第4話

 つながれなくなった手が、タロウのからだの横で揺れている。エーコもケンケンも黙り込んでしまった。さっきまで手をつないでいた。だから二人を善人だと信じきっていた。


 向かう場所が決まっているみたいに二人の足取りは明確だった。それが何だか寂しかった。


 虎屋横丁の入口にさしかかると、果実の甘いにおいがした。通りにはみ出るくらいの果物を並べた青果店があった。誰もが寝静まったようなまちでこの店だけはタロウたちに光を投げかけていた。


 店先のよく熟れたデラウェアが夜の色をしている。その隣には一輪のホオズキがついた枝が何本か生けられて、手招くように揺れていた。


 エーコがホオズキの一本を手に取り、タロウに渡した。


「きれい?」と訊きながら、またアーケードを先に進んでいく。「それとも、怖い?」


「わかんない――」


 街灯の明かりが途絶え始めた。暗闇に向かって駆けていくと、持っていたホオズキがほのかに灯り始めた。


「――だけど、すこしあったかいよ」


 タロウはエーコに追いつくと、開いた方の手でエーコの手を取った。


「ねえ、このまちにたどり着くまで、怖かったでしょ?」と、少女が言った。「寂しかったよね……こんなこと許せなかった、それを、許せる?」


 少年は少女を見上げた。


「なにか……」


 続く言葉を探した。怒ってるの? いや、ちがう。そうじゃない。怒りや悲しみ、寂しさに見える彼女の感情は、温度を失った後の冷たさ。「シン」と鳴るようだ、とタロウは思った。


 ホオズキの明かりだけが足元を照らしていた。右手に持ったホオズキの温もり、左手でつないだエーコの手の冷たさ、その間で、


「ぼく、こわくて、かなしかったけど、でも、たのしかったな。こういうのって、おかしいのかな」


 と、タロウは言った。


 小さな太陽のような赤い光に導かれ、やがて三人は並木の通り――定禅寺通に出た。雲の間から、いつしか月が出ていた。


 車道に向かってホオズキを提げた影がいくつも列をつくっていた。列の先で影がホオズキを振る。すると無線タクシーが音もなく現れ、影を乗せては消えていく。みな押し黙ったまま、順番を待っている。宙を仰ぐものもいる。ケヤキの並木の美しさ――青々と月光を受けてさざめいている。いのちがある。植物には永遠の生がある。それをうらやんでいるようにも見える。


 無数の影と影がゆっくりと列を進み、何台もの無線タクシーが現れは消え、現れは消え、後部座席の扉が開けば、


 ――セブンティセブン、ポイント、ワーアーン――


 ――午前レイ時になりました。ミナサン、いかがお過ごしですか? 僕の声はあなたに届いていますか? 今日はどんな一日でしたか? いい一日だった? そうでもなかった? もしそうだとしても、今、このときだけは全部忘れて僕の声に耳を傾けて。そう、その調子。別に、励まそうっていうんじゃないよ。だけど、放っておいている、そんなわけでもない。僕はいつでもここにいる。この場所から声を届けようとしている。ミナサン、僕の声はあなたに届いている?――


 と、深夜のラジオが漏れて聞こえてくる。


 エーコはタロウの手を引いて、手近な列の後ろにつき、順番を待った。タロウがこの影たちを怖がるかもしれないと思っていた。人の影は確かにブキミで、妙に静かだった。ラジオから聞こえる声だけが夜道に響いていた。


 タロウは、しかし、怖がる様子もなく、エーコの手をやわらかく握り返していた。持っていたホオズキが揺れて、明かりが揺れて、だから影が揺れた。


 タロウと同じ年頃の小さな影もあって、その影は輪郭がうまく結ばれていなかった。付き添っている大きな影が、少しイビツなかたちをしたその子を抱き上げ、音もなく車中に消えていった。


「おかしくなんか、ないよ」


 と、エーコは言った。


「え、何が?」


 驚くケンケンと、嬉しそうに微笑むタロウにうなずいて応える。


「私にも、正反対のことが同時に起きたみたい」


 並木が夜風を受けて、また輝いた。内から鼓動して、脈を打つような美しい光だった。じんわり灯っていたホオズキがその光に呼応するようにゆっくりと鼓動した。


「帰ってもいいかなって、そう思ったの」


「ほんとに、いいのかよ」


「いいんだよ……きみは?」


「……僕はまだ、このまちにいるよ」


「そっか」


 不安げにまばたきを繰り返すケンケンに向かって、エーコは笑いかけた。


 エーコの頬が、ぐーっと持ち上がって、温まり、熱を帯びる。


 許せないと思い続けている自分を許すとき、朝日が昇るような気がした。


「……バイバイ」


 そうつぶやいて、小さく手を振った。


 エーコとタロウの前にタクシーがとまり、扉を開く。乗り込むと車内は、エーコが何年も前に使っていた香水に似た、甘いにおいがした。


 タロウは一度だけケンケンに抱きついて、その後でエーコに続いた。深夜ラジオは、もう終わってしまったのか、車内は静かだった。音もなく扉が閉まり、音もなく走り出す。


 後部座席から振り返りながら、またこのまちにスマートフォンのカメラを向けた。シャッターのボタンを押そうとしたけれど、ケンケンの姿は今ではもう、ただ一つの影となり、そのうちにケヤキの木々にまぎれてわからなくなった。


 ケンケンは赤いテールランプが見えなくなっても、まだその場を離れないでいた。その後も、何台も何台もタクシーがとまり、そして、走り去っていった。


 キャンパスノートを取り出し、不思議と浮かび続ける言葉を書きつけた。そうしているうちに、抗いがたい眠気が色のないさざ波のように訪れたから、やがて少年は、目を閉じた。


 ――朝が青く始まりかけていた。

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午前レイ時の、影々 鹿ノ杜 @shikanomori

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