第10話 夜はまだまだこれから、なのにな
ライナス王子の操る鋏が、私の指の頂点を優しく撫でていく。
私の身体から切り離された爪の端がパチンと飛ぶ。すかさずライナス王子が捕捉。
……王子に爪を切らせる平民がこの世のどこにいると言うのか。
我ながら呆れ返るばかりである。押し切られた、などと言い訳にはなるまい。
平民の心中もなんのその。ライナス王子は楽しげに、鼻歌まじりで私の爪を整えていく。
安定感抜群の手の動きに圧倒される。手先の器用さについては、鍵開けスキルからしてお墨付きだ。
「ねえミヤ、爪が終わったら次は髪の毛をアレンジしてもいい?」
「これから寝るんですよ、ライナス王子。すぐ解くことになってしまいます」
「なら明日の朝! ね、リィナに会いに行くんだから正装ってことでさ」
平日はほぼ毎日、王子と私服でお話ししているのに……?
私達の身のない会話に呆れたのか、ホセ氏は既に就寝していた。と言っても、立ったままだ。
異様な物音があればすぐ起きる、とも言っていた。これが訓練された王族護衛兵か、と感嘆するばかりである。
「……朝、髪の支度をされるのでしたら、早寝しなければ。王子、爪切りが終わりましたら寝ましょう」
「え〜、夜はまだまだこれから、なのにな。でもミヤが寝ちゃうなら意味ないから、俺も寝るよ」
不服だ、という声色を出しながらも。変わらず上機嫌にライナス王子は私の爪を整えていく。
――なんとなく、無言。爪を切る鋏の音もささやかで、仄かな静寂が私たちを包む。
夜の音だ、と思う。
「……ライナス王子」
「ん? なぁに、ミヤ」
甘ったるい返答に耳をくすぐられたような心地。
「その……改めてお礼を言っておきたくて。わざわざ助けてくださったんですよね、あの日……」
「あの日?」
「バーンズ元教授の研究室に、閉じ込められていた時です」
昼間のロベルト王子との会話の中で。
ライナス王子は確かに仰っていた。『鍵を開けて助けに入って』と。
そうかも、とは思いつつ。追求は出来なかったけれど。
やはり。わざわざ、助けてくれたんだ。ライナス王子は、私のことを。
「な~んだ、当然じゃん。ミヤの姿が見えなかったら、そりゃ探しに行くよ」
「! 探してくださっていたのですか」
まさか、そこまでしてくれていたなんて。
もしもライナス王子が私を探してくれていなければ、あの後、研究室内でどうなっていたか分からない。
改めて命の恩人である。何かお返しをした方がいいな……。地方の銘菓でも取り寄せようか。
ライナス王子の食事の傾向を見る限り、甘党であることに間違いはない。それならルドヴィング家領地の名産、プラムのパウンドケーキはどうだろうか。
プラムはお嫌いではありませんか、と問いかけるために顔を上げると。
温和な笑顔を浮かべたライナス王子と目が合った。
やんわりと細められた瞳は、心底愛おしいものを見つめるように、慈しむような温度を湛えていて。
――この目で見つめられるべき相手は、私ではない。その事実を、思い出す。
「ね、ミヤ。俺はね、例えミヤがどこにいても。ミヤを見つけ出すよ」
漠然と。それは確かなのだろうな、と思う。
ただ、ライナス王子がこれまで見つけ出してきたのは私ではなく――愛猫、ミミンだ。
だから死を看取るまで、やれたのだ。野良猫と王子……そんな曖昧で、すぐに断ち切れそうな関係でも。
ミミンに向けられた睦言に、返す言葉もなく。
当初の予定通り、プラムが好きかどうか聞き返すので精一杯だった。
パチン、と私の指を離れた爪の先を、珍しくライナス王子が捕り損ねた。
*
翌朝。案の定と言うべきか、夜更かしに逆らえず寝坊したライナス王子は。
私の髪の毛をセットできず家を出ることを、しきりに嘆いていたが。
私としては少し、助かった。まるでライナス王子の特別であるかのような、偽りの称号を頭に据える気持ちではなかったから。
*
ホセ氏に連れられ、神学部棟の講義室へ向かう。
大学構内の礼拝堂、懺悔室ご担当ということで嫌疑がかけられているリィナ様が受講されている講義。
その授業終わりに、リィナ様と接触を持つ算段だ。
リィナ様に疑われないように。しかし、出来得る限り、麻薬取引について次に繋がる話を引き出せるように。
会話には細心の注意を払わなければ。
昨日は酷く狼狽していたホセ氏であったが、既にその欠片も残っていない。
つくづく優秀な人材である。ロベルト王子も鼻が高かろう。
ロベルト王子ご自身の婚約者であるリィナ様に恋慕している点に目をつぶれば、だろうが……。
「リィナ様、ご無沙汰しとります」
講義室を後にするリィナ様に、よどみなくホセ氏が話しかける。
リィナ様の、両耳の高さでツインハーフアップ状に縛られた赤髪が。振り向きざま一瞬ふわりと浮き、すぐにペタンと落ちる。
肩に届く長さの、サラサラとしたストレート。手櫛を入れても、ひとつの引っ掛かりもなさそうだ。
リィナ様の無表情が、ホセ氏を認識した途端だろうか、ぱあっと華開く。
長いまつ毛に縁取られた大きな瞳が、よりいっそうパッチリと広がった。
「――ホセ! 久しいじゃない! もっと私に会いに来なさいよ」
小走りに駆け寄るリィナ様の頬が、走る前から既に紅潮している。
ホセ氏を見上げる瞳はきらきらと真昼の太陽のように輝いていて。
……なるほど。ライナス王子が『気まずい』と仰った理由も、分かる。
ホセ氏への好意を隠そうともしないリィナ様。そして平静を装いながらも、喜びを抑えきれていないホセ氏。
どこからどう見ても。好きあっている二人ではないか……。
リィナ様とロベルト王子の婚約は政略に重きを置かれているから、当人同士の気持ちは無関係、とはいえ。
実の兄の婚約者が、兄以外の者と愛しさを大いに込めて戯れる様子を見るのは。
相当、気まずかろうな……。
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