第21話
◇
ミハルは城の扉に続く石階段を駆け上がった。途中足がもつれて膝を打ちつけるが、構っていられず立ち上がる。扉のノブに飛びついて、後ろにのけぞり体重で扉を開く。隙間から滑り込むように中に入った。城のなかは風がない分外よりは温かい。
ミハルは顔を上げた。正面にある暖炉の部屋への扉が中途半端に開いている。そこから灯が溢れていた。
ミハルは乱れた息を整えるために、大きく胸を反らせたが、それでも落ち着くまでに少し時間がかかってしまう。
焦る気持ちはミハルの足を前に押し進め、その手は暖炉の部屋の扉を押した。
「ライニール様、戻ってくるなら知らせてくださいな。お食事用意できてませんよ?」
ミハルは部屋を見渡した。しかし想像した姿はそこにはない。
ミハルは奥へと進み、調理場に向かった。
「でも、運がいいですね。今日ちょうどヒリス様がいらっしゃったので、食材は豊富ですよ」
そこにもライニールの姿はない。調理場の中をミハルはぐるりと歩き回った。
「リクエストはありますか? やっぱりお肉ですかねぇ? 洋梨もいただいたので、タルトにでもしましょうか、ライニール様は甘党なのでうんと砂糖を入れましょうね」
また部屋に戻るが、姿はない。
「ライニール様?」
ミハルの呼びかけに答えるものはいなかった。
灯が灯っていたのはミハルが出かける時に消し忘れていたからのようだ。それに気づいたミハルは小さく自嘲する。
こぼした息が空虚な部屋に薄れていった。
その夜ミハルはシチューを煮た。
初めてライニールに作った食事はビーフシチューで、あの時はワインを勝手に使ってひどく怒られた。今日は口の開いたワインがない。だからミハルはホワイトシチューを作った。
日が落ちて、部屋の中もずいぶん寒い。だけど、ミハルは暖炉に火をつける方法がわからなかった。
薪をくべて火を灯せばいいのだろうと想像できたが、まさか火事でも起こしたらと思うとやる気になれない。
部屋から持ち出した毛布にくるまりカウチの上で膝を抱える。
そうしていたら扉の外でカタリと音が鳴った気がした。ミハルは城の玄関扉を開けて覗き込んだが誰もいない。寒さに肩を窄めて扉を閉めて、また毛布にくるまって玄関扉の前に座り込んだ。
そのうち眠ってしまっていたようだ。
目を開くといつの間にか城内に微かな朝日が差し込んでいたが、ライニールは戻ってこなかった。
それからまた十日が経った。
ミハルがパンのかけらをもそもそ囓り、ぬるいミルクを啜っていると、玄関でノッカーが鳴る。
ミハルはまた部屋の扉に歩み寄り少しの隙間を開けて覗き込んだ。ヒリスが玄関扉を開けていつものように木箱を中に運び込んでいる。
床に置いた木箱から顔を上げたヒリスは、ミハルが部屋のドアから覗き込んでいることに気がついたようだ。その動きがぴたりと止まり、少しの間の沈黙が流れた。
「ここに、置いておきますね」
また低い声音でヒリスが言った。
ミハルは扉の向こうで頷いたが、目だけを隙間から覗かせているのでヒリスには見えていないだろう。
「あの、ヒリス様」
「……なんですか」
ヒリスは答えるが、その後は不機嫌に口を結んだ。質問されるのが嫌だとでも言いたげだが、ミハルの元を訪れるのはヒリスしかいない。ミハルは彼に尋ねるしかないのだ。
「東の国境からこのお城までどのくらいかかりますか?」
「はい?」
「十日とか十五日とか……二十日くらい、かかりますか?」
ヒリスは少し間を開けて息を吸った。ミハルの質問の意図を理解したようだ。
「魔馬車なら、三日もかからないと思いますよ」
その答えに、ミハルは扉越しに息を呑んだ。
「あの、では、普通の馬車ではどのくらいですか?」
「普通の馬車なら、まあ、二週間くらいかかるんじゃないですかね」
ヒリスはふてぶてしく答えた。ミハルは「普通の馬車なら二週間……」と口元で呟いている。
ミハルが狐の男に貰った新聞は五日前に戦いは終息したと書かれていた。そこからまたヒリスが来たので十日経っている。ちょうど二週間ほどが過ぎていた。
