第3話 昼食代なんて大した金額じゃない

 知らない人だった。たまたま私が、彼のすぐ近くを歩いていた、それだけだ。

 音もなく身体が弛緩し、一つの抵抗も見せず崩れ倒れ落ちる瞬間を見てしまった。

 慌てて駆け寄る。幸いにもここは大学構内。医学部生に引き渡せば通院を含め、適切な処置を受けることは容易だろう。


 大丈夫ですか、と口から出かけた言葉が引っ込んだ。

 倒れ込んだその人のものと思われる眼球が、地面に転がっていた。


 *


 私のすぐ後に来てくれた医学部の男性も、倒れ込んだ人の状況を見るなり絶句していた。しかし即座に使命を思い出したのか、懸命な処置を施していた。

 私はその医学部生に指示されるがまま、協力者集めに奔走した。


 倒れ込んだ人の、異様に着込まれた長袖の下は。

 眼球の剥離以外にも、身体のあちこちに斑点ができており。

 更には一部、腐敗……しているようにも見えた。

 つい先程まで歩いていたのが嘘のようだ。


 詳しいことは分からないが、しばらくのち、倒れ込んだ人が担架に乗せられ運ばれていった。

 私の呼びかけに応じてくれた医学部と思しき女性に声を掛けられた。気を病まぬように、と。

 医学の道に精進する方々からしても、異様な病状だったということだろうか。


 *


「災難だったね、ミヤ」

「ライナス王子はずいぶんと耳がお早いようで」

「大学中持ちきりだよ、ゾンビが出た! って」


 ゾンビ。我が国から見た某異教に伝わる、腐った死体を呼び表す名称。

 神学部の連中が怒り狂っていそうな噂だな。


「中には、商人の娘が『ゾンビ化を施す呪具』を仕入れたんじゃないか! なんて話も」


 父の商売をなんだと思っているんだ、その世間知らずは。

 将来を担う貴族・騎士、或いは聖職者の卵がそれでは、我が国の未来が思いやられる……。


「安心して、ミヤ。噂の出所はもう突き止めたから」


 何一つとして安心材料がない。

 方法はともあれ、危害を加えようという宣言ではないか。


「ライナス王子。その方との接触はお控え願えますか」

「どうして? ミヤはさ、俺の呪いを信じていないんだよね」

「はい」

「なら、俺が噂を流布した人物に接触して、その人物が俺に害を与えるように動いたとしてもさ。問題ないんじゃない?」


 ……やはり、そんなことを考えていたのか。

 どの角度から考えても問題大有りである。


「私はライナス王子が傷付くことを望んでおりません」


 えっ、と一音だけがライナス王子の唇からこぼれ落ちた。

 しばしの静寂。沈黙。呆然としたライナス王子の表情。

 ――そんなに、驚くようなことか? 他者の平穏を祈ることが。


 多少の間を置いて、ようやく気を取り直したライナス王子が軽く息を吐いた。

 

「別に、いいのに。今更だし」

「傷付くことに過去の事象は関係ありません」


 ライナス王子は、うーん、だの、そうかなあ、だの。

 特に意味のない言葉を羅列した後。


「確かに、噂のおかげで、俺は今まで以上にミヤを独り占めできるわけだし」


 ……噂があろうとなかろうと、私が大学内で浮いた存在であることに変わりはない……とは、言わないでおく。

 せっかく納得しかけているわけだし。意味不明な理由ではあるが……。


「でも、俺にはこれしかないわけで、本当にそれでいいのかなあ」

「いいんですよ、大丈夫です」


 指示語ばかりで何を言いたいかよく分からないが、とにかく賛同しておく。

 誰も傷付かない、傷付けられない。それが一番に決まっている。

 私は平和主義なのだ。静かに数学をやるにあたって、平和であるということは、この上ない環境なのだから。


 *


 講義終了後、バーンズ教授より声を掛けられた。

 ああ、雑用か。また資料運びだろうか。


「私の研究室へ来なさい。しばらくは空き時間だよな?」


 予想に反した命令だった。私の都合を聞かれたのは初めてだ。

 無論、バーンズ教授の講義後は空き時間であるからこそ、これまで教授命令を完遂できていたわけだが。


 研究室に入るなりバーンズ教授が扉に鍵を掛けた。

 ……ば、売春を持ち掛けられる、とかではないよな……?

