第10話 仲違い
「先生には悪いけど、カイトは入れ違いで出て行ったよ」
またか、と声を上げそうになるが、私は何とか自制した。
店の奥はVIPルームと思われる特別室で、大きなシャンデリアにガラスのテーブル。私が名前も知らない様なブランドの家具やインテリアで埋め尽くされていた。
そのVIPルームにて、私は五十鈴さんと共にテツからの持て成しを受けていた。
「先生はお酒飲まないの?」
「一応、これは仕事の」
言い掛けると、私の背中を五十鈴さんが叩いた。結構な強さで、バチンと言う音が響くほどだった。
「橘さん、今日はどの様な立場でお話に来たのでしたっけ?」
五十鈴さんに言われて、私はそうだったと、自分の失言を反省した。
今日の私は教師としての仕事で来てはいるが、対話に置いての私は橘正志と言う一個人で無ければならない。
何故そんな周りクドい方法を取るのだろうと、ずっと考えていたが、ここに来て何となくだが理由は分かった。
ここの人間は皆、教師を極限まで嫌っている。
十代から二十代と思われる彼ら若者達は、何らかの事情を持ち、普通の生活から離れざるを得なかったのだろう。
そして、その原因として、教師が深く関わっている事は明白だった。
「今日は、私個人として渡世君とお話ししたく参った訳でありまして、教師としてでは無いとだけお伝えしておきます」
テツは少し間を置いた後「ふーん」とだけ声を漏らし、自分の飲む酒のグラスを持って私たちの前に腰を下ろした。
「まっ、五十鈴が連れて来てるって事はまだマシって事何だろうけどさ。先に言っておくけど先生、中途半端に手を出すのは無しだよ? それをするなら初めから関わらないで欲しい。もし途中であいつの事見捨てたら、ここにいる連中は黙っていられない。俺も、五十鈴もだ」
「出来る限り善処したいと思います」
「思います? 善処って何。出来る限りじゃ駄目だ。絶対だよ。責任から逃れる気持ちがちょっとでもあるなら関わるな」
彼は、テツは全くの正論を述べた。
私が長年の後に体に染み着かせてしまった煙に巻く曖昧な言葉を、彼は霧の中を突き破るような真っ直ぐ飛んでくる矢の言葉を放ったのだ。
私たちは常に濃霧の中で仕事をする。話し合いをするが、相手の姿はハッキリと見えない。それで困る事もあるが、それ以上のメリットに、私たちは心酔していたのだ。
濃霧の世界では、責任など曖昧になる。どこの誰と後になっても分からない様に、どうとでも取れる曖昧な霧の言葉を使うのだ。
目標を失った責任はどこにも行き場を無くしてしまい、本来の目的地とは全く違うにも関わらず、濃霧から姿を見せてしまった哀れな正直者に取り付くのである。
これが日常であり、これが普通だと思っていた。
これが大人なのだと、思いこまされていた。
だが、テツは違った。彼は霧の中にいない。
天高く太陽が昇る草原の真ん中で、日光を浴びながら自分だと叫びつつ矢を放っている。
どこの誰が見ても、彼が責任者だと分かる。そして彼はそれを一切恐れない。
しかしそれは、彼がまだ積み木を積んでいないからなのだ。
積み上げた経歴、役職、生活。我々中年は、何よりも積み木の城を大切にする。
責任と取るとは、その積んだ城を完全に壊す事なのだ。
つまり、自分の全てを失う。そう言う意味なのである。
「先生、どうなの?」
「テツ、絡みすぎ。直ぐにどうなるって話じゃないでしょ。それに、話してから判断して貰っても良いじゃない。その場の勢いで決められた方が却って迷惑でしょ」
五十鈴さんが助け船を出してくれたお陰で、私は何とか難を逃れた。
テツは何か言いたそうに口を開くが、諦めたのか酒を一気に飲み干し、ガラスのテーブルにグラスを勢いよく置いた。
「五十鈴よう、お前いつからそんなハト派になった訳? えらくその先生に寄ってるよな」
五十鈴さんは一瞬眉を寄せた。しかし、表情を隠すのは得意だと言う様に、直ぐ顔から感情を取り除き、足を組んで煙草を口にくわえた。
すると、部屋の隅で待機していた用心棒らしき男が、間髪入れずに煙草に火をつける。五十鈴さんはさもそれが当たり前だと言わんばかりに礼など言わずに煙を吐いた。
「私たちはあの子に何も言えない。だけど、どうにかしてあげたいって考えの筈じゃなかった? 橘さんは初めて、ギリギリだけど何とかしてくれるかも知れないって人なの。それを何の情報も与えずに判断するのは違うじゃない」
「それで二つ返事出来る奴じゃなきゃ、結局逃げ出すに決まっている。先生は大人だ。直ぐに放り出す」
「……自分の思いこみで判断するのは、お前の嫌う大人な考え方じゃ無いの?」
その瞬間、テーブルのグラスは吹き飛ばされ、テツは五十鈴さんの胸倉を掴んでいた。
「離せよ。この服結構気に入ってるんだから」
「上から物言いやがって、いつまであいつの女気取りだ」
五十鈴さんはテツの髪を掴み、そのままテーブルに叩きつけた。ガラスは砕け、叩きつけた勢いで五十鈴さんの服も破れていた。
「……図星だな」
「テツ……お前変わったよ。無理だったんだ。形は同じでも、やっぱり違う」
床にうずくまるテツを余所に、五十鈴さんは私の袖を引いた。
「行きましょう、先生」
その一言で、私は渡世に会えないのだと察した。
先生の一言は、私と彼女との間に壁を隔てる。
五十鈴さんの肩は僅かではあるが震えていた。
彼女の中で何かが失われたのだ。
人は失って何かを得ると言うが、私は全く同意出来ない。
何故ならば、喪失から得られるものは、悲しみしか無いのだから。
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