「では、そろそろライニール様が戻られますねぇ」
ミハルは言った。しかしヒリスは意地悪く眉を顰める。
「ライニールなら、魔馬車を使うんじゃないですか」
確かにそうだ。ミハルもそう思う。しかし、何か事情があって普通の馬車で帰ってきていると言うことも十分考えられる。
新聞には五日前に終わった戦いについて「多くの犠牲者を出した戦いが英雄の活躍で終息した」と書かれていた。そこには「英雄」の名前も「犠牲者」の名前も書かれていなかった。それが誰を指すのか、ミハルには知る術がない。
「しかし、まだライニール様が戻られなくて。ヒリス様は何かご存知ではないですか?」
ミハルの問いに、ヒリスは表情を結び閉口した。おそらくこれ以上ヒリスは何も教えてくれない。ミハルはそう感じ取った。
「帰ります。また、十日後に」
冷たい声でそう言って、ヒリスは城の扉の外へと去っていった。
ミハルは朝食の皿を片付けヒリスの持ってきた食材を確認すると、上着を着込んだ。
分厚い靴下を二枚も穿いて、ブーツに無理やり足を押し込むと、裏口から納屋に向かった。
そこにはバケツと暫く使われた形跡のない釣具がある。城の周りを散歩している時に見つけたのだが、手にするのは初めてだった。
ミハルはそれらを握りしめ、城の裏手に向かった。行ったことはなかったが、そこに池があることをミハルは知っていた。
--いいかお前、少しでもおかしな真似してみろ、その喉食いちぎって裏の池に投げ捨ててやるからな!
ライニールの怖い顔を思い出しながら、ミハルは口元をニヤつかせた。
少し歩くと森の中で木々が開けた。
池は想像よりも近くにあったが、どうやら囲まれていてミハルは気が付かなかったようだ。なかなか立派な池で、真ん中のほうはそれなりに深さがありそうだ。季節的に枯れた草が周囲を覆っているものの、春になれば花でも咲きそうな雰囲気だった。
ここで釣れと言わんばかりの木製の足場が池に突き出していて、その先端にミハルは立った。
今夜、ライニールはきっと帰ってくる。ヒリスの食材に肉はあったが魚が無かった。ライニールは肉派だと言うが、骨を抜けば魚ももりもりたくさん食べた。
「お肉とお魚両方用意しましょうねぇ。スペシャルコースです」
またついついひとりで呟いて、ミハルは釣り糸を垂らした。
それからほとんど時間は立っていない。
背後でガサガサと草を分ける音がして、ミハルは振り返った。獣かもしれないと思ったからだ。
小さな獣であれば問題ないが、万が一冬眠前の熊などであれば、何もかも投げ捨てて逃げねばならない。
しかし、そこにいたのは熊ではなかった。
「ヒリス……様……」
名を呼んでしまった後で、ミハルは慌てて口を閉ざした。何も言わなければ姿を見られても言い逃れできただろうが、今の一言でヒリスはミハルがあの城にいる罪人だと確信しただろう。
その証拠にヒリスは表情を固く結び、今までミハルが見た中でもっとも怒りに近い感情を浮かべていた。思わずミハルの手が頸を抑えた。その指先は緊張と外気で氷のように冷たくなっている。
「ライニールに抑制剤を頼まれたから」
「……はい」
「だから、家にいるのは烙印持ちだと思ってた」
「……はい」
ミハルは釣竿を足元においた。
ヒリスはじわじわとミハルに歩み寄ってくる。その靴底が木製の足場を踏んで、こつりと乾いた音が響いた。
「なんで、よりによってお前なんだ」
ヒリスの目が更なる感情で揺れ動いた。眉は歪み、その口元は怒りに戦慄き上唇を震わせている。
ミハルは後ずさったが、背後は池だ。そこで止まると、ヒリスはミハルとの距離を一気に詰めてその胸ぐらを掴み上げた。
「うっ、わ、ひ、ヒリス様、何をっ……」
キツく締め上げられ、ミハルの喉は詰まった。
ヒリスは体格が良い方ではないものの、それでも力いっぱい両手で襟首を掴まれれば、逃げ出すのは容易ではない。
