第2話
男は、凍ったジョッキに口をつけた。ビールが氷の欠片とともに流れ込み、うなり声が喉の奥から漏れてくる。我ながらおやじくさい、いや、おしぼりで顔をふかないだけ、マシか。男は冷えたおしぼりで手をぬぐいながら店の入口の方へ目をやった。
いつの間にか、待ち合わせをしていた少女の姿があった。排煙フードやガスコンロが乗ったテーブル、客たちのにぎわいの間をするすると抜けて近づいてくるエーコの姿を認めると、男はまたおしぼりで手をぬぐい、うなずきながら、自然と口角が上がっている自分に気がついた。
二人で何度か来ている焼肉屋だったから、エーコは慣れたようにメニューを指さす。若い男の店員がきびきびとした口調で注文を繰り返し、コンロの火をつけて下がっていった。エーコがテーブルの中央に手をかざし、「あったかーい」としみじみつぶやく。
「一人だけ、冬の日から来たみたいだよ」
「そう?」
「あ、でも、会社の女性陣も冷房がききすぎた部屋にいると冷え性になるって、言ってたな、ほんとかな。おれなんか、汗止まらなくて、今日だって、バイパスとかなんでだか、すごく混んでたし、外回りのついでに自分ちに寄って、シャワー浴びちゃったもんね」
職場では物静かな男で通っているはずが、エーコの前だとどうでもいいようなことをだらだらとしゃべり続けてしまうのだから不思議だった。
「あいかわらず、気ままなサラリーマン」
ひと回り年下であるはずのエーコがまるでできの悪い弟にあきれる姉のような、からかいと親しみが混ざった口調で言った。
エーコに言われるまでもなく、まったくそうさ、気楽で気ままな日々だった。
男は天竺(てんじく)という名のアカウントでSNSに趣味の風景写真を載せていた。学生の頃から細々と続けている趣味だった。恋人もなく、家族もなく、週末は岩手山や蔵王といった奥羽山脈、山の景色を撮りに出かけることが多かった。
ただ、まちに戻るとどうしようもなく人恋しくなって、そんなときにSNS上で知り合ったのがエーコだった。エーコはテンジクと違って、まちを、特に国分町をスマートフォンのカメラにおさめていた。
深夜から早朝にかけて少しずつ変わっていく――境目の時間が溶けて混ざっているような特別な時間、無人のまちかど、だけど誰か友だちと会っているときのようなフランクさがあった。
仙台市内の大学生だと言っていたエーコに様々な想像がふくらんではしぼんでいったが、実際に会った瞬間、そんな毒気はすっかり消えてしまった。真っ白よりも透明に近いような肌がいつかの夕焼けの中で輝いていた。新雪の時期、山の奥で初めて空気に触れたような雪を見た、そのときの呆然とした記憶が不思議とよみがえった。
以来、時おり会って食事をした。エーコからの連絡はまったく急に来るのだが、テンジクから連絡してもその日のうちに返ってくることはほとんどなくて、だいたいが数日後か、あるいはひと月経ってから返ってきたこともあった。だけどこうやっていまだに関係は続いているのだからまったく好かれていないわけでもないみたいだ。じゃあ、おれたちはいったいどういう関係? 思いきって帰り際に、「なんというか……おこづかいだよ」と一万円札を渡そうとしたこともあって、だけどそのときは、エーコは受け取らないで、「お金って、使い道ないんだよね」と困ったように笑ってみせた。だから二人の関係はたまに会って、ご飯を食べながら気ままにしゃべって、テンジクがおごって、そんなことで続いていたのだから、それでもいいかと思うようになっていた。他人との名前をつけなくていいような関係がこれほど心地いいなんてテンジクはそれまで知らなかった。
――肉が来た。
熱された網にエーコが次々と乗せていくのをテンジクはのんびりながめた。やがてカルビやホルモンの油が滴り落ちて、真下の青い火に当たったときの「ジン」と鳴るその音、かすかに立ち上るその煙こそ、においの発露だった。いつでもくるくると表情を変えて楽しげなこの少女が肉を口に運んだときには真剣な顔になって、まぶたを閉じ、眉間にしわを寄せて、「うんまい……」と湧き上がる感情を噛みしめ、つぶやく。そんなときテンジクには自然と笑いがこみ上げてくる。ああそうだ、こうした驚き、こうした意外さ、予想のつかない感じが誰かと向かい合って食事をするということだった。
エーコの驚くほどの食欲に、見ているだけで満足しそうになるテンジクの皿にもせっせと焼けた肉を置いてくれる。先日登った山のことや、そのとき撮った写真、近況を話しながら、テンジクは半そでのワイシャツの胸元をぱたぱたとあおいだ。汗が、つうっと首元から流れて腹にまで落ちていく。
今度、一緒に写真を撮りに行かない? 夏の山ってきれいなんだよ。そんな言葉で誘おうとした。夏の山野草はどれも小さな花を灯して、かわいらしいんだ。エーコが見たら何と言うか、訊いてみたかった。
だけど、
「友だちが、また猫を拾ってきて」
と、エーコが話し始めた。
「私、においばっかり強く感じるんだけど、その子は拾われてすぐだったから、まだ太陽のにおいがからだに残っていて……でも、いつか帰さないとね」
「なんで、そのまま、飼えばいいじゃない」
「その子は迷い猫なの。帰る家があるんだよ。何度か同じようなことがあって――」
少し間を置いた後で、言葉を探り当てたように続ける。
「――おかしいかもしれないけど、猫を家に帰すとき、寂しいんだけど、同じくらいほっとするの。ああ、よかったなって」
テンジクは何度かうなずいた後で、
「いいんだよ、正反対のことが同時に起きても」
と、ゆっくりと告げたが、エーコはうまく飲み込めないような表情を浮かべた。
「夜でもない、朝でもない、ああいう、きみの写真みたいな」
おれはちょっと酔っているのかもしれない、とテンジクは思った。
「……ねえ、写真って、その友だちと撮りに行くの?」
「え、どうして?」
「きみの写真って誰も写ってないけど、友だちと夜遊びした帰り道みたいな生き生きとした親しさがあるから」
「そう……そうだね、友だちとか、友だちが拾ってきた猫とかと一緒に。たいてい、うまく撮れないんだけど」
「そうかな。おれは、きみの写真、好きだけど」
言ってから、まるで告白みたいだと思った。
エーコは肉をまとめて頬張った後で、にっ、と顔をくずしたように笑った。
「やっぱり誰かと食事をするっていいね」とテンジクは告白し続けた。「一人でいても笑わないし、誰かといて、ご飯でも食べてると、きっと笑うんだよ。笑うと、顔に向かって温かさが、ぐーっと伸びてくる。笑い声もつけると、もう、完璧で。その後で、決まって心が動くんだ」
――店を出る。いつもと変わらず、二人はそのまま別れた。角を曲がるときにエーコが振り返ると、テンジクもちょうどこちらを向いていて、手を腰のあたりまで上げて、小さく振った。
心が動いたときに、からだがないことがもどかしかった。
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