第14話 カイトの居場所
まともな睡眠を得ずに、朝は飲食店がちらほら開き始める時間帯になっていた。
只でさえ回復力の劣った中年は、八時間の眠りから目覚めた所で体の痛みは治まらない。
ぽつぽつと三十分単位の浅い眠りを繰り返し、揺れる狭い車内で窓に頭をめり込ませていたものだから、私の体は昨日のご飯の様に固まっていた。
しかし、体は固く重くとも、気持ちはとても軽かった。
憑き物が取れた様に、目に見える世界をそのまま捉える事が出来ていた。
つまり、今の私は何も考えていなかった。
「朝飯候補は何が良い?」
アンナが聞くと五十鈴さんは「先に食べるの?」と聞き返した。
当然だと言う様に、アンナは「ハンバーグが良いかな」と言い出した。
胃液の減った中年では、まず考えられない選択だった。
四十前の男は、朝から贅沢なんぞすれば死ぬかも知れないのである。
「別に急がなくてもいいだろ。仕事じゃ無いんだから」
「でも、怪我してたら早く行った方が良いでしょ」
「それでどうすんの? あいつ保険証持ってないのに。非常識な時間に呼び出す奴の為に動いてるだけでも十分過ぎるだろ」
「でもさ」
「事故る方が悪いのさ。五十鈴、これは決めた事だろ」
五十鈴さんは少しバツの悪い顔をし、小さく肩を落とした。
納得はしていないが、反論は無いという事だろうか。
決めた事。これが何か気にはなったが、私から聞くのは違うと考え、思いとどまった。
「遅れてもアイツは文句なんか言わないだろ」
アンナは自分の意見を押し通し、開店したばかりのファミレスにハンドルを向けた。
アンナは事故を起こした渡世になど、心配の欠片も無いようだった。
車が走行車線から外れる。流石に店は開店直後では客も少なく、小さな駐車場だったが空きだらけで直ぐに車を止める事が出来た。
車から降りると、アンナが「吸い溜め」と言って早速煙草に煙を上げる。
店内禁煙が当たり前の時代だが、駐車場のド真ん中で吸うのは如何なものかと私は思った。
しかし、入り口付近にも喫煙所らしきものは無く、好煙家はこの世界から嫌われている事が良く分かった。
「アンナ、吸いすぎ」
そう言いながら五十鈴さんも煙草を吸い出した。
何だか除け者にされている気がして、私も同調して煙草を吸った。
不思議な感覚だった。少し前の私なら、こんな事は出来なかっただろう。
誰かの迷惑になると言う考えが先行し、その考えを彼女らにも押し付けようとしたと思う。
間違いと言う言葉に対しての認識が、私の中で少し変わったのだ。
間違いとは自分が定めた常識から逸脱した行為であって、決して罪では無い。
事実、ほんの十数年前までは、当たり前の様に繰り返されていた事なのだ。
勿論ルールを守るに越した事は無い。余計なトラブルを引き起こさないで済からだ。
だが、誰かが言ったから、皆やっているからと、何故と考えずに追従し、それがまるで十戒に記されているかの様に吹聴するのは如何なモノかと私は思う。
他人の迷惑になるやも知れないが、他人に迷惑をかけない人間など存在しないのだ。
間違いの重さに差異は無い。間違いは等しく間違いであり、糾弾するならばそれら全てを説き伏せなければ筋が通らない。
しかし、間違いとは自分の常識から外れた事だから、自分の中の非常識は他人の常識かも知れないのだ。
つまり、そんなややこしい事を考えている暇があるのなら、人生を謳歌すれば良いのである。
こんな事を私は、空に昇る煙を見ながら考えていたのだった。
誰も口を開かなかった。しかし、それが居心地の悪さには繋がらない。
煙の交わる所を見ていれば、何も無い時間など無い事が良く分かる。
嫌煙家の皆さんには、この感覚は分からないだろう。
「それで、カイトはどこで事故したの」
五十鈴さんがしんみりとした声で聞くと、アンナはハッキリとした声で「満天坂」と言った。
五十鈴さんはとても驚いていた。
聞いた事が無い地名だったので、どの当たりかを聞くと、五十鈴さんはまた「えっ?」と、今度は私に驚いていた。
そんなに有名な土地なのだろうかと、記憶を漁ったが一向に見つからない。
するとアンナが「あれは仲間内の通称だから」と言ったので、私が分からないのも当然だった。
「単に田舎で星が良く見えるってだけなんだけど、普通の山で見る星とは何か違うんだ。近く見える訳でも無いけど、匂いが良いんだよね。それに」
その先を遮る様に、五十鈴さんが態とらしくせき込んだ。
それに。その先の続く筈だった言葉に私の興味はそそられた。
「別に良いだろ。先生カイトと会うんだろ?」
「アンタが言うのは違うでしょ。カイトが直接自分の口で言うのならまだしも」
「気持ちを考えろって? 時間の無駄だな、いいけどさ」
会話に割り込む様に、携帯がアンナを呼んだ。
画面を見たアンナは直ぐに通話に応じ、煙草を吸いながら私たちから離れていった。
アンナがその先の言葉を持って行ってしまったので、心の中にモヤモヤ現れてしまった。
五十鈴さんは「デリケートな部分なので」と、小さく言った。
それに。その先が聞けなくなったのは残念だった。仕方が無いので私は満天坂がどこなのかを聞いた。
目的地がどこなのか。それを知っているか知らないかで、気持ちの余裕が随分と変わる。
中年は、一日の体力の配分を事細かに計算せねば、途中でガス欠を起こす生き物なのだ。
「遠いけど近いです」
「どういう事?」
五十鈴さんは一瞬言葉を溜め、ポツリと言った。
「あの店。私たちのあの町の峠です」
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