 それは考慮外だった。私と対峙するバーンズ教授の瞳は、汚物を視界に入れてしまったかの如く常に歪んでいる。私に触れるのも嫌なのだとばかり。

 

 ともかく、自身の迂闊さに嫌気が差す。

 隙を見て逃げ出すことは……難しいだろうか。バーンズ教授は大柄の(と言えば聞こえはいいが、つまるところ肥満の)男性だ。狭い研究室で、扉の前を占拠されたら通り抜けは困難。

 こうなったら、背後の窓を割る方法を思案すべきか……。


「ミルトン・エッジワース。君の父の名で間違いないか」

「如何にも、エッジワース家長女、ミヤ・エッジワースと申しますが」


 エッジワース社は我が国の商社の中でも目立つ存在だ。そしてエッジワース代表である父は同時に、商人ギルドの代表でもある。

 だから父の名をバーンズ教授が知ることはそう難しくもない。名を確認する意図は分かりかねるけれども。

 

 父を人質にしている? いや、それはないだろう。商人ギルド第一人者として働く父に、一人になるような隙などありはしないはずだ。

 そもそも、人質を取るくらいなら、私を抱くよりも娼婦を買う方が早い。


「ミヤ・エッジワース。君には父、ミルトンを我が元へ連れて来てもらいたい」

「……商売ですか? それなら、商人ギルドへ依頼されては。父は商人の鏡です。例え深夜でも駆けつけますよ」

「証拠を残されては困るのだ」


 証拠。ごく最近も、証拠を残さない方法について話をしたな。

 そうだ、ライナス王子だ。

 曰く、呪いの力を使えば証拠は残らない、と。(呪いなんて存在しないのだから、証拠がないのも当たり前だ)


 なぜ証拠を残したがらないのか。

 単純明快だ。後ろめたいことを行うからに他ならない。


 法に触れる可能性も高いだろう。そんな取引に父の会社を巻き込むわけにはいかない。

 だから、返答は既に決まっている。


「お断りいたします」

「拒否できる立場だとでも? ミヤ・エッジワース」

「単位の一つや二つ、お好きになさればいい」


 無論、バーンズ教授に不可を言い渡されれば退学であるということは分かっている。

 それでも譲れないものはあるのだ。

 

 幸いにして成績が言い渡されるのは期末。今期を最後に退学としても、まだ時間はある。

 その間に好きなだけ数学をさせてもらうことはできるのだ。予定より、数学に使える時間が短くなっただけ。

 名残惜しいなどと、言ってはいられない。


 ふわりと、意図しない人物が脳裏に浮かんだ。

 ライナス王子。

 そうか。退学となれば、ライナス王子ともお別れか。

 ――いや。別れの時が、早まるだけの話だ。仕方がない。


 今は先のことよりも、目の前のことに集中すべきだ。

 バーンズ教授の企みを払いのけたとて、物理的な状況は何も変わっていない。

 研究室唯一の扉はバーンズ教授が占拠を続けたままである。


 やはり窓か? 窓から逃げるしかないのか。

 窓を割れるもの、何かないだろうか。とてつもなく重い本を放り投げたら割れないかな……。

 バーンズ教授は超巨漢だ。圧こそ強いものの、機敏さには欠ける。投げるべき本に狙いを定めて一気に決めれば、追いつかれないだろう……多分。


 と、なれば。気付かれないよう細心の注意を払いながら、室内を見渡す。

 ふと。机上に、不自然な一帯が存在することに気付く。


 バーンズ教授の研究室は全体を通して暗い色で構成されている。

 机、本棚、本の背表紙、全てがそこはかとなく、くすんでおり――まあ、研究室など大抵どこもそんなものだが。


 しかし。一か所だけ、バーンズ教授の研究室には。

 色とりどりの原色が散らばる場所があった。

 その原色のかたまりは、まるで錠菓(ラムネ)のような形をして。

 無造作に透明の袋に入れられている。あれは。


「ミヤ・エッジワース! 何を見ている!」


 バーンズ教授の怒声が耳を震わせた。まずい、バレた。

 ……と、思っているのは、相手も同じようだ。

 原色で彩られた、ラムネのような物質。それを見られて焦るバーンズ教授。

 

 間違いない。――麻薬だ。


 父との接触は、もしや麻薬の流通を目的としたものか?

