情弱なうさぎ

第20話

 ◇


 季節は緩やかに過ぎている。しかし、日々確実にその空気は温度を失い冬に近づいているのだと、ミハルはこの城でひとり感じていた。

 暖炉の部屋のあの食卓で、適当に焼いたトーストとミルクを啜っていると玄関先でノッカーの音がする。

 ミハルは戸に近づいて少しの隙間を開けた。そこから玄関を覗き込む。城の扉は返事も待たずに勝手に開かれ、そこから木箱を抱えて入り込んできたのはヒリスだった。

「また持ってきましたよ、ここ置いときますね」

 ヒリスはそう言って、木箱を一つだけ地面に置いた。

 ライニールは彼に手紙を書いたようだ。自分が不在の間、今までの半分の量で良いので食材を運び込むように。もし玄関先にメモ書きがあれば、それに書かれたものは次に用意するようにと。そう指示を受けたと、ライニールがいなくなって最初にヒリスがここを訪れた時に言っていた。

 ミハルは相変わらずヒリスの前には姿を現さないままだ。だからヒリスは正体不明の誰かに向かって玄関先でただそのライニールからの指示を告げていた。

 今日も箱を置いて一言だけ添えると、ヒリスは城の扉を出て行った。

 ヒリスの姿が見えなくなった途端に、ミハルは部屋の扉から抜け出した。飛びつくように城の玄関扉のノブを引き、少しだけ隙間を開けるとその目元をそこに押しつけた。

 ヒリスはまだそこにいた。今まさに去ろうとしていた彼を、ミハルは慌てて呼び止める。

「あのっ」

 突然の声にヒリスは驚き肩を跳ね上げた。振り返ったその顔も驚きを隠せないまま眉を上げている。声の主の姿を探しているようだったが、隙間からその目だけを覗かせているミハルの姿を見つけたようだ。

「はい、なんでしょう」

 ヒリスの声音はいつもライニールに声をかけていた時よりもうんと低く、敵意をはらんでいるかのようだ。ミハルが罪人だと気がついているのだろう。

「ヒリス様、教えていただきたいことがありまして」

「ええ、なんですか」

 ヒリスは腕組みし、片足は背後に引いている。早く立ち去りたいとわざとらしくアピールしているかのようだった。

「東の反乱の戦況はどうなっていますか? そろそろひと月になりますが、ライニール様がお戻りにならないので」

「ああ」とヒリスは冷たく息を吐いた。

「新聞とってないんですね」

「はい、なので、状況がわからず」

「そうですか」

 ヒリスは暫く黙ったまま、地面を見つめていた。

 ミハルは彼の言葉が待ち遠しく、ついついドアの隙間から鼻先を突き出していた。しかしヒリスが顔を上げたので、慌ててそれを引っ込めた。

「帰ります、また十日後に」

「えっ、あ、あのっ! ヒリス様!」

 ミハルの問いには応えないまま、ヒリスは組んでいた腕を解き石階段を降りていく。

 ミハルはいっそ扉から体をだしてヒリスを引き留めたかったが、そこを堪えて必死に叫んだ。

「お待ちください、ヒリス様! どうか、教えていただけませんか!」

 最下段にたどり着いたヒリスはそこで一度ミハルを振り返った。

「街にでも行けばわかるんじゃないですか? そこなら新聞も買える」

 冷たくそう言い残してヒリスはその姿を揺らし、転移魔法で去って行った。

「……そうか、街に……」

 ミハルは呟いた。

 ライニールが戦いに出てから、ミハルは独り言が増えた。もともと多い方だったが、最近は何をするにも言葉が出てくる。

 食事を食べる前、味付けが少し濃かったなと思った時、天気が良かった日、いつもより少し寒い日、鼻がむずむずする時、眠る前、起きた時。気がつけばそれはミハルがいつもライニールに声を掛けていたのと同じ時だった。

 ミハルは朝食の皿を片付け、ヒリスの持ってきた食材を調理場に運んだ。その中からりんごとパンとチーズを取り出し布巾に包んでカバンに入れる。僅かな硬貨をポケットに突っ込み、上着の上から更に黒いローブを纏った。

 コンコンデールまでは魔馬車では数分、普通の馬車では二時間ほどだった。無理をすれば歩けない距離ではないはずだ。それに山脈の形を頼りにすれば、街のある方向も見失わないだろう。

 ミハルは城の扉を開いた。

 一人で城から離れるのは初めてのことだった。舗装された馬車道の隅を、ミハルはカバンの肩紐を握りしめながら歩いた。

 いつの間にか息が白くなる季節だった。鼻先が赤くほんの少しだけ痛んだが、歩いているうちに体温は上がっていく。

 半日も歩けばたどり着くだろうか。城の中ですっかり鈍っているこの体では少々辛い道のりだ。

 ミハルは立ち止まり、鞄からポットを取り出し、入れてきた紅茶を口に含んだ。すでに冷めているが、喉が渇いていたのでむしろ都合が良かった。

 また暫く進んだ。向こうに見える山の形は街から見上げたものに徐々に近づいている気はするが、それでもまだ先は長そうだ。

 ミハルがふうと息を吐いたその時に、背後から馬の蹄と車輪の回る音がした。

 馬車が通る。ミハルは道から外れるほどに隅の方へとその身を寄せた。

 馬車はミハルの隣を通り過ぎていく。御者が手綱を引いているが、客車には人はいないようだ。いくつか荷物が積み上げられているのが窓から見えた。ミハルが顔を上げて通り過ぎる馬車をながめていると馬車の動きがゆるりと止まった。

