第25話

 ライニール・クライグは恋人を殺した。

 彼は苦しんでいる。今も、恋人を許す理由を探している。

 しかし、ミハルは思った。自らが殺した恋人の罪を許したら、次に彼にのしかかるのはその恋人を自身が殺してしまったという事実だ。

 --わからねぇ

 だから、ライニールはそう言った。彼自身、今も自分の心を救う方法が見つけられず、苦しんでいるのだ。

 ライニールはそれ以上語る事はせず、ココアに口を付けて「甘ぇ」と呟いてからずっと閉口したままだ。

 ミハルもこれ以上、踏み込んでいいものかと躊躇っている。

 彼の恋人を殺したことが、自分の罪だと思っていたミハルは、またヒリスの放った言葉の中に飲み込まれていきそうだ。

 --人殺し!

 ヒリスのあの形相。

 ミハルが人を殺し、そのことがライニールを苦しめ、ヒリスをあそこまで怒り狂わせてしまったのだ。しかし、ミハルが殺したのはライニールの恋人ではなかった。

 では、いったい自分は誰のことを殺したのだろう。そう思うのと同時に、ライニールは恋人以外にも大切な誰かを失ってしまったのだろうか、とミハルは息苦しさに胸を抑えた。

「ライニール様、俺、少し外に出ますね」

「あ?」

 ライニールが炎から顔を上げ、壁にかけていた上着を羽織るミハルを向いた。

「鼻です」

 ミハルは手にしたニンジンをライニールに見せた。

「目はどうすんだ、ジャガイモじゃねぇのか」

「それなんですけど、ジャガイモより、丸い石っころでも拾った方がしっくりくるかなって」

「ああ」

「手と口は、小枝でも拾って」

「ああ」

 ライニールはかすかに頷くと、その大きな体をゆらりと動かした。膝を立てて立ちあがろうとする彼を、ミハルは手のひらを振って慌てて制した。

「いやいや、ひとりでちゃちゃっとやっちゃうんで、いいですよ」

「あ?」

「夕飯の支度もしなきゃですし、すぐ戻ります。ライニール様は薪当番しててください」

「……ああ」

 ライニールを暖炉の前に残し、ミハルはまた上着を着込んで手袋をはめた。

 城の扉を開くと石階段の上の雪はちょうどライニールが歩けるくらいに掻き分けられている。

 白い雪のおかげであたりは明るく感じるが、空を見上げると暗い雲がかかっていた。今夜もまた雪が降るかもしれない。

 ミハルは白い息を吐き、階段を降りた。

 さっき作った雪だるまに歩み寄る。大きい方の顔をほじくり丸々一つのニンジンを刺した。小さい方の雪だるまには先の部分だけ切ったものを用意している。

 ニンジンの鼻をつけた目のない大小の雪だるまが並んでいる。

 ミハルはそのまま石を拾わず、城の裏手に回った。この先に池がある。

 「釣りに行く」とミハルはヒリスに言い、ヒリスは「わかった」と答えた。あの池で話そうという意図は、おそらくヒリスに伝わっているだろう。

 ザクザクと雪を踏み締め、ミハルは池にたどり着いた。池には氷が張っているのか、薄く雪を被っている。

 ミハルは注意深く近づいて、淵に屈んで手袋を外して手を伸ばす。池に張った氷は薄く、手で少し力を込めて押すとすぐに割れ砕け、凍てつくような冷たい水に指先が触れた。

 背後で雪を踏む音がして、ミハルは立ち上がり振り返った。

 ヒリスが立っている。コートの肩に雪が積もっているから、少し待たせたのかもしれない。しかし、彼に凍えた様子はなく、その背筋はまっすぐ伸びて、かろうじて冷静さを保つかのように細めた目元をミハルに向けていた。

