第9話 もしかして、湯あたりですか

「ホセ、当てようか、きみが容疑者として思い浮かべた人物。兄貴の許婚、リィナ=ヘリナ・アーリラだろ」


 ぽたぽたと雫がライナス王子の髪の毛を伝い、重力に従うように床へ落ちていく。

 風邪をひいてしまうじゃないか。


 勝手知ったる我が家の棚より慌てて用意した大判のタオルを、ライナス王子の髪の毛へ押し当てる。座ってくれていて助かった。

 ……一瞬、ライナス王子の肩がビクリと浮いた気がした。

 声、掛けてから拭くべきだったか。拙速だったな。


「失礼します、ライナス王子、シャワーを浴びたなら髪の毛を乾かしてください」

「……ん」


 意外にもライナス王子は何も言わず、大人しく身を預けてきた。拭きやすい。

 長く伸びた襟足の毛に丹念にタオルを押し当て、水気を吸い取る。

 背中部分のシャツが既に少しだけ濡れていた。これもタオルで拭きとれないかな。


「や、お二人とも、重要な話の最中なんですけども……」

「いいでしょ、もう結論は俺が話したじゃない」


 ホセ氏が不服そうに片手を挙げ抗議したが、風呂上がりのライナス王子にはのれんに腕押しだ。

 

 私としても、まずはライナス王子の髪の毛を拭き終えてからにしたい。

 耳の上の髪の毛を軽く手繰り寄せるように持ち上げ、タオルで包んでいく。引っ張らないように気を付けながらギュッと押す。

 さらりさらりと髪の毛がこぼれ落ちれば、また次の髪の束を掬う。

 

「気持ちいいな……」

「普段のお風呂上りはどうされているのですか?」

「え? そのまま」

「風邪をひかれますよ」


 前髪の、紫色にメッシュが掛かった部分を拭くべく持ち上げる。

 髪の毛が上がり顔全体が露になったライナス王子が、いたずらっぽく笑った。


「じゃあ、次もミヤが拭いてよ」

「……また、機会があれば、喜んでお受けします」


 ライナス王子がつまらなさそうに唇を尖らせた。

 毎回髪の毛を拭くなど無理であるのは道理なのだから、ご機嫌斜めになられても困る。

 

「あっ、そうだ! この後ミヤも風呂に入るだろう? 俺が髪の毛拭いてあげるよ!」


 ……平民が、王子に髪の毛を拭かせるなど、あってもいいものだろうか。

 それを言ってしまうとそもそも、平民の家に王子が(一泊とはいえ)寝泊まりというのも、問題がある気もするが……。


 返答に迷っていると。会話の間に生まれた隙間に、ホセ氏が入り込んできた。


「王子、もうそのままでええんで答えたってください。何故リィナ様を、麻薬取引の容疑者であるとお考えに?」


 ライナス王子がホセ氏に向き直ることなく、視線のみを動かして応える。

 ……おかげで拭きやすさが保たれている。


「いや? 俺は彼女を容疑者と考えたわけではないよ。ただホセ、きみが彼女を思い浮かべた。それを察しただけだ」

「さよですか……」


 軽く俯いたホセ氏に追い打ちをかけるように、ライナス王子が続ける。


「だってホセ、きみ、リィナのこと好きだもんねえ、色恋の意味でさ」

「! ラ、ライナス王子ッ」

「従者が雇い主の許婚に恋! 内心の自由は勝手だけど、もっと隠した方がいいよ」

「……精進します」


 お、おお……。あのホセ氏がタジタジである。

 第一印象の飄々とした雰囲気はどこへやら、だ。


「で? リィナのことが好きで好きでたまらないホセ、きみには何かあるんだよね? リィナに嫌疑を抱いた理由がさ」


 リィナ=ヘリナ・アーリラ。

 教会の絶対権力者なる大聖猊下たいせいげいかの、娘。教会と国の結びつきを強めるため、将来の王妃となることが約束された人物。彼女の兄は次期の大聖猊下だ。

 国の中枢に密接に関わっている彼女が麻薬取引と繋がりがあるとしたら――国を挙げての一大事である。


 ホセ氏の表情から、疑念を口にすることについて、いくばくかの躊躇が見て取れた。

 彼もまた信じたくない、疑いたくすらないのだろう。リィナ様と麻薬の関係を。

 