 それならば証拠云々の話も合点がいく。


 しかし、バーンズ教授の企みが分かったからと言って、危機的状況であることに変わりはない。

 むしろ悪化している。

 麻薬の存在を知られたことにより、バーンズ教授は我を忘れ興奮状態に突入してしまったようだ。

 瞳孔が開き切っており、頭に血が上ったのか頬が真っ赤になっている。


 ライナス王子の青白い肌とは正反対だ。

 ――なんて、そんな呑気なことを考えている場合では。

 先程から、妙にライナス王子の顔がチラつく……。


 ……雑然とした思考をかき消すように。

 音が響き渡った。――カチャリと。


 鍵の、音。この状況下で?

 扉の前にはバーンズ教授。しかし、バーンズ教授に鍵を開ける動機はないだろう。

 ならば、一体なぜ。……誰が?


「バーンズ教授~。レポートの提出期限、今日でしたよね」


 まるで今までの経緯が全て存在しなかった、ことに、なったかのように。

 いかにも平穏、日常の面を引っ提げて。

 私に非・日常を運んできた男が、扉から当然のように顔を覗かせた。

 鍵なんてかかっていませんでしたよね? と言わんばかりに。


「ラ、ライナス王子殿下……」

「いやだなあ教授、大学ではただの一生徒なんですから、気軽にクン付けで呼んでくださって構わないのに」


 ひらり、と一枚の紙をライナス王子がバーンズ教授に手渡す。

 バーンズ教授の表情が一瞬、歪んだ、気がした。

 

 しかし――どうやらバーンズ教授も、ライナス王子を誤魔化すためだろう、ライナス王子の作り出した『日常』に乗っかることにしたらしい。

 ライナス王子が鍵開けしたことには触れず、鍵がかかっていた事実などまるで無かったかのように。


「はは、提出期限は明日ですよ、早期提出とはさすが成績優秀者の鏡ですな」


 と、見え透いたおべっかを返した。

 前日提出のどこが早期提出なんだ。


 バーンズ教授が廊下へ手を差し出すように向けて、ライナス王子の退出を促す。

 レポート提出も終わりましたし、さあどうぞ、との声が今にも聞こえそうだ。

 けれど。


「あれぇ、ミヤ!」

「は、はい」


 早く出て行け、というバーンズ教授の無言の圧力を。

 完全に無視したライナス王子に声を掛けられ、少し慌てる。

 

「こんなところで、奇遇だねえ? 教授に何か用件でも?」


 ――渡りに船、だったのだ、ライナス王子の訪問は!

 凍って固まり切っていた指先が、脳が。ライナス王子の呼びかけで、解けた気がする。


 私もバーンズ教授と同様、乗っかるしかない。非日常の王子が連れてきた『日常』に。

 バーンズ教授の研究室から脱する方法は、他にはないように思われた。


「用事はたった今終わったところで! ライナス王子、よければ昼食をご一緒させていただけませんか」

「……最高のお誘いだね、ミヤ」


 ゆるやかに微笑んだライナス王子の笑顔には珍しく、違和感がひとつも存在しなかった。

 本当に心の底から微笑んだかのような、自然に緩まれた口角。

 慈しみに包まれたかのように閉じる瞳は、なだらかなカーブを描きながら降りる眉毛の角度と釣り合っている。


 ライナス王子の表情は誰がどう見ても、肯定の返事でしかない。

 それは当然、バーンズ教授が容易に突き崩せるものではなく。

 ――認めるしかないだろう。私が、ライナス王子に付き従い、昼食のためにこの場を出ていくことを。

 

 バーンズ教授は、ライナス王子が提供した『日常』に乗ったのだ。

 そうである以上、私を無理に引き留める言葉を発することはできない。


 予想通り。バーンズ教授の研究室より退出することを、引き留められはしなかった。

 背後から痛いほど視線を感じるも、当然応えない。命は惜しい。


「ミヤ、何食べようか? 学食? それとも外に食べに行こうか」

「ライナス王子」

「うん?」

「ありがとうございます」


 一瞬、ライナス王子が呼吸を止めてから。


「ミヤ、礼には及ばないよ。昼食代なんて大した金額じゃないんだから」


 ……王子に昼食を奢らせる平民がいてたまるか!

 自己満足で礼を伝えたのは悪かったけれど、それにしたってもう少し勘違いのしようがあるのではないか。


「ライナス王子、そういう意味ではありません。昼食代は自分で支払います」

「せっかくのデートなんだから、奢らせてくれてもいいのに」


 いつの間にかデート扱いになっているし。

 まあ、いいか……。

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