追憶

第26話

 ◇










 霞んだ意識の中で同調していく。

 水中に浮かんだミハルの体が、まるで思い出したかのように呼吸を始めた。

 冷たい水に落ちたはずだった。しかし、今ミハルの背中は熱い。

「お兄ちゃん!」

 その声で、ミハルは胸に溜めた呼吸を吐き出し、痛むほどに瞼を見開き振り返った。

 衝突した魔力が霧散し、空は燻んだ紫色の雲で覆われている。

 昼間だったはずだ。なのに暗い。そう思った瞬間、上空を閃光が走りそれが見えなくなった。直後の鼓膜を突き上げるような爆発音に、ミハルは右手を引き寄せた。

「お兄ちゃん、怖いっ!」

 繋いでいた手は恐怖で冷たくなっていると言うのに酷く汗ばんでいる。いや、それはミハルの汗かもしれない。

 爆発で飛び散る飛散物から守るかのように、ミハルは自分の胸に妹の体を抱きしめ、倒れ込むように蹲った。

 背中が熱い。腕の中の体温は、震えて息を飲んでいる。妹は十三歳だ。小柄な兎の獣人だが、それはミハルとて同じことで、抱えて走るには少し大きい。ミハルは立ち上がり怯える妹の手を引いた。

 膝が痛み目を落とす。下履きに血が滲んでいた。妹を振り返る。頬を擦りむいてしまったようだ。可愛い顔が恐怖で歪み、口元に滲む血が痛々しい。

 ミハルは息を飲んだ。

「サラ、大丈夫だ。絶対に手を離さないで!」

 父親は魔力を持たない平民だった。それでも激化する戦いで不足した兵力を補うために、長らく膠着状態である東部戦線に駆り出された。塹壕戦となった戦況は、後に西の魔女の部隊が制したと知らせがあったが、父はしばらく経っても戻らなかった。

 母は父の遺体を探しに出て数ヶ月になる。たぶんもう戻らないとミハルは思っていた。ミハルには妹のサラしかいない。

 また閃光が走る。背後で爆発音と、建造物を砕く音。もう振り返る余裕がない。

 崩壊した建物に押し潰された人の姿が脇目に映る。あちこちで火の手が上がる街を、ミハルはサラの手を引き走り続けた。

 不意に右手が重くなる。振り返った。サラが額に汗を浮かべ、乾いた唇で荒い呼吸を吐いている。目を落とすとその足に木片が突き刺さっていた。かなり痛いはずだ。それさえも言葉にできなかった妹の姿に、ミハルは奥歯を噛み締めた。

「おいで、サラ!」

 ミハルはサラの体を引き寄せ、肩に腕を乗せた。そのまま背中におぶされと膝を屈める。

 サラが躊躇ったのは一瞬だった。躊躇っている猶予がないと思ったのだろう。ミハルの背におぶさると、必死にその肩にしがみついた。

 踏み出すと膝が痛み、当然ながら体が重い。しかし、渾身の力でミハルは足を踏み出した。

 また紫色の雲に閃光が走る。

 爆発音の後に強い風圧がミハルの背中を押した。

 大きな残骸が左の建物に衝突し、そこを走っていた誰かが呻き声を上げて見えなくなった。

 ミハルは咄嗟に道の脇の建物の影に飛び込んだ。バランスを崩して地面に転がった直後、激しい衝撃音の後で建物が崩れ落ちる音がする。咄嗟に恐怖で目を閉じた。

 瞼の向こうで閃光が瞬く。近い、と脳裏に浮かんだ後に風圧が押し寄せた。瞬間、空気の音がくぐもり静寂の中にだだキンと金属を引っ掻くような音だけが残る。「サラ!」と咄嗟に叫んだ自らの声さえも、遠くくぐもっていた。

 ミハルは目を開けた。

 砂埃が立ち込めるなか、自分の体が存在していることを確かめる。その後でサラの姿を探した。彼女はミハルの足元のあたりに同じように倒れ込んでいた。その口元が、「お兄ちゃん」と動くのを見て、ミハルは手をつき体を起こす。

