第15話 峠の供え物

 見慣れた景色が見慣れない速度で近づいて来る。

 小さな段差で車体は跳ね、カーブの度に脳味噌がズレる様な感覚に襲われた。


 都会へ続く唯一の道は、日に数本のバスが走るだけで、一般車の往来も少ない。

 アンナはそれを良い事に、滅茶苦茶な速度で暴れ回っていた。


 私は必死で車の天井の手すりにしがみついていた。

 しかし、若い彼女らはさもこれが普通だと言う様に、五十鈴さんは携帯をイジり、アンナに至っては余所見をしながら片手で運転していたのだった。


 まだ広めと言ってもここは山道である。それをこの車体で飛ばすなど、彼女の頭のネジは飛んでいるに違いない。


「この辺久々だなぁ。まぁ、変わらず荒れてるみたいだけど」

「アンナ、調子に乗ってアンタが事故らないでね」

「安全運転してるだろ?」

「確かに」


 これで安全運転だと言うのであれば、彼女らは普段どれだけ飛ばしているのだ。

 左右に振られる脳はとっくにギブアップしており、今朝食べたポテトが食道の上までこみ上がっていた。


 場所的に後十分ほどで町に着くが、私はそれまで持つか五分五分だった。

 すると、アンナが突然急ブレーキを掛けた。


 大きな車体はそれでは止まりきらず、タイヤを鳴らして数メートル程滑ってから停止した。


「痛ったいなぁ。何、急に?」


 シートベルトしていた五十鈴さんは腹を強く圧迫された様で、その勢いで携帯を足下に落としてしまっていた。

 私はダッシュボードに肘を強打し悶えていた。


 車は小さな待避所で止まっていた。別段何か珍しいモノなど見えない、木々に風景を殺されている一般的な峠道の途中だった。


「いや、この辺だったなって」

「……どうぞ、お好きに」


 アンナは車を降りた。

 残っていても仕方が無いので、私も肘をさすりながら降りた。


 だが、五十鈴さんはそのまま降りてくる気配は無かった。

 呼びに行こうか迷ったが、態々三人揃って行動する意味も無いだろうと思い、私は一人でアンナの後を追う事にした。


 アンナはそこから少し町方面に進み、先の見えない急カーブの入り口で足を止めた。


「どうした?」

「ん? いや、色々あったなって」


 アンナは煙草を取り出した。また喫煙かと思っていると、彼女は箱をそのまま、ガードレールの下に置いただけで吸う事は無かった。

 アンナは何も言わず置いた煙草をじっと眺めていた。


「……」


 あの煙草は、供え物なのだろう。

 いつかの昔、この場所で誰か亡くなったのだ。


 それはアンナの知人、そして、五十鈴さんの知人なのだと私は思った。

 それは誰か、などとは流石に聞けない。


 アンナが気が済むまで、私は煙草を吸って待つ事にした。

 彼女は今、何を思っているのだろう。昔の思い出だろうか、それも楽しかった頃の。


 もし別れがあったのなら、過去であればあるほど良い。

 思い出の中の人は死んでから蘇る。まるで時間を逆行している様に、過去の記憶が新しく思い出されるのだ。


 辛い時間をその人が癒してくれている様に、徐々に楽しかった頃の記憶で埋め尽くされる。

 そしていつか、その人の最後の顔よりも、他愛ない日常の顔ばかりが浮かんでくる様になるのだ。


「先生、葬式って行った事ある?」

「……あるよ、両親の二回。私は年がいってからの子だっったから、祖父母は生まれる前には亡くなっていた。両親は私が三十の時に」

「そう……。悲しくなった?」

「そりゃね、両親だもの。結局、思い出が沢山ある人との別れは誰でも悲しいと思うよ。私も泣いたもの。まさか三十になって泣くとは思わなかった。勝手にね、涙が頬を伝うんだ。それに気が付いたらもう駄目だった。どうしたって目頭が熱くなって、ぼろぼろ涙をこぼして泣いたなぁ」

「良いね。私は行った事無いからさ、葬式って良いって思う」

「お別れに良いって言葉はちょっと違うんじゃないか?」

「違うよ。泣いてもいい場所ってのがさ。どんな奴がどれだけ泣いても、誰も咎めない。キッチリ故人と別れられる。恵まれてるね、先生は」


 アンナは笑っていた。だが、私は何も返せなかった。

 彼女の話の真相は、とても複雑で解決が困難なのだろう。


 誰かが亡くなった事は確かだろう。しかし葬式を上げられなかった。

 そうで無ければ、彼女がこんな話をする事は無い。


 そして亡くなった誰かとは、あの煙草を供えられた人なのだろう。


「……さぁ、行こうか先生。少し時間を掛けすぎた」

「もう良いのか?」

「あぁ、ここには何も無いから。なのに、人間って不思議だよ。何も無い場所に思い入れする」


 何も不思議な事では無い。それは正しく人間だと言う証明なのだから。

 幾ら粗暴でも、いくら不良でも、酷い言葉を吐こうが嘘を吐こうが、人間であれば誰でも同じく過去を思う。


 過去を思うのが愚かと言われようと、今だけを生きるのが馬鹿だと言われようと、見えない先だけを見続けるには、人間は強く作られていない。


 先を考えて生きている人間もいると言うが、それは未来に寄っている今であって、本当の先まで読んでいる人間はいないだろう。

 それに、もしそんな人間がいるのなら、とても可哀想だと私は思う。


 先の見える人生などに、価値などある筈が無い。

 あってたまるものか。

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