 歩みを進めたミハルがその馬車に追いつく形となる。御者席から声が降ってきた。

「いつぞやのうさぎちゃんじゃない?」

 ミハルは顔を上げた。見覚えがあるその顔に、ミハルは「ああ」と眉を上げる。

「これはこれは、いつぞやの狐さん」

「おっ、覚えててくれたの? えっと、ひとり?」

 ミハルはこれまでに出会い話した人物が極端に少ない。だから、たった一度コンコンデールの街で会っただけのその人物の顔を覚えていた。

 狐の男はあたりを恐る恐る見廻している。ライニールの姿がないことを確認しているようだ。

「ひとりです」

 ミハルが答えると、狐の男は安心したように息を吐いてまた愛想の良い笑顔を見せた。

「どこいくの?」

「コンコンデールに」

 ミハルが答えると、「それはいい」と狐の男は指を鳴らした。

「俺もコンコンデールに行くとこだよ、乗ってく?」

 狐の音は親指を立てながら、その先で後ろの客車を指差した。

 ミハルはその指先を視線で追った。荷物が積まれているが、ミハル一人くらいなら座れそうだ。しかし、ライニールの言葉をミハルは覚えていた。

「狐さん、以前俺を襲おうとしましたよね?」

 ぎくりと狐が肩を窄め、わかりやすく眉を下げて苦笑した。

「襲うっていうか、まあ、そのぉ、楽しいことは一緒にしたいなーって思いはしたけど」

「そうですか、では、ありがたい申し出ですが、今回は遠慮しておきますね、ごきげんよう」

 ミハルはペコリと頭を下げてまた歩き出す。その背中に狐の男が慌てて声を掛けた。

「いやいや、待ってよ! 誤解だって!」

「はて?」

 ミハルはその声に立ち止まり振り返った。

「俺は無理やりとかそう言うのは好きじゃないから! あの時は君が追蹤玉をねだって、俺のこと誘ってんのかと思ったんだよ」

「……ううむ、それは誤解ですねぇ」

「わかってる! あのおっかないご主人が来て、びびって帰った後、冷静になったら俺の都合のいい勘違いだったなって」

「そうですか」

 ミハルは少々不躾に狐の男の足先から頭のてっぺんまでを視線で辿る。その警戒するミハルの様子に、狐の男は相変わらず苦笑いを浮かべた。

「何もしませんか?」

「もちろん、うさぎちゃんが望まないならしないよ! その気になるように口説いたりはするかもだけど」

「……なるほど」

 ミハルは顎を撫でながら数秒考え、進行方向の山を見上げた。まだ先は遠い。ミハルは狐の男に視線を戻す。

「では、ご一緒させていただけますか」

「よろこんで、うさぎちゃん」

 ミハルが客車に乗り込むと、狐の男は馬車を走らせた。レネの馬車より随分とシートが柔らかく、ミハルはほうっと息を吐く。

 狐の男は当然のように御者席と客車の間の小窓を開け、ミハルに声を掛けた。

「またご主人と別行動なんて、随分と信頼されてるんだね?」

 「罪人なのに」と付けなかったのは、狐の男なりの気遣いだろう。

「はい、彼は今仕事に行っていますので」

「仕事? ああ、Ω引き取ってるってことは、ご主人勲章持ちか。仕事って、魔女の司令?」

「はい、東の反乱の制圧にいかれてます」

 ミハルは積み上げられた荷物を見上げた。どれもこれも丁重に包装されている。土産にしては量が多い気がするし、狐の男の身なりからいって、彼は商人か何かなのかもしれない。以前会った時も躊躇いなく追蹤玉を二つもミハルに買い与えていたことから、そこそこ稼いでいそうだ。

「そうなんだ、じゃあ、良かったね」

「はい?」

「戻ってくるんじゃない?」

 狐は肩越しに振り返り、どういうつもりかミハルにウィンクをして見せる。ミハルは腰を浮かせて縋るように窓のフレームに手を置いた。

「それは、どういう」

「え? どうって、終息したでしょ? 東の反乱」

 ミハルは目を見開いた。

 瞳が輝き、高揚したようなミハルの表情をみた狐の男は、「ほら」と言って自分の隣に無造作に置いていた新聞を小窓からミハルに手渡した。

「今朝の新聞」

 その狐の男の言葉を聞いて、ミハルはそれを奪い取るようにして椅子に戻ると膝の上で広げ、必死に文字を追う。その記述はすぐに見つかった。

「狐さん、大変です」

「へ?」

「五日も前に終わっています」

「あー、そうだね。そのくらいだったかな」

「降ろしてください!」

「へっ⁈ あ、ちょっと、危ない!」

 狐の男が馬車を止めるよりも早く、ミハルは客車の扉を開いて飛び出した。山を背に馬車道を走る。

「ちょっと、うさぎちゃーん! コンコンデールはいいのー⁈」

 背後から狐の男の叫ぶ声がする。ミハルは足を動かしながら振り返った。

「はい! あの、これ、もらっていいです⁈」

 ミハルは思わず握りしめたままだった新聞を頭の上でガサガサと振って見せた。

「いーよー! あげるー! 気をつけて帰ってねー!」

「ありがとうございます!」

 狐に手を振り、ミハルは走りながら新聞を折り畳む。手元が覚束ずぐしゃぐしゃになってしまったが、そのままカバンに押し込んだ。鞄を肩にかけ直し、ミハルはまた走る速度を早めた。

 鼻が痛み、息が白い。踏みしめると疲労からかつま先も踵も痛んだが、それはどうでも良かった。とにかく早く城に着きたい。

 ライニールが、帰ってくる。

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