「そんなっ、嘘だろ!」

 ミハルは這うようにしてサラの体に近づいた。

「お兄ちゃん……」

 と力なく腕を伸ばすサラの下半身が瓦礫に埋もれてしまっている。

 ミハルはサラの手を引くが、その体は動かず、ただ苦しそうな呻き声を上げるだけだ。立ち上がり、瓦礫に手をかける。重たいコンクリートの残骸はミハルの力では持ち上がらない。

「サラ、待ってろ」

 ミハルは辺りを見回した。少し太い棒状の木片がある。それを掴み、瓦礫の隙間に押し込んだ。反対側に体重をかけ、テコの原理で押し上げようとするが、どんなに力を込めても瓦礫が動く気配はなかった。

 また向こうで爆発音が鳴る。

「お兄ちゃん、怖い、怖いよぉ……」

「ばかだな。大袈裟だよ、すぐどかしてやるから」

 ミハルは笑い、サラの頭を撫で、その目元の涙を拭ってやった。そうしながら、視線はまた辺りを見回している。しかし、何もない。手立てが見つからない。

 ミハルはもう一度、差し込んだ木片に手を伸ばし、体重をかけた。瓦礫は動かない。閃光と爆発音は続いている。ミハルは何度も木片を押した。

「お兄ちゃん……」

「大丈夫だよ、サラ」

 サラの声が小さくなっていく。ミハルは自分の目元に浮かぶ涙を拭い、声音は必死に平静を装った。鼻を啜ればサラを不安にさせる。鼻水は服の袖に押し付けた。

 木片が赤く染まった。手のひらを見ると血が滲んでいる。ミハルは、震える息を吐き出しながら、ゆっくりとその手を離した。

「俺一人じゃダメだサラ。筋トレしとけば良かったな」

 戯けるように言いながら、サラの頭の横に腰を下ろす。髪を撫でながら、力なく伸ばされた手を握った。

「誰か来るの待とうか、たぶんそろそろ戦況も落ち着いてくるよ」

「ごめんね、お兄ちゃん」

「サラはドジだからな、けど、まあ、今回のは仕方ないよ」

「怖い……」

「大丈夫、俺がここにいるから」

 握ったサラの手は震えている。ミハルは傍にいると彼女に訴え続けるかのように手を握り、その髪や頬を優しく撫でた。

 しばらくして閃光は収まった。しかし、その代わりに近づいた音に気がついた瞬間。ミハルの心臓は跳ね上がり、息を飲んだ。

 足音だ。一つではなく複数の。隊列を組んでいるのかいくつかは規則的に、しかしいくつかは不規則に、瓦礫が散乱し不安定な道を歩き近づいてくる。

 ミハルはサラの手を握ったまま瓦礫の隙間からそっと目元を覗かせた。街の表通り(だった場所)に兵士の姿がある。腕章は敵である東の魔女の隊のものだ。

 ミハルは息を吸い込み、サラの隣にほとんど伏せるように身を顰めた。不安がらせないようにサラの頭に胸元を寄せて、また髪を撫でてやる。

「大丈夫だよ」

 囁くように声をかけたが、サラは声に出しては答えずに、ただミハルの手を僅かに握り返した。

 ミハルの手は恐怖で震えている。これがサラに伝わってないといいが、と思っていたその時だった。すぐ近くで瓦礫を踏み締めた気配があり、その後でカチャリと部品が擦れる音が鳴った。

