第8話 子供の言葉

「橘さん。黙っていては女性はツマラナいと呆れてしまいますよ。男女の駆け引きとは会話から始まり、それ無くしては男女の調和は生まれません」


 壁際の席で、私は五十鈴さんから、女性の心を引く為の手解きを受けていた。

 頭の先からつま先まで、どこに聞いても恋とはなんぞやと漏らしてしまう私には、彼女の高等な講義に付いていけなかった。


「この時間は一体何ですか?」

「敬語、ペケ一ですね」


 私は一体何をさせられているのだろう。

 この歳の男にそんな手解きをした所で、活躍出来る場など存在しない。


 彼女がしている事は、猫に小判に豚に真珠。全く無駄な行いなのだ。


「あと、その仏頂面も減点ですね。デートをする際は常に笑顔で。内容がどうであれ、笑顔かどうかでデートの印象が七割変わると言っても過言ではありません。大切なのは楽しませてくれようとしている心意気なのです。そして女はその心意気や良しと、中身がツマラナくとも感謝しなければなりません。そこで文句を言う女は足を挫いて捻挫すれば良いのです」

「五十鈴さん、目的は何なの?」


 私は耐えきれず聞いてしまった。

 彼女が私にデート理論を説く理由が分からない。問題には必ず原因があるのだ。


 彼女が時間を作ってまで、私を拘束する理由。

 年寄りは原因を知らなければ信用出来ない病気が蔓延しているのである。


「目的と言いますと?」

「僕にデートでの駆け引きを受講させるこの時間の事だよ」

「そんなの、私が楽しいデートをしたいからに決まってるじゃないですか。橘さんがリードしてくれているならこの時間はそもそも存在しません」

「そうじゃなくて、何故僕とデートをするんだい。わざわざ朝に集合して、この時間を作ったんだろう?」


 私が困り果てた末に彼女に言うと、五十鈴さんは頭を垂れ、両手でラテを持ち、啜るようにして喉を通した。


「……橘さん。あの子、カイトに両親の事聞かない様にって言いましたよね。それ、私もなんです。両親の話をされると、私たちは駄目なんです」


 五十鈴さんは笑って言ったが、そこにいつもの姿は見えない。

 私たち。その言葉は本当なら、私がいつまでも聞く事の無かったものだろう。


 彼女は大人びている。だが、大人では無い。その曖昧さが、確固たる意志をもつであろう彼女から、この言葉を引き出したに違いない。

 若さとは常に不安定なものなのだ。


「……そうだったんですか」

「でも、私はまだマシです。あの子に比べたら。あの子は両親を恨んでいる。でも、私は両親が恋しい。話をされるのが嫌なのは同じでも、その中身は全く逆なんです。私は、父親が恋しいんですよね」

「じゃあデートって言うのは」

「はい。一度でも良いから、お父さんと一緒に出かけてみたかったんですよ。他愛ない親子ってモノを一度でも味わいたかった。だけど、そんな事を頼もうモノなら、殆どは体の関係まで求めてくる。橘さんだけだったんですよ。一年も私と接して、言い寄って来なかったのは」


「度胸が無かっただけかも知れませんけど」と、五十鈴さんは男には辛い言葉を吐き、横を向いてラテを飲んだ。


「私の我が儘です。怒りました?」

「怒らないよ、怒れない。むしろ、五十鈴さんの事を知れて良かったと思う。一年も通って知らない事が多すぎるって言うのは、僕もモヤモヤしていたんだ。だから、そう言う事で振り回されるのなら安心した。からかわれてると思い続けるのは老体には辛いからね」

「橘さん、自分の事年寄りとか中年って言いますけど、まだ全然若いですよ? 若くなったと言った方が正確ですかね」

「喫茶店ではすぐ貶して来たのに」

「あれは橘さんがすぐに駄目な方へ、自分を引っ込めようとするからじゃ無いですか。まだその気はありますけど、老ける程ではありません。橘さん、自分を常に考えていて下さい。中年や老体で逃げないで下さい。ご自分で言ってたじゃないですか、大人と言われるのは嫌いだって」