 しかしそれでも、真実を明らかにするためには必要なことだと、言い聞かせるように目を閉じて。

 観念したと言うように。ホセ氏が長い息を吐き出した。


「礼拝堂にある懺悔室、実態としてはただの大学生向け相談室ですが。懺悔室ちゅう名目上、誰がお話を聞かれるのかは非公開になってますやん。あれ、ご担当リィナ様なんですよ」


 麻薬取引現場となってしまっている、礼拝堂。

 実際に訪れたことこそないものの、室内の様子は大学構内に貼られた案内図より、大まかには理解している。

 

 大学内に存在するその礼拝堂は、大学付属設備という扱い上そう大きくもなく、二部屋しかない。

 長くもない廊下の先にある礼拝室。廊下の隣には、小部屋となる懺悔室。

 麻薬取引を行う場所として適任なのは当然、懺悔室であろう。

 

「へぇ〜。一回利用したけど、随分と声色を変えられるんだねえ、リィナ。まるで男声のようだったよ」


 ライナス王子もいつぞやの女装の際、どう聞いても美しい女性としか思えない変声を用いていたな。

 意外と声色を変えることのできる人間は多いのかもしれない。


「ライナス王子、いったい何を相談されたんで……?」

「えーっと、ミミン……ああ、猫ね。猫が食べられる食べ物について」

「ああ、リィナ様は動物がお好きですからねえ」


 リィナ様の話題を話すホセ氏の口が綻んでいる。これは確かに、べた惚れだ……。

 ホセ氏を見つめるライナス王子もまたニヤニヤと口角を引き上げていた。面白がっているな。


 ライナス王子の髪の内側に、そっと手を差し入れる。

 濡れているところは……なさそうだ。しかし柔らかな髪の毛である。猫っ毛というやつか。

 ライナス王子がくすぐったそうに肩をすくめた。


「ミヤ、もうちょっとそのまま。髪の毛を撫でていて」


 ……乾き具合はもう、チェックできたんだけどな。

 まあ、仰せのまま、ここはライナス王子の命に従うか。


 ふー……と、ライナス王子が長く息を吐きだす。


「何にせよ、さ。現状の手がかりが礼拝堂だけである以上、リィナには話を聞かなきゃだよね。ホセ、ミヤを連れてリィナに会ってきてよ」

「ライナス王子は? 行かれへんのですか」

「俺はパス~。気まずいじゃん、兄貴の許婚なんてさ」

「ライナス王子も居心地の悪さやら気にしはるんですね……」


 ホセ氏の不敬な発言が、余りにもシレッと為されたものだから。

 少し笑ってしまった。……私も不敬罪にあたるだろうか。

 ライナス王子は法学部だから、訴えられたら負けてしまうな……なんて、より不謹慎なことを考えながら。


 話題の渦中、ライナス王子へ目線を向ければ。

 目を点にし、呆気に取られたように。瞬きもせず固まっていた。


 ――じわりじわりと、頬に赤色が広がっていく。


「ライナス王子、もしかして……湯あたりですか? 今お水を持ってきますので」

「ミヤ、あー、うん……」


 ライナス王子が手の平で顔を覆いつくす。気分が悪いのだろうか。急ごう。冷えた麦茶があったはずだ。

 そもそも風呂上がりには水分補給が必要不可欠なのだから、最初から用意しておけばよかった。

 

 背後からホセ氏の笑い声が聞こえた。なんだろう。ライナス王子と何か会話されたのか?

 意外と相性がいい二人なのかもしれない。そう思いながら、台所へと急ぎ足を踏み入れた。

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