 ミハルは呼吸を止めて顔を上げた。

 いつのまにか薄らいだ紫色の雲が陽の光を通し始めたらしい。逆光でこちらに銃口を向ける兵士の顔は見えなかった。ただ、その腕に東の魔女の赤い腕章が見える。

 命乞いをしなければと思うのに、ミハルの喉は締まり言葉が出てこない。相手の指先が引き金に乗った。

「待て待て」

 その声に兵士が構えを緩めた。もう一人、背後から同じ様相の兵士が瓦礫を踏んでミハルをのぞいた。逆光で顔が見えないのは同じだ。

「兎じゃねえか?」

「え? 兎? 獣人?」

 後から来た一人が、瓦礫を超えてミハルの元に降りてくる。手に持った銃口はこちらを向いて、その先端がミハルの顎をしゃくった。

「ほら、可愛い顔してんじゃん。おっと、女の子もいる」

 横たわっていたサラの姿にも気がついたようだ。ミハルは心臓を跳ね上げ、サラの手を強く握り、その頭を抱きしめた。

「殺さないで捕虜にしよう。あー、でも、女の子の方はもうダメかもな」

 兵士が顔を向ける先には、サラの上に乗った瓦礫があった。

「まあ、仕方ねえ。男の方だけでも連れてかえ……」

 兵士がミハルには手を伸ばした。ミハルが身構え、兵士が言葉を放つその途中で、それは一瞬で立ち消えた。

 斬撃が空気を切り裂き、その風圧で兵士の体は後方にのけぞり吹き飛ばされる。

 もう一人の兵士もそれに巻き込まれたのか呻き声を上げて、瓦礫と共に突き飛ばされていった。

 何が起こったのか理解できず、ミハルはただ目を見開いた。ミハルの前に立ちはだかったのは大きな影だ。担いでいる華美なアックスが、彼が振り返ったことで光を反射し煌めいていた。

「お、狼……」

 そう呟いて、無意識の恐怖でミハルは震え上がった。こちらに歩み寄るその影の表情が徐々に浮かび上がる。鋭い眼光がミハルを見下ろした。

「ひっ」

 その手がミハルの腕を掴む。喰われる、と思ったミハルの体は硬直したが、その男はミハルの体を持ち上げ脇に抱えた。

「くそ! 戦士ライニールだ! 殺せ!」

 背後で足音が響き、東の兵が隊列を作った。カチャリと部品が擦れる音がして、その隊列が銃を構えたのがわかる。

 ライニールと呼ばれた男はミハルの体を一度地面に放り投げた。太い腕でアックスを握ると、振り返り様にそれを翻す。斬撃が光を放ち銃を構えた兵士たちが後方に崩れ落ちていった。ライニールは魔導士の援護を受けているようだ。

 アックスを背に収めたライニールに再び抱えられ、ミハルは気がついた。戦士ライニールはミハルを助けようとしているのだ。ミハルはライニールの腕を叩いた。

「サラを……妹を助けてください!」

 ライニールは黙ったまま視線を落とした。その先に瓦礫の下でぐったりとしているサラの姿がある。しかしライニールはサラに手を伸ばさなかった。そのまま立ち去ろうとする様子にミハルは焦り、声を上げた。

「妹がそこにいるんだ! お願いです! 助けて!」

 ライニールは黙っている。

 そのままミハルを抱えるのとは反対の腕に視線を滑らせた。ミハルはその視線を追う。ライニールはそこにもう一人、気を失ってぐったりとした子供を抱えていた。

「じゃあ、俺をおいていって! 妹を連れて行ってください! 俺は自分で走れる!」

 ライニールの視線が何か考えるようにミハルを見下ろした。しかし、その時また背後で無数の足音が鳴る。

「こっちだ! 加勢しろ!」

 騒ぎを聞きつけた敵兵が駆けつけたようだ。数が多い。当然、ライニールも気配に気がついている。もう一度だけサラに目を落としたライニールが言った。

「妹は諦めろ、瓦礫を退けてたら全員助からねぇ」

 ミハルが言葉を返す前にライニールは走り出した。

「な、ちょっと! 待ってください!」

「暴れるんじゃねぇ」

 ライニールは見た目通りの低い声でそう言った。

 ミハルの視界に、ライニールの抱えたもう一人の子供の姿が映る。

 ライニールの足元は魔導士の援護で青い炎を纏っていた。その足で瓦礫を踏み締め時折壁を蹴り上げる。

 ライニールの腕にしがみつきながら、ミハルは必死に振り返った。

「サラッ!」

 サラは動かない。その姿がどんどん遠ざかっていく。もうきっと、ミハルの声は届かない。

 ミハルは口元を抑え、息を飲んだ。その手を涙が伝った。

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