「あれは、そう言う意味じゃないよ」


 子供のまま成長した私。その私を大人と言われたくない。大人と言われるくらいなら、私は子供と馬鹿にされた方がマシなのだ。

 大人とは何なのか。私にはいつまでも巣にしがみついているだけの雛鳥のままなのだ。


「僕が思う大人って、こんなのじゃないんだよ。僕は只年を食っただけの子供だ。自分の頭で考えて、今の自分が出来上がった訳じゃないんだ」

「そんなの当然じゃないんですか? 橘さんは若いですけど、でも大人ですよ」

「だから、それは」

「大人に理想を求めすぎているんですよ。あれはそんな、立派なモノじゃ無い筈です」


 その時、彼女の後ろで席を探す男を見つけた。


 爽やかなその出で立ちに、通り過ぎたその背中を、若いお嬢さんたちが目で追っている。

 雑誌のモデルの様な髪にファッション紙の表紙で見るような服。鼻筋も目元も、女性の理想の雄像を詰め込んだ様な男が、視線の合った私に向かって近づいて来た。


「あれ、橘先生。お久しぶりですね!」


 真っ白い歯が、彼の意識の高さを伺わせる。

 私はそれに、ヤニで黄ばんだ歯で「高山先生、ご無沙汰しています」と軽く顔をひきつらせた。


 高山とは、私の以前の赴任先で一緒だった。つまり、彼も教師なのである。

 だが、彼と私では全く違う。


 高山は子供だった。私と違うのは、彼は子供である自分を好いているのだ。


「全然連絡くれないんで心配してましたよ。田舎の学校ですよね。あんな辺鄙な場所に飛ばされて大変でしたね。でも、生徒のレベルは低そうですから、忙しくは無いんじゃないですか?」 


 彼は爽やかな口調で、痰の様な嫌みを私に吐いた。

 彼は学歴主義だった。この世の全てが学歴で決まり、それは特権階級にも匹敵するものだと、本気で思っているのだ。


 だから彼は選別に何よりも重きを置いていた。

 最も労力を掛けずに結果を残せる生徒を贔屓し、手の掛かる、そもそも学歴社会に適していない生徒は排除するべきだと考えている男だった。


 彼の手により有名大学に進学出来た生徒は多かった。だが、その裏にはそれ以上に汚泥を飲まされた生徒がいるのだ。

 偏差値と言う数字の化け物によって、一体どれだけの子供の夢がついえた事か。


「えっと、こちらは娘さんですか?」

「いえ、彼女はですね」

「妻です」


 高山は目を見開いた。私はテーブルに膝を強打した。


「奥さん、ですか? いやいつの間に、え、失礼ですけど、おいくつで?」

「元同僚とはいえ、人の嫁の歳をまず初めに確認しようなんて、余りにも無礼ではありませんか?」

「あ、これは失礼しました」

「何を思ったかは知りませんし、それであなたを否定する気はありませんが、今はデートの最中であり、あなたにそれを邪魔された事実は確かですよね。偏見ですが、あなたは女性の扱いに長けていると見受けられます。デートを妨害された女性が何を思っているか分かります?」


 抑揚の無い言葉は否定の証拠だった。

 自分の感情を一切伝えず、言葉でのみ意見を伝える。


 真顔の五十鈴さんに高山は何も言えず、私に軽く会釈をすると、すごすごと退散したのだった。


「……ありがとう。彼の事は苦手なんだ」


 五十鈴さんはまだ気持ちの切り替えが出来ていないのか、表情が無いままだった。


「やっぱり、大人ですね。良い意味ですけど。私は苦手なんて言えないですから」

「嫌いって?」

「大嫌いです。あの張り付けた笑顔に自分が上だと確信した話し方。人を見下した言動。全てが気持ち悪い。あの手の人種は人の欠点ばかり探して、決して自分を高めようと思わないんです。どれだけ綺麗な格好をしても、それは他人を見下す為なので、だから若い妻がいると分かれば、上から話し辛くなって、下手にしつこく絡んで来なくなるんですよ」


 彼女は自分の感情を吐露した。それは大人が捨て去った言葉だった。


 若者だけが持ち、大人になってその価値に気が付く言葉。損得を一切考えない、我々が何重にも巻き付けたオブラートの一番奥の小さな中身。


 本心とは、価値を知らない子供だからこそ、裸で持ち歩けるのであろう。

 私は大人になりたかった。だが誰もが大人と呼ぼうとも、私は大人になりきれていない。


 だから、私も怖いながら、本心を口にしても良いのだろう。


「本当は、私も大嫌いだ」 

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