第11話 見えないキョウキ
夜の世界を私たちは行きアテも無く歩いていた。
会話も無く、只闇雲に、道に沿って歩いていた。
あれほど煌びやかだった夜の世界は、今はもう怪しげな客引きで埋め尽くされ、街を闊歩するのは邪な考えを持っていそうな男女ばかりだった。
断れば良かったのだろうか。
そんな考えが私の脳裏を駆けめぐる。
私が中途半端に関わったせいで、彼女の関わりを壊してしまった。
私は深く入り込み過ぎたのかも知れない。
もうこれ以上は教師の関わる範囲では無い。五十鈴さんやテツ、そして、彼らの問題の中心にいる渡世が何とかするべき事なのだ。
私は私のやるべき事はやった。この結果に文句を言う者など誰もいないだろう。
なのに、この胸に残った凝りは何なのだ。
後悔なのか、諦めなのか。
分かっているのだ。本当はこの凝りの正体を私は分かっている。
だが、これを認めてしまうと言う事は、私は自分の分を越えてしまう。それに責任を持ってしまえば、私は根本から全てを失ってしまうかも知れない。
この凝りの正体は、何もしなかった自分自身への呆れなのだ。
この程度の奴だと他人に言われようと、私は幾らでも我慢出来る。だが、自分に情けないと思われる事は耐え難い屈辱なのだ。
今までの私は自分を否定しても、それはどこか自分に酔っている節があった。だから、私はその光景を儚げな場面だと思いこむ事で、本当の自分には隠していた。
だが、五十鈴さんや彼ら、自分を出す彼らを前に、本当の私も表に出てしまっていたのだ。その光景を、彼らの言葉を耳にして、嘗ての様に騒ぎ始めたのだ。
自分の判断を貫け。
大人の体の中に巣くう少年の私が、今の私を苦しめるのだ。
「あの、先生。今回の事、忘れて下さい。カイトの事はもう、大丈夫です」
口を開いた五十鈴さんは、俯いたままだった。
私は彼女に気を使われていた。四十を前にした中年が、年端もいかない女性にである。
こんなに情けない話があるだろうか。
はい。
そう言えば全て収まる。
今後この問題に関わる事無く、私は平凡な毎日を暮らせるのだ。
ベランダで煙草を吸い、明日が来るのを待てば良い。
それで良い。それが、大人……なのか?
やりかけの問題を放置する。それが大人なのか?
どんなに難しい問題であっても、解決するのが大人では無いのか?
私が望む大人とは、こんな見窄らしい人生を送る事では無かった筈だ。
五十鈴さんの両肩を掴み、私は彼女と目を合わせる。
半ば強制的に、彼女に私を見せたのだ。
何をしているのだ。呆れ声が聞こえてくる。
弁の様に言葉を遮り続けてきたそれを、私は黙らせた。
明日が何なのだ。生活が何なのだ。
それはそんなに守らねばならないモノなのか。
そんなに大切なものならば、何故私は大人に憧れを抱き続けているのだ。
後悔する程何もしていない。悔やむほど悩んでいない。
諦めるなら、満足したと言ってからでは無いのか。
「先生、痛いです」
「五十鈴さん、渡世と話をさせて下さい。私が何を解決すれば良いのか、全て話して下さい」
「しかし先生。これは簡単な問題じゃありません」
「簡単か簡単じゃ無いかなんてどうでも良いんです。渡世は私の生徒です。彼に何か事情があるのなら、私はそれに立ち向かわなければならない。そうですよね、そうだと言って下さい」
私は熱くなっていた。もう自分では止めようが無い程に。
しかし、それは意外な形で鎮静させられたのだった。
「えっ、橘先生じゃないですか?」
掛けられた声に、熱くなった私の頭が冷やされる。
声をかけて来たのは、私の同僚の木下。
そしてその隣には、あの高山がいた。
「マリアちゃん、橘先生と知り合いなの?」
「知り合いって言うか、同じ職場で。と言うか橘先生、その人誰なんですか」
「奥さんらしいよ」
「奥さん!? 先生彼女もいないって言ってたのに」
何て場面を見られてしまったのか。それも、よりによってこの二人に。
直ぐに頭はこの場を乗り切ろうと、可能な言い訳を検索する。だが、素直に頭の出来では上の高山は、この光景から直ぐにある推測を打ち立てた。