「消える気になった? ライニールの前から」

 雪のように冷たい声でヒリスが言った。ミハルは黙ったまま俯いた。

「ヒリス様、教えていただけませんか。俺の犯した罪を、あなたは知っていらっしゃる。俺は……いったい誰を殺したんですか」

 ミハルの問いにヒリスは眉を寄せた。

「ライニールは、なんて」

「何も……」

「そう……」

 ヒリスは手袋をしていなかった。それは魔法使いにはありがちなことだ。魔法を発動する時に手袋は邪魔になる。ミハルは無意識にその手元を見ていた。先ほどのことがあったので体が勝手に身構えている。

 しかし、ヒリスはその手を上着のポケットに突っ込んだ。

「とにかく、ライニールの前から消えてくれ」

「教えては頂けないんですか」

 ヒリスはミハルの言葉を鼻で笑った。

「教えたら消えてくれる?」

「それは……」

 ミハルの脳裏にライニールの姿が浮かんだ。怖い顔でこちらを見下ろし、舌打ちして、クソ兎、クソが、殺すぞ、と何度も暴言を吐かれた。

 狼の彼に兎のミハルは怯えていた。

 だけど彼と離れていた間、ミハルは寂しかった。毎日一人でご飯を食べて、誰の声も舌打ちも聞こえない。暖炉に火が灯ることもない。そして、そんな寂しい夜に思い出したのは、いつか胸に抱いたあの大きくて温かいライニールだった。

「まあ、聞いたら嫌でも消えたくなると思うけどね」

 意地悪くヒリスが吐き捨てる。そして手を入れていた上着のポケットから、あのベルベットの小袋を取り出した。膨らみを持ったそれはカラカラと音を鳴らし、中にいくつもの追蹤玉が入っているのだとわかる。

「ヒリス様、やはりそれはあの人の記憶なのです?」

「あの人?」

「ライニール様の、恋人……」

「ああ」

 ヒリスは袋を開けて中身を取り出す。

 オレンジ色の追蹤玉と、ブルーの玉もあるようだ。

 ヒリスはライニールが恋人の記憶を探しているとわかっていたはずだ。協力するふりをしながら、ライニールにはそれを渡していなかった。

「どうして、あなたがそれを持っているんです? ライニール様は、それをずっと探してらっしゃった」

 ミハルが咄嗟に飲み込んだ記憶の中のあの人は、愛し気にライニールの名を読んでいた。

 ヒリスが持つ中に、きっとライニールが探している記憶がある。

 ライニールがあの人を許すための記憶……それを、ヒリスは渡さずにいる。持っていることをおそらくライニールに隠している。

 それは何故か、ミハルは気がついた。

「ヒリス様、貴方は……ライニール様のことを、愛しているのですか?」

 ミハルが言うと、突然ヒリスはその目を見開いた。風圧がミハルの髪を巻き上げる。しかし、先ほどのような魔法を放ったわけではないようだった。ただ、ヒリスの表情は激しい感情を浮かべていた。

「そんな、軽はずみな言葉で済ませるな。なにもかも忘れてるくせに!」

 粉雪が舞い散り、空気が揺れ動く。

 ミハルは後ろに倒れ込みそうな体を必死に脚で支えていた。ミハルの体を押すのは、ヒリスの感情で押し出された彼の魔力だ。

「俺は二人のことを愛してた。家族だと思ってた。大切だった、何より……大切だったんだ。だから、許せない。裏切ったことも、それでもまだ記憶に縋ろうとしてるライニールのことも」

 揺れ動くヒリスの瞳から、ミハルは目が離せなかった。ヒリスは過去の記憶を脳裏に浮かべ、失った何かを嘆いている。ヒリスのいう二人とは、ライニールとライニールの恋人のことだろう。