ミハルは必死に手を伸ばしてヒリスの手首を掴んでもがいた。
「魔女に記憶を抜かれた? 全部、何もかも都合良く忘れたって言うのか⁈ よくも、抜け抜けとライニールの前に姿を現しやがったな!」
ミハルは首を振った。
ヒリスの言葉の意味が理解できない。
とにかく苦しくて、無我夢中で足裏でヒリスの腹を蹴り飛ばす。
ヒリスは呻き、ミハルの襟元から手を離した。腹を庇うようにくの字に体を曲げている。
ミハルはその隙に、池とは反対方向に逃れようと走り出す。しかし、腕を掴まれ、そのまま地面に押し倒された。背中に当たったのは枯れ草を生やした土の地面だ。池の湿気をはらんでいるのか、咄嗟についた手のひらが泥で汚れた。
うつ伏せていたミハルの体を無理やり返すとヒリスはその上にまたがり、また襟元を掴んでミハルの体を押さえつけた。
ヒリスが拳を握る。
ミハルが咄嗟に目を閉じたのと同時に、ヒリスの拳がミハルの頬を殴った。
強い衝撃でミハルは声も出なかった。頭の中が揺れ動き、それが収まるよりも前にもう一度、今度は目の横あたりに衝撃が走る。
ミハルは目を開いた。ヒリスがまた拳を持ち上げている。恐ろしい形相だった。
ミハルは必死にその手を持ち上げ、振り上げられたヒリスの手首を掴む。
「この人殺し!!」
ヒリスの叫び声がミハルの鼓膜を貫いた。その隙にもう一度頬に衝撃が走る。
動揺と恐怖が同時にミハルを襲った。
ミハルはまた足を振り上げ、ヒリスの体を蹴り飛ばした。
ヒリスはのけぞり、上着のポケットに入れていたらしいベルベットの黒い袋の中から、オレンジ色の追蹤玉がいくつも飛び散って地面に落ちた。
ミハルは体を返し、這うようにしてその場を離れようとする。しかしヒリスに腕を掴まれた。
ミハルは地面を握りしめて、掴んだいくつかの追蹤玉をヒリスの顔面に投げつける。
目に当たったのかもしれない。埋めいたヒリスは顔を抑え、ふらふらと蹲った。
ミハルは立ち上がり走った。
森の中に駆け込み、身を隠すように奥に進む。しばらく進んで木の根が爪先にあたり、バランスを崩して倒れ込んだ。膝が痛むがそれより殴られた顔がもう少しで感覚を失いそうなほどに熱を持っている。指で触れると鼻血が出ていた。
吐き気がして、ミハルは口元を抑える。慈悲を与えられたこの体が、ブルーの追蹤玉を吐き出そうとしているようだ。
「吐いちゃだめだ……忘れちゃ、ダメだ……」
ミハルは言い聞かせるように呟いた。
--この人殺し!
--よくも、抜け抜けとライニールの前に姿を現しやがったな!
ヒリスの言葉を頭の中で反芻した。
ライニールの部屋で見た写真の中、顔の見えないあの人の隣で、不器用に微笑むライニールの姿を思い出す。
ミハルは着ているシャツを撫でた。土と血で汚れてしまった。ライニールにもらった、ライニールの愛する人が着ていた服だ。
「何で、どうして……これを、俺に着せたんですか……」
ミハルは罪人だ。
犯した罪の記憶も含め、全てを魔女に奪われた。
犯した罪をミハルは知らない。だけど、その答えをヒリスは知っていた。そして、おそらくライニールも知っているはずだ。
--人殺し!
ヒリスの声がまたミハルの鼓膜を貫く。それは幻聴だ。実際のヒリスの姿が追ってくる気配はない。それでも、ミハルは込み上げる吐き気で体をのけぞらせた。必死に伸縮する臓器を押さえ込む。
その時、ミハルは寒さで薄らいでいた感覚に気がついた。手に何か握っている。
いつのまにか擦りむいて傷を作っていたその手を眼前に引き寄せ開くと、そこにはオレンジ色の追蹤玉が握られていた。おそらく、先ほどヒリスが落としたものだ。泥と枯れ草が付いていた。
ミハルはそのオレンジ色の追蹤玉を、血の味がする口に含んだ。泥臭く青臭い。しかし、ミハルは必死にそれを舌で送りこみ、どうにか喉奥に押し込んだ。
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