雪の降る日
第22話
ミハルは誰かのオレンジ色の記憶を辿っている。
一つの追蹤玉が持つ記憶は断片的だ。仕組みはミハルにもわからないが、気持ちが上手く同調すればするほどはっきり見えるのかもしれない。以前ピンクの玉を飲み込んだ時よりも、この追体験はリアルだった。
覚えのない場所だ。
赤みを帯びた石畳を踏み締めて、急な坂を上がっている。
ミハルの視界は記憶の持ち主のものだろう。その瞳は穏やかな光の中で、自らが抱えた荷物に目を落とした。
キャンバス生地の袋の中にはバケットやフルーツが入っている。上手く同調できていないのか音の記憶が読み取れない。その視界は、誰かに呼び止められたかのように少し揺れて振り返った。
ゆっくり見上げた先に立つその人を、ミハルは知っている。
--ライニール
愛し気に呼んだその声だけが、ミハルの耳に残った。
うっすらと目を開く。
視界には擦りむいた自分の手のひらが見え、後を追うように顔と手と、膝と体のあちこちに痛みが走る。
日が暮れ始めている。なおさら冷え込む空気の中で、ミハルはどうにか凍死を免れたようだ。
ゆっくりと手をついて体を起こす。痛いが、動けそうだ。咄嗟に飲んだオレンジの追蹤玉がミハルの吐き気を抑えたらしい。
ミハルは立ち上がり手元を見下ろした。
さっきまで見ていた追蹤玉の記憶を思い出す。あれはきっとあの人の記憶だと、ミハルは思った。
前を見る。見上げた木々の隙間に城の屋根が見えた。彷徨う羽目にはならなそうだ。早く帰って夕食の支度をしなければ。今日は特に冷えるから、温かいものを用意しよう。
ミハルは歩き出した。
ヒリスの気配は城に着くまで一度も感じなかった。帰ったのだろうか。
恐る恐る城の扉を開いて入り込むと、念の為内側から鍵を閉めた。
汚れた体と傷口を洗い、清潔な衣服に着替えてから鏡を覗くと、痛んだ目の上は大きく腫れ上がり紫色だ。口の端は切れて頬も同じく腫れている。大きく口を開いてみたが、歯は無事なようだった。
ミハルは温かいスープを作った。
ベシャメールソースとマカロニにたっぷりチーズとパン粉をかけたグラタンは、ライニールが戻ってきたらすぐにオーブンで焼けば熱々を食べられる。
けれど支度が終わっても、ライニールは戻らなかった。
ミハルはまた毛布にくるまり、玄関に座り込んだ。ヒリスが怖くて鍵をかけているが、これではライニールも扉を開けられないかもしれないからだ。
ミハルはまた扉の前で眠りについた。その夜も、ライニールは戻ってこなかった。
◇
目覚めると、家の中だと言うのに息が白い。
ライニールが戻ってきたら、暖炉の付け方を教えてもらおう、そんなことを考えながらミハルはフラフラと立ち上がった。
誰の気配もない城の中に、ミハルの小さな白い息が溶けていく。
昨日のオレンジ色の記憶をまた頭の中に思い浮かべた。
--ライニール
彼を名を呼ぶその声は、愛しいと、そう言っているかのようだった。オレンジ色の幸せな記憶だ。
ミハルは寒さで毛布を肩に巻きつけたまま、西の階段を登った。
ふらふらと廊下を歩き、ライニールの書斎の扉を押した。壁にはライニールの上着が掛かっている。ミハルはそれに手を伸ばした。毛布を床に置き、コートに袖を通す。大きくて重い。しかし、ライニールの匂いがするそれを、ミハルは胸元に手繰り寄せて鼻から下を襟元に埋めた。
そのまま裾を引き摺りながら部屋の奥へと進む。机の上に手を滑らせ、そして脇にある引き出しを開けた。カラカラと音を鳴らして、引き出しの中でいくつもの追蹤玉が転がった。たくさんのオレンジ色の中に、ブルーが二つ混ざっている。
「なんで、こんなにたくさん……」
ミハルはライニールが薬代わりにオレンジ色の追蹤玉を飲んでいるのだと思っていた。しかし、毎回ヒリスにもらう量から考えると、ここに残っているものが多すぎる。
「飲んでたんじゃなくて、集めてた……?」
いや、違う。と、ミハルは自らの言葉を頭の中で否定した。
「探してた」
ミハルは顔を上げる。
写真の中のその人は、乱暴に引き裂かれたままだった。
写真を飾るのは愛していたから、写真を切り裂くのは憎んでいるから。
傷ついたライニールの心の中で、今も二つの感情が葛藤している。失ったのが辛すぎて受け入れられずに憎むしかない。だけどそれでも愛していると、そういうことなのだろうか。
そして、ミハルは思った。ライニールが探しているのはこの人の記憶なのだ。何故この人が記憶を手放したのかはわからない。もしかしたらそれがライニールが写真を切り裂いた理由につながるのかもしれない。ライニールは記憶を手に入れることでしか、もうあの人と繋がれない。愛していたのに。
「俺が、殺した?」
ミハルは強く目を瞑った。そして頭を振った。どんなに思い出そうとしても何も思い浮かばない。当然だ。その記憶はもうミハルの中に無いのだ。