「交換条件だ」

 ヒリスは自らを落ち着けるように、息を吐き言った。魔力の圧力は弱まり、ミハルは力んでいた体の力を少しだけ緩めた。

「この追蹤玉を、お前にあげるよ」

 ミハルは唾を飲み込んだ。「交換条件」とヒリスが言ったからだ。

「その代わり、お前の追蹤玉を差し出して。それと同じ数だけ、これをあげる」

「俺の……です? でも……」

「罪人だもんね、魔女に記憶を奪われてるって知ってるよ。何個取れるかな? 足りるといいね」

 ヒリスは言った。

 普通であれば追蹤玉を吐き出す事はできない。魔女の慈悲をもらったミハルも吐き出せるのはブルーの追蹤玉だけだ。

 しかし、ヒリスは魔法使いだ。魔法使いは追蹤玉を吐き出させることが出来る。ミハルのもつわずかな記憶を吐き出し、そしてまた空っぽになれと彼は言っている。

 ミハルの記憶のほとんどはここに来てからの記憶だ。

 ライニールに睨まれて、舌打ちされて、毒づかれて、一緒にコンコンデールに行って、本を買ってもらって、一緒に食事をして、暖炉の前でココアを飲んで、一緒に雪だるまを作った。ミハルの記憶のほとんどはライニールだ。ライニールと過ごした記憶、そして、ライニールを愛しいと、そう思った記憶。

 ミハルは押し黙り、俯いた。

 しかし、すぐに深く息を吸い込み吐き出した後で、顔を上げて真っ直ぐにヒリスを向いた。

「わかりました、いいですよ」

 ヒリスは眉を顰め口元を結んだ。

 彼はこの状況を楽しんでいるわけではない。ただ、どうしても許せず承服できない何かに苦しんでいるようだ。

「でも、もし俺があなたとの交換条件を忘れてしまったとしても、ちゃんとそれをライニール様に届けてくださいね?」

 ミハルはそれ、と言うところでヒリスの手にする追蹤玉を指差した。

 ヒリスは黙った。まるでミハルがやっぱり辞めると言うのを待っているかのようだ。しかし、ミハルの意思は堅く、自ら雪を踏み締めヒリスに歩み寄った。

「さっさとやっちゃってくださいな。あ、痛くはしないでくださいね?」

 そう言って、躊躇うヒリスの手首を掴む。ヒリスは半歩後ろに下がるが、動揺を読み取られないようにとその口元は結んだままだ。

「さあさあ、びびってないでヒリス様、はやくはやく」

 ミハルはヒリスの手を持ち上げた。それを自分の額に押し当てる。ヒリスの手は冷たかった。

 ミハルの態度にヒリスはもう引き下がらないと決めたようだ。ゴクリと唾を飲んだ後、その体をまっすぐにミハルに向けた。

「そこじゃない」

 ヒリスの手が熱をはらんだ。ミハルの目の前が白んでいくが、それは目眩ではなく、ヒリスの手のひらが放つ光だ。

「追蹤玉があるのは、ここだよ」

 そう言って、ヒリスはミハルが押し当てていた額からその手を滑らせた。それはミハルの胸元に重なる。

 まるで心臓を掴まれたように熱くなったが痛みはない。しかし、息苦しさに、ミハルは不恰好に口を開いたまま中空を仰いだ。

 ヒリスの手が胸元から離れたのと同時にミハルの体は雪の上に崩れ落ちる。意識はあった。しかし、喉が締まり臓器が収縮している。

 この感覚にミハルは覚えがあった。体が追蹤玉を吐き出そうとしている。

「おぇ、おぇぇぇ……」

 雪の上に手をつき、這いつくばるような体制でミハルは背中をのけぞらせた。次に頭をもたげると、糸を引いた唾液と共に、オレンジ色の追蹤玉が雪の上にぽとりと落ちる。そして、またもう一つ、さらに一つ、喉奥からこぼれ落ちて、カツンと音を鳴らして、雪の上でぶつかった。

