第19話

 ◇


 ミハルはライニールの部屋の戸を二度ノックした。しかし返事はない。

「ライニールさまぁ? 朝ごはん冷めちゃいますよぉ?」

 扉に向かってそう呼びかけ、耳を押し当ててみる。いつもの舌打ちすらも聞こえなくて、ミハルはもう一度呼びかけた。

「クロックムッシュを焼いたんですよ? ハム厚めに切りました! いまならまだチーズがとろとろです」

 ミハルはまた戸に耳を押し当てた。しかし、返事はない。

「ライニールさまぁ……最後なんだから、一緒に食べましょうよぉ……」

 少し甘えるような声を出してみたが、効果はなかった。

 それから少しの間、ミハルは扉の前で中の気配を伺ったが、物音すらも聞こえない。

 ミハルは諦めてトボトボとひとりで廊下を歩いて暖炉の部屋に戻っていく。

 丸テーブルには二人分の朝食だ。

 ホワイトソースとたっぷりのチーズをかけたクロックムッシュからはまだかろうじて湯気が登っている。チーズがうまくカリカリに焼けた方をミハルはライニールの皿に乗せていた。しかし、食べ手のいないこの食事はこのまま冷めて硬くなってしまうだろうか。

 ミハルはひとり椅子に座り、ポットから紅茶を注いだ。蒸らし過ぎて苦くなってしまったが、面倒なので砂糖もミルクも入れなかった。

 ナイフとフォークを使って、ゆっくりゆっくりと咀嚼した。ホワイトソースはなかなかの出来だ。しかし、チーズは少し硬くなってきてしまった。

 ミハルが食事を終える頃になっても、ライニールは部屋から出てこなかった。


「ライニールさまぁ?」

 ミハルはまとめた荷物を肩にかけ、もう一度ライニールの部屋の戸をノックした。

 デジャヴかと思うほど、さっきと同じく返事も気配もない。

 ミハルの荷物は僅かだ。この城に来た時に持っていたボロボロの皮のカバンの中に、他の荷物に紛れて一枚だけライニールに貰ったシャツを入れた。気に入っている薄ピンクのシャツは今着ている。ミハルは襟元をギュッと握りしめながら、また部屋の戸をノックした。

「フルーツ剥いておきましたから、食べてくださいね? パンは温め直してからがいいですねぇ。それから、ミルクは早めに飲みきってくださいね、傷んでしまいますので」

 耳を押し当てる。返事はない。

 ミハルは足元に目を落とした。ここに来る時に履いていたくたびれた靴は捨てた。今履いているのは、これもライニールに貰ったあの人が履いていた靴だ。

「じゃあ、俺、行きますよ? ライニール様。これから寒くなりますから、お腹出して寝ないでくださいね……お世話になりました、ライニール様」

 返事は待たずに、ミハルは廊下を進んだ。階段を降り、玄関に着くと扉の前に座り込んだ。

 ほんの少しだけ時間が経って、ノッカーの音が鳴る。扉を開けると、そこにはレネが立っていた。昨日彼が来たのと殆ど同じ時間だった。

「あら? おやおや? うさちゃんですか?」

 レネは扉を開けたミハルの姿を見ると、眉を持ち上げた。肩から下げた鞄を見た後に、扉の中を覗き込んでライニールの所在を確認しているようだ。しかしその場にいるのがミハルだけだとわかると、レネの貼り付けたような笑顔の中に落胆の色が滲んだ。