顔を上げた。汚れた窓から外が見える。
「雪だ」
そう呟いたミハルの息は相変わらず白かった。
ライニールのコートを着たまま毛布を引きずり、ミハルはまた暖炉の部屋に降りた。
灯らない暖炉を見つめしばらく考えたが、やはり火をつける勇気が出ない。窓の外に目をやると、さっきよりも雪の粒が大きくなったように見えた。
昨日の池でのことを思い出す。
ヒリスが持っていたオレンジ色の追蹤玉。その中にあの人のものがあった。ヒリスがそれを知っていたのか、知らなかったのか、知っていてライニールに渡さなかったのか、それともこれから渡すつもりだったのか、ミハルにはわからない。
ミハルは暖炉の前に毛布とライニールのコートを置いた。
自分の上着に袖を通して、昨日汚れた部分を手で払う。そしてまた靴下を二重に履いてブーツに足を突っ込むと、裏口から城の外に出た。
ヒリスのことは怖かった。傷もまだ痛むし、なんなら顔は昨日より酷く腫れている。それでも、ミハルはあの池に向かった。雪が積もる前に探したかった。ヒリスが拾い損ねたオレンジ色の追蹤玉が残っているかもしれない。
池に辿り着き、ミハルは地面に膝をついた。やはりしめっていて、じわりと膝に水分が滲む。雪はさらさらとしていて、今夜降り続けば明日の朝には積もっているだろう。
頬が地面につくほどに体を屈め、ミハルは追蹤玉を探した。
しかし、しばらく探してもそれは見つからなかった。ヒリスが全て回収したのか、はたまたカラスにでも持って行かれたのかもしれない。
すっかり手足の感覚もなくなり、ミハルはやむなく立ち上がった。
振り返ってあたりを見渡すと地面や木々はすっかり雪を被り、先ほどまで這いつくばったミハルの足跡や手形の上にさらに雪が降り注いでいる。
汚れた下穿きを見下ろしてから、悴んで赤らんだ手を擦り合わせ。ミハルは雪を踏み締め城へと続く帰路についた。
道すがら凍った草の上に降り注いだ雪を踏むとシャクシャクと小気味のいい音が鳴る。
顔を上げた。城は近い。屋根が見える。その一画に煙突がある。あの暖炉につながる煙突だ。
ミハルは目を見開いた。
煙突から煙が出ている。白い煙だ。ミハルがこの城に来て冬を迎えたのは初めてで、そこから煙が上るのを見るのも初めてだ。
悴んでもぎ取れそうなほどに感覚を失った足をどうにか押し出し、ミハルは走った。
裏口に辿り着き乱暴に戸を開ける。
調理場に足を入れた途端に靴裏についた雪が床に飛び散った。そして外気から逃れたミハルの頬は急に血を通わせたかの様にジワリと疼く。
うまく走れずバタバタと足音が鳴った。
調理場を抜け部屋に出る。暖炉の火が灯っている。部屋の中が暖かくて、ミハルは息ができなくなった。
暖炉の前で胡座を描いて座り込んだ大きな背中が、パチパチとなる薪を眺めていた。
「どこ行ってやがった、クソ兎。部屋くらい温めておけよ」
振り返らないまま、ライニールが言った。
ミハルは鼻から息を吸い込み、それをゆっくり吐き出した。
「つけ方がわからなかったんですよ。火事になって俺が丸焼きになったら、誰がライニール様のご飯の支度をするんです?」
ミハルはコートを脱ぎ、雪で濡れていたそれをハンガーに通し壁のフックに引っ掛ける。暖炉の熱が届くのですぐに乾きそうだ。
ミハルが脱ぎ捨てたライニールのコートはカウチの上に置かれていた。
ライニールは膝に毛布をかけている。ミハルはその隣に座って膝を抱えた。
「あ?」
ライニールの声がして、ミハルは隣を向いた。
「お前、なんでそんな顔ボコボコなんだ」
問われてミハルは頬を撫でた。完全に忘れていたが、隠せる傷でも無いだろう。
「転んだみたいなんですけど、吐いちゃったんで、わかんなくて」
「……ああ」
ライニールは訝しげに首を傾げながら、それでもそれ以上は追求してこなかった。
ミハルはライニールの膝にかかった毛布の端を手繰り寄せた。そして腰を持ち上げその中に膝を滑り込ませるとわざと体の半分でライニールに触れてみる。暖炉の火と触れた半身が温かかった。
薪が時折パチリと弾け、オレンジ色の炎がゆらめいている。
「クソ兎」
「はい」
「笑いながら泣くんじゃねえ、気持ち悪りぃ」
「はい……」
「クソが」
「ココアでも飲みますか? マシュマロありましたかね、棒に刺して焼くのはどうです?」
「ああ」
「じゃあ、用意してきますね」
ミハルは立ちがろうと、絨毯の上に手を置いた。しかしライニールの大きな手が、ミハルの腕を掴み引き止めた。
「まだいい。まだ、いらねぇ」
「……はい」
ミハルはまた腰を落とし、毛布を手繰り寄せる。
「ライニール様」
「あ?」
「おかえりなさい」
「ああ」
ライニールの袖が少し乱暴にミハルの目元を拭った。
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