 そこでミハルは息を止めた。

 さらに記憶が霞んでいく。記憶の霧が流れて渦になり、やがてそれがオレンジ色の玉になって、ミハルの喉から溢れていく。

 何を失ってしまったのかわからない。しかし、ミハルは確実に失っていた。

 胸を裂くような喪失感がミハルを襲う。瞳から冷たい頬に止めどなく涙が伝うのは、息苦しいからというだけではなかった。

「おい!」

 声が聞こえる。その声の主が誰なのか、ミハルはまだ覚えている。ライニールだ。

 ミハルは伸縮する胸元を抑え、顔を上げた。白い息を吐きながらライニールがこちらに駆け寄ってくる。

「ヒリス! 何をしたんだ!」

 ライニールが蹲っていたミハルの体を抱き起こした。その手の温かさをまだ覚えていたことに、ミハルは安堵し、さらに目元を涙が濡らした。

 ライニールはミハルが蹲り伏せていた場所に、オレンジ色の追蹤玉をみつけた。それを見てヒリスがミハルに何をしたのか気がついたようだ。

「どうしてこんなことを……今すぐ解け、ヒリス!」

 ヒリスは声を荒げたライニールの様子に怯み、後ずさる。しかし、すぐにその表情を結んでミハルを指差した。

「どうしてなんだ、ライニール! なぜ、こいつを庇うの!」

「ヒリス!」

「おえ、おえぇぇ」

 ライニールの腕の中で、またミハルは体をのけぞらせた。

 ライニールの衣服を汚すわけにはいかないと、慌ててライニールの腕を振りとき、雪の上に顔を伏せる。またポロポロと追蹤玉がミハルの口からこぼれ落ちた。

「やめろ、ヒリス……やめてくれ」

 ライニールがミハルの肩を抱いた。苦しげな呼吸で肩を揺らしながら、ミハルはライニールの腕を掴む。

「違うんです、ライニール様」

「あ?」

「ヒリス様との約束なんです」

「どう言う事だ?」

 ライニールの問いに、今度はミハルがヒリスを指差した。その手元に握られたベルベットの袋にライニールも気がついただろう。

「あれは、ライニール様のお探しになっていたものです。それと俺の追蹤玉を交換して頂けると、おぇぇ……」

 ミハルはまた吐き出した。雪の上にミハルの吐いた追蹤玉の数は、一瞬では数えきれないほどの数になっている。

「チッ、クソが」

 ライニールは立ち上がった。雪の上に頭をもたげたミハルの視界の横で、ライニールの靴が雪を踏み締めていく。顔を上げるとライニールの手がヒリスに向けて伸びていた。

「ライニール様!」

 ヒリスは驚き後ずさった。

 しかし、ライニールが掴んだのは、ヒリスの胸ぐらではなく手に持っていたベルベットの袋だった。

「何をっ!」

 そうヒリスが叫んだのは、無理やり袋を奪われたからではなかった。その袋をライニールが池に向けて投げたからだ。

 袋は中空で弧を描き、その中身をぱらぱらと池の中に撒き散らしながら、最後にぽちゃりと音を立てた。

 見上げたミハルの瞳の中に、その情景が映り込む。

 --ライニール

 愛していた。

 あの人は、絶対にライニールを愛していたのだと、ミハルにはわかる。

 しかし、ミハルが飲み込んでしまったあの人の追蹤玉はもう戻ってこない。だからライニールがそれを知る術は池に沈んでいくあの追蹤玉しかないのだ。

 気がつけばミハルは立ち上がり、足元の雪を踏み締めていた。それは躊躇う事なく池の中へと踏み込んで、ざぶざぶと音を鳴らす。

「おい! クソ兎何してんだ!」

 背後のライニールの声は遠かった。

 足先どころか腰のあたりまで、鋭い何かで刺されるような痛みが走る。

 気がつけば、ミハルはずいぶん池の中を進んでいたらしい。痛いのではなく、酷く冷たいのだと気がついた時には氷が砕けるかのように膝が崩れ、ミハルの体は冷たい池に沈んでいった。

 口から気泡が溢れる。ボコボコとくぐもった音が聞こえる。ミハルは目を開けた。視界の先に、ゆっくりと沈んでいくベルベットの袋が見える。その口からポロポロとオレンジ色の玉がこぼれていった。

 驚くほどに自由を失った硬い体で必死にもがき、ミハルは腕を伸ばした。その指先が微かに一つの追蹤玉に触れる。

 しかし、真冬の池は冷たい。ミハルは急に白んだ視界のなかで、やがて意識を手放した。



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