午前レイ時の、影々

鹿ノ杜

第1話

「あっつーい」と女の子の声がしたから、夏の夕暮れだった。


 まちの雑踏の気配がからだのまわりに満ち、続いて赤い光がまぶたを焼いた。目を開けるとアーケードの向こうに見える西の空から夕日が差し込んでいた。通りを行き交う人の中から赤い制服姿、二人組の女子高生の背中が目にとまり、エーコは自然と歩き出した。彼女たちの首筋に浮かぶ汗がきらきらと光ってきれいだった。後れ毛だって、熱帯魚の美しいヒレのようだった。


 エーコは人より歩くのが早かったから彼女たちにはすぐに追いついて、そのままついていこうかと思ったが、やめた。


 追い越したときに女の子のうちの片方が、「ソレナ」とほとんど叫ぶように言って、もう一方の少女も、「ダカラネ」と応え、二人は肩を揺らして笑い、アーケードの屋根にまで響くその笑い声はエーコの耳にさわった。


 百貨店を過ぎたところで通りを折れて、国分町へと流れる人の波に乗り、歩き続けた。人の間からは、みな等しく、エーコと同じ――夜に向かうにおいがした。




 広瀬通の横断歩道を渡ったところでエーコを呼ぶ声がした。見れば、伸びた影の間にまぎれて、ケンケンがディズニーストアのショーウィンドウにもたれながら、手をひらひらと振っていた。ケンケンは姿かたちでいえばエーコと同じ年頃の大学生のように見えたし、あるいは、くしゃくしゃに笑ったときの表情は幼く、高校生のようにも見えた。


「やっほー」とエーコも返しながら、近づく途中で彼の隣にいる男の子の存在に気がついた。五歳か六歳くらいの小学校に上がる前だろうか、ケンケンの腰ほどの高さにつやつやとやわらかそうな髪――夕焼けで茜色に発色した髪を揺らしながら、男の子はディズニーストアの中を熱心にのぞき込んでいた。


「また……物好きだね」


 エーコの言葉に、「だってさ、しょうがないでしょ」と穏やかに微笑みながら、ケンケンは男の子の頭をなでた。


「ね、タロウ」


 タロウはケンケンを見上げ、それからようやくエーコに気づいたのか、びっくりして目を丸くする猫のような表情を浮かべた。


 彼らの隣に並び、ガラスにもたれ、通りをながめた。


 エーコが知るかぎりでは、十年か、もう少し前か――ある冬の日が境だった。このまちにケンケンや、あるいはタロウのような存在が、突然に増えた。みな、帰る道がわからないのだった。それで、このまちの光や熱や、立ち込める生のにおいに惹かれて、夜に集った。それから、ある者は自力で帰れたし、ケンケンがタロウにそうしているように誰かが誰かを導いたし、そうでなければこのまちに入り浸った。


「ねえ、見てよ」とケンケンが言って、通りに向かって右手を伸ばした。「みんなの吐く息が熱い」


 奪えないから、せめて、かすめ取ろうとしている。彼のしぐさがエーコにはそういったものに見えた。


 ケンケンがエーコに視線を投げかけた。きみだってそうでしょ? と問いかけているみたいだ。ちがうよ、ちがう、全然ちがう、一緒にしないで。口には出さず、心のうちでつぶやく。だけど、時おり吐息のようなじっとりとした視線を向けてくるこの少年には、すべて見透かされているような気もした。


 行き交う人の吐く息の、その熱をともにながめた。見ているうちに眠気が訪れて、まぶたが落ちてくる。うつらうつらとまばたきを繰り返していたら、揺れる視界におぼれそうになる。


 眠ってしまうのはもったいない。だって、夕日の落ちていくさまがこんなにも美しいのだから。空は水分をたっぷりと含み、茜色の絵の具が手当たり次第、まわりに染み出して、広がっていく。


 眠りにつくと夢なんか見ないでただ暗かった。一度、眠れば、次に目覚めるのはいつのことか。


 薄手のジーンズのポケットに入れたままだったスマートフォンの熱まで感じ始めた。その熱に導かれるように思い立って、スマートフォンを取り出し、メッセージを打ち込み始めると、


「デートだ」


 と、ケンケンが言った。


「……ちがーう」


「じゃあ、パパ活だ」


「ちがうっての」


 エーコは乱暴に応えた。タロウが不思議そうにエーコを見上げた。

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