第7話 中年拒絶都市

 夏はどの世界でも汗ばむ陽気であると思うが、都会の夏は灼熱の空気に満ちていた。

 人の多さ、車の多さ、何もかもが沢山のこの空間は、田舎に慣れたこの体には酷く堪えた。


「どこかで涼みましょうか?」


 五十鈴さんは提案してくれたが、私は一刻も早くこの空間から脱したく、バーに向かう事を宣言した。

 しかし「ここって夜からですからまだ開いてませんよ」と、私のプランをぶち壊す一言を述べたのだった。


「じゃあ、もっと遅い時間でも良かったのでは。何で朝から集合にしたんですか」


 昨日五十鈴さんと約束し、二人で都会に行く事が決まったのだが、彼女が何度も朝からだと強調するので、早く帰りたいのだなと思っていた。


 しかしその実、目的地は夜からしか開いていないので、私たちは長時間都会の熱に煽られる事が決定したのだ。


「これも勉強ですよ、先生の勉強です。若い女性とデートする事で、女心を知る勉強です」

「デートって、家庭訪問の延長なんですけど」

「言っておきますけど、今日は先生禁止です。敬語は駄目ですよ。今日一日はプライベートと考えて下さい」

「まぁ、家じゃ無い時点で家庭訪問じゃないんですけどね」

「敬語出てますよ」

「す、ごめん」

「夜までそれでお願いしますね」


 娘に怒られる父親の様な気持ちになった。


 私には娘がいないので、それが正しいのか分からないが、彼女に対して反抗出来ないこの気持ちは、家庭内で居場所が無い父親と似ているだろう。


 ちょっとