第42話 ドーナツ
朝から揚げ油を用意している俺をソラちゃんが奇異の目で見てきた。
「朝から揚げ物? なに考えているんですか」
「失礼な。れっきとした仕込みだよ」
今日作るのはドーナツだ。急に俺が食いたくなった。すでに生地の準備はしてある。
「よし、油もいい温度になった。そろそろ揚げるか」
生地をリング上に型抜きしてから、油の中へ落とす。ふわふわと膨らんでいく生地に楽しくなりながら、ドーナツが揚がるのを待つ。
カリッと揚がったところで取り出し、粗熱を取る。
それから粉砂糖をまぶして、紙に挟んだ出来立てをソラちゃんに渡した。
「試食だ、食ってみてくれ」
「わーい!」
さっき
ザクッ、はむっ。
「うーーーん!!!!」
ドーナツを一口かじると、ソラちゃんがキラキラの笑顔になる。
「おいしーー! おいしいですこれ!!」
「だろ」
俺も自分の分を一口かじる。うん。表面はサクッとして生地はふわふわ。甘さもちょうどいい。うまいドーナツだ。
ドーナツの甘みが残っている状態で、コーヒーを口に流し込む。入れたのはいわゆるアメリカンコーヒーだ。おれは何故かこの組み合わせが好きで、ドーナツにはアメリカンコーヒーと決めている。
「くうぅ、疲れの吹き飛ぶ味だぜ」
急にドーナツを作ったのは、昨日店の仕事で遅くまで作業をしていたからというのもあった。暇な店といえど帳簿はちゃんとつけているので、溜まった伝票の整理に追われていたのだ。健康のため徹夜はしないと決めているが、まあまあ夜ふかしをして朝も疲れが残っていた。それで急にドーナツが食いたくなったのである。
俺がのんびりコーヒーとドーナツを味わっていると、あっという間に一個目を平らげたソラちゃんがおかわりをねだってきた。
「マスター、追加! 追加の試食ください!」
「ダーメ。一応売り物だぞ。今はこの一個だけ」
「ケチ! ずるい!」
「いつもは『たくさん作って売りましょう』って言ってるじゃないか」
まあ、ドーナツはついついたくさん食べたくなる魔性の食べ物だ。気持ちはわからんでもない。
罪の味だぜ。
「よーし試食は終わったし、じゃんじゃん揚げてくぞ〜」
「あと一個、一個だけ! 失敗作でいいですから!」
「ダメだって。ああ! 生地に手を出すんじゃない!」
しつこくねだってくるソラちゃんを必死に振り払いながら、俺はドーナツを作り続けた。
◆
シリウスのカウンターにはディスプレイ用のガラスケースが置いてある。俺はそこに完成したドーナツを並べていった。
ソラちゃんはまだ恨めしげだ。
「いいんですか〜。ドーナツ、揚げたてじゃなくなっちゃいますよ」
「時間をおいたらおいたで、生地に砂糖が馴染んでうまいんだよ」
揚げたてでも冷めたのも、俺はどんな状態のドーナツでも好きだ。
ガラスケースに張り付きそうな勢いでソラちゃんがドーナツを見ている。
「揚げたてが一番美味しいのに……もったいない。こうなったら私がお小遣いで全部買って……」
「太るぞ」
ソラちゃんが飢えた獣と化している。
「よし、と。これでドーナツは並べ終わったな」
「ガルルル……ドーナツ、タベタイ、タベタイ……」
「どうどう」
なんてソラちゃんとアホなやり取りをしていたら、カランコロンとドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませー!」
すぐにソラちゃんがかわいい店員モードになってお客さんを出迎える。こういうところの切り替えはさすがだな。
入ってきたのはヘンリーだった。珍しく目の下にくまを作っている。スーツもどこかくたびれた状態で、全身から疲労感が漂っていた。
「すまないギルバート、今日は座ってられないんだ。テイクアウトでコーヒーを一つ貰えるか?」
「はいよ、少し待っててくれ。どうした? 随分疲れてるみたいだが」
「王都に違法薬物を持ち込もうとしている壁外マフィアがいてな。もう2日も張り込み中なんだ。すぐ現場に戻らなければならないんだが、せめて眠気を覚ましたくて寄らせてもらった」
「おまわりさんは大変だね。お疲れ様」
俺は入れたてのコーヒーをテイクアウト用のカップに入れて渡す。そこでふと思いついて、ドーナツを5個ほど箱に詰めて一緒に渡した。
「ほいコーヒー。ついでにこれはサービスのドーナツだ。張り込みの合間に食ってくれ。甘い菓子だが腹にたまるぞ」
「ドーナツ?」
ヘンリーもドーナツは知らなかったらしい。ちょっと不思議そうな顔をしたが、素直に受け取ってくれた。
後ろでソラちゃんがあああーっ! という表情をしているがスルーする。
「ありがとう。手が空いたときにいただくよ」
「ああ。張り込みがんばってくれ」「がんばってください!」
俺とソラちゃんの二人でエールを送る。ヘンリーも疲れた顔で小さく笑ってくれた。
「任せてくれ。2週間前から追ってたホシなんだ。必ず捕まえる」
会計を済ませると、ヘンリーはキビキビした足取りで去っていった。2日も徹夜しているというのにタフなやつだ。
ソラちゃんは、どこから出したのかハンカチをくわえ涙目で見送っていた。
「ドーナツ……ドーナツを5個も……。ヘンリーさん羨ましい……」
「いやヘンリーは体力仕事だから」
この日、ソラちゃんの欲望とは裏腹に、ドーナツは全部売り切れた。シリウスには珍しい商売繁盛の日だった。
◆
数日後。
再びヘンリーが店にやってきた。今度は落ち着いて席に座り、コーヒーを注文する。
「例の件だが片がついたよ。問題のマフィアはまとめて摘発できた」
「そりゃよかった。平和が一番だからな」
「ああ。ところで……前にもらったドーナツまだあるか?」
「ドーナツか? あれは俺が気まぐれで作った商品だから、今日はないぞ」
それまでどこかそわそわしていたヘンリーが、一気に絶望の表情に変わる。
「ないのか……」
「わかったわかった作る! すぐ作る! 仮にも警視総監がそんな重大犯人逃がしたみたいな顔しないでくれ!」
ヘンリーの顔がぱあっと明るくなる。
「そうか……いや催促したみたいで悪いな。あの日、ギルの作ってくれたドーナツがあまりにおいしくてな。張り込みの疲れも吹き飛んだ。あの味が忘れられないんだ」
「そう言ってもらえるのはうれしいけどさ」
前世で聞いた話では、アメリカの警官はドーナツ好きらしいが、ヘンリーもそうなんだろうか。
「生地を準備しなきゃいけないから時間かかるぞ。待てるか?」
「ああ。今日はこのために仕事を終わらせてきた」
「楽しみにしすぎだろ」
俺は苦笑しつつキッチンに入る。
「ドーナツを揚げると聞きました!」
「ソラちゃんはほんとすぐに食いついてくるなあ!?」
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