はミハルが無理やりソファの隙間に体を乗せて、ライニールにしがみつくように寝そべった。そして頭をライニールの肩に乗せ、床に落ちていた毛布を引き寄せると三人の上に広げてかけた。

 ミハルがヒリスの顔を覗き込むと、ヒリスは腫れた目元を拭い、小さく口元に笑みを作った。その頭をミハルはそっと撫でてやる。

「重てぇ……」と、ライニールが譫言のようにつぶやいた。



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