「橘先生、その子奥さんって言うのは嘘なんでしょ。何か人に言えない事情があるから、嘘を付かないと駄目なんですよね。どう見ても未成年ですよね。そんな子と援交なんて、懲戒免職モノじゃ無いですか?」
「この子は」
「何言っても言い訳にしかなりませんよね。こんな時間にこんな場所で、肩を掴んで迫っているんですから。残念だなぁ。あの橘先生が、こんな若い子をねぇ」
高山に言われて初めて気が付いた。
街を練り歩いている内に、私たちはいつの間にかホテル街に迷い込んでいたのだ。
ありとあらゆる条件が、私の不利に働いてしまい、現場まで押さえられている。
言い訳など意味をなさない。
そして高山は、私を陥れる事を止めないだろう。
高山にはコンプレックスがあった。
それは、彼が最も誇っている学歴であり、私が唯一彼に勝っているとされるモノだ。
私は大学に差異など無く、教える分野の違いだけだと思っていたが、彼は違ったのだ。
この世の全ては学歴と偏差値で決まる。その絶対学歴主義の思想のお陰で、私は彼から目の敵にされていた。
初めは無視やちょっとした嫌がらせだったが、私が特に気にした様子を見せずにいると、彼は私の受け持っている生徒に照準を向けたのだ。
とは言っても、実害を被る様な真似はしない。
仮にも彼は教師なのだから、自分の不利になる事はしなかった。
彼は、言葉で生徒を傷つけたのだ。
言葉の持つ力は、人が考えるよりも遙かに大きい。
人一人の人生を変えるなど造作も無い程に。
彼の犯した事は、凶人のそれとなんら遜色が無い。
只見えているかどうかの違いだけで、彼は言葉と言う凶器で生徒を滅多刺しにしたのだ。
まるで、完全犯罪だった。証拠も無く、彼は見事人一人の人生を完全に壊したのだ。
私は彼の犯行に気付けず、それを知った時には全て終わっていた。
「死んで欲しいなら死ねって言えよ!!」
それが、その生徒との最後の会話だった。
それ以降の光景は、今でもハッキリと覚えている。
どうにも出来なくなった気持ちを抑えられず、私は職員室で高山に掴み掛かったのだ。
その時点では何も証拠を集めておらず、完全な見切り発車、飛び込み自殺と言った方が正しいかも知れない。
それほど、私は何も考えず、彼に怒りを向けてしまった。
何を言ったかは覚えていない。口汚い事を吐いただろう。
只感情にままに、それが誰の為にもならないと考えず、自分がいい気になりたいが為に。
私は左遷された。当然の結果であったが、職を失わないだけマシだった。
そして高山は一方的に喧嘩をふっかけられた被害者として、周りからの庇護を受けた。
それからだ。私が完全に何もかもを諦めて、自分の身の丈を定めたのは。
小さな種火を完全に消し、燃え尽きた蝋燭を様に暗闇と同化したのだ。
その筈だった。だがいつまでも煙は消えず、炎は灰の中でくすぶり続けていた。
それがやっと掘り返されたのに、また消えてしまうのか。
「橘先生何か言って下さいよ。それともまた暴力でも振るいますか?」
「高山さん、いくら何でも言い過ぎなんじゃ」
「いやいやいや。だって実際被害にあった訳ですし、何も嘘は言ってないですよ。そうですよねぇ? 橘先生」
高山は、勝ち誇った顔で私をあざけ笑った。
私はどうするべきか。
ここで何もしなくても、私は彼に潰されるだろう。
だが、だからと言って子供の様に拗ねて、彼に報復でもすれば、私は一生子供のまま、大人になれなかった自分を悔やむ事になる。
完全に詰めろがかかっていた。しかし将棋と違うのは、参ったと言った所で終わらないのだ。
「先生、何なんですかコイツは。いきなり絡んできて」
「君もさ、どんな事情があるのか知らないけど、こんなおじさんの相手する程お金に困ってるんだろ? 家庭環境が最悪だと、子供も必然的にこうなるんですよ。分かりましたか橘先生。家庭は学歴に比例して、学歴は素行に比例するんです。親が駄目なら子供も駄目。そんな奴らは子供なんて作っちゃ駄目なんですよ。マイナス同士が掛け合わさってプラスになるのは数字だけなんですから」
もう、我慢の限界だった。
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