「そうですか、そうなりましたか」

「はい、蛇侯爵のところまで、宜しくお願いします、レネさん」

「リムドラ侯爵様です。ああ、そうですか……」

 レネはまだ何か諦めきれないと言うように城の中を覗き込んでいる。

「いや、うさちゃんを連れてくとなると、普通の馬車でしょう? 英雄様の送迎なら魔馬車を出してもらえると期待したんですけどねぇ」

 言いながら、レネは自らの腰のあたりを大袈裟な仕草でさすって見せた。

「ここから遠いです?」

 ミハルはレネに尋ねた。

「まあ、普通の馬車で3日ってとこですかね。セントラルからここに来るよりはだいぶ近いです。ああ、そうですか、うさちゃんですか、はぁ……」

 レネはついにため息をついて肩を落とした。たしかに馬車での長旅は体に堪えるが、ミハルもレネも魔馬車を使う術がないので仕方ない。

 二人は連れ立って城の前の石階段を降りると、その先に控えていた馬車に乗り込んだ。ミハルは狭くてシートの硬い客車に座り、レネは御者席で手綱を握る。

 ミハルは城を見上げた。西側の窓にライニールの姿を探したが、相変わらず雨垂れで汚れた窓は誰の姿も映さなかった。

 栗毛の馬が嘶き、首を振った。レネが鞭を打つ音の後に馬の蹄が地面を踏む音がして、馬車はミハルを乗せて動き出した。

 石畳でぐらぐら揺れ動いた馬車は程なくして舗装された道に入ったようだ。揺れはなだらかになったが、相変わらずシートは硬い。

 ミハルは頭を打ちつけないように中腰に立ち上がった後で、座っていたシートを振り返り手のひらで叩いてみた。その後で荷物の中から古城から拝借したタオルを一枚取り出して、折りたたんで尻の下に敷いてみる。幾分ましだがそれでも数時間も座っていれば尻も腰も痛み出しそうだ。

 ミハルはため息を吐いて、馬車の小窓から外を覗き込んだ。

 空は晴れていて天気がいい。本当ならシーツを洗って干したい。ライニールはミハルが出て行った後に部屋から起き出し、ちゃんと洗濯をしているだろうか。

 せっかくヒリスに届けてもらった食材も使いきれなかった。あの魚は太い骨がある。注意しろと言ってくれば良かった。

「まだ、戻れる距離か」

 ミハルはひとり呟いた後、御者席に繋がる小窓を開いた。

「レネさん」

「はいはい?」

 声をかけるとレネは手綱を握ったまま振り返らずに答えた。

「ライニール様にお伝えし忘れたことがあって、ちょっと戻れます?」

「え? 戻るんですか? それはちょっとめんど……えっと、なんです? 伝え忘れたことって」

「魚に太い骨があって。注意するようにと」

「はい? なんですか、それ。子供じゃないんだから」

 レネは少し馬鹿にする様に笑った。

「ではでは、次の街で私から手紙を送っておきましょう。速達にすれば魔法でちょちょいと送ってもらえますよ」

「……はい、お願いします」

 ミハルはそう言って、小窓を閉めるとまた席に腰を下ろした。馬の蹄が小刻みに地面を踏む音と車輪が軋む音が鳴っている。

 しかし、突然その音をかき消すように風が鳴った。車体は揺れはしない。それなのに嵐の中に突然放り込まれたように空気が揺れ動く不思議な感覚だ。

 ミハルは窓に張り付き外を覗いた。目の前を大きな何かがかすめていく。それは馬車の前に立ちはだかったようで、驚き前脚で中空をかいた馬がその歩みを止めた。

 ミハルは扉を開けて半身を馬車の外へと乗り出し、前方に立ちはだかるその姿を見た。

「ライニール様!」

 そこにいたのは青毛の牝馬にまたがるライニールだった。黒いローブを羽織っているが、下には戦士たる強固な装いが見えている。背には大きなアックスが担がれていた。ライニールらしからぬ華美な装飾のその武器は、おそらく魔女から与えられたものなのだろう。

「城へ戻れ、クソ兎」

 ライニールの低い声がミハルに届いた。

 彼の跨る馬はその足元にゆらゆらと揺れる青い炎を纏い、荒ぶる様に前掻きをしながら嘶いている。

「ですが、ライニール様」

「うるせぇ」

 ミハルの言葉を制するように、ライニールは眉根を寄せて舌打ちをした。ミハルがよく見るライニールの姿だった。

「英雄、ライニール様! これはこれは! 戦いに赴く気になったのですね! では、急ぎ魔馬車を手配していただき」

「必要ねぇ」

「え」

 御者席から降りて胸の前で嬉々として手を合わせていたレネは、ライニールの言葉にその目を瞬いた。

「こっちの方が速ぇ」

 そう言って、ライニールは青毛の背に大きなその手を押し当てて見せた。

「そんな……」

「お前はそのクソ兎を城まで送り届けておけ」

「はぁぃ……」

 魔馬車で帰るという期待を挫かれ、レネは肩を落としている。

「おい、クソ兎」

 呼ばれてミハルはハッと目を上げた。馬上の英雄ライニール・クライグのその姿は、陽の光の元ではミハルには眩しすぎる。思わず目を細めた。

「なんでしょうか、ライニール様」

 ミハルはかろうじて平静を装い、そう応えた。

「ひと月で戻る。それまで床でも磨いておけ」

 ライニールは手綱を引いた。青毛が体をのけぞらせ、その前足が中空を掻く。勢いをつけたようにその後ろ足が地面を蹴ると、周囲の空気が揺らめいた。

「わかりました! 待っています!」

 ミハルがそう発した時にはすでに、ライニールの姿は見えなくなっていた。

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