第3話
テーブルをはさんだ席に座るタロウが、目の前を通り運ばれていくラーメンをながめている。
店員が間違えて僕たちのいるテーブルに運んでこないか、待っているみたいだ、とケンケンは思った。椅子の上で体育座りをしながら、ひざの上に広げているキャンパスノートに書きつけた。このラーメン屋の隅の席にこうしていつまでも座っていることが好きだった。目の前にある音、におい、人の動きを、風景をスケッチするみたいにノートに書きつけていく。真っ白なノートが少しずつ文字で埋まっていく。不思議と満たされていく気になるから、この気持ちを幸福と呼びたかった。
店員の手元に冷房の風が当たり、ラーメンの丼から立ち上る湯気が揺れ、二人の間にも漂ってくる。
カウンターや九つあるテーブル席は半分ほどが埋まっていた。また一組の客が入ってきた。閉まりかけた扉の間をエーコがすり抜けて入ってくるのが見えた。向かいの席に着き、タロウに何か話しかけたエーコの声は店内を流れるラジオの音にまぎれて、ケンケンにはうまく聞き取れなかった。天井に備えつけられたスピーカーからいくつかのCMが流れた後で、ラジオジングルが鳴る。聴き慣れたどこか軽妙な感じのするギターサウンド、前奏に続き、打ち上げ花火のような破裂音がして、
――セブンティセブン、ポイント、ワーアーン――
エーコが笑いかけるとタロウも笑って応えたから、ケンケンは感心した。そういえば、子どもと仲良くなるのがいつもうまかった。
――午後十時を回りました。お盆休みの初日という方も多いかと思います。休まれていますか、あるいはお仕事という方もいるかもしれませんが、早くも帰省ラッシュの渋滞が各地で起きているようです。どんなお休みを過ごしているでしょうか、メッセージをお寄せください――
エーコから、何してるの? という視線を感じた。
「観察してるんだ。何だろう、見えないものまで見えたらいいのに、ってさ」
ラジオDJの、カタカナ言葉が特別に流暢な女性の声がずっと続いていたから、エーコには届かなかったかもしれない。
また、ラーメンが運ばれていく。それが何度も何度も繰り返されていくうちに客の姿がなくなり、店員たちは閉店作業を始めた。レジを締め、厨房からはデッキブラシをかけて掃除をする音が聞こえてくる。そのうちに明かりが落ちて、何も聞こえなくなった。
店を出て稲荷小路を歩いていると、エーコが二人を被写体にして写真を撮り始めた。行き交う人はなく、繁華街の明かりも消えている。スマートフォンのシャッター音だけが通りに響いた。
「なんで僕たちにスマホを向けるの。おかしいって、みんな言ってたよ」
別に怒っているわけじゃなかった。だけど、怒っているように聞こえるのも確かだった。
「みんなって?」
「ミチルとか、ウノちゃんとか」
「もういないじゃん」
エーコが静かに言い切ってそのまま話は終わってしまった。
タロウと目が合って、手を伸ばすと優しくつないでくれた。自分も会話に加わっているつもりなのか、こくこくとうなずいていた。
アーケードまで戻るとまだ開いているゲームセンターがあった。騒がしい場所は好きではなかったが、タロウが足を止めたので迷っていると、エーコがさっさと入っていってしまった。
後を追って駆けていくタロウを見失わないように思わず小走りになった。ドーム型のクレーンゲームにエーコがぺたりと手のひらを押しつけると大げさな光と音で起動した。歓声を上げたタロウがエーコと手をつなぎ、導かれながら恐る恐るボタンを押していく。
ドームの中で回っているこまごまとしたお菓子、棒つきキャンディや個包装のグミが小さなクレーンですくい上げられ、手元に少しずつ落ちてくる。何度かやっているうちにチョコレートバーで組まれたタワーがくずれ落ちた。
ふいにクレーンゲームの電源が落ち、続いて店内の明かりも消えた。
エーコは満足したのか取り出し口の中を見もせずに離れ、タロウも惜しむように振り返りながらエーコについていった。
二人を追いながら言った。
「ここには食べられるものなんてないからね」
言ってから、なんて冷たい言い方なんだろう、と思った。まるで温度がない。温度は人にわけられる優しさだと思う。僕に、温度はまだ残っている? それとも、もうとっくに残っていない? 自分の存在が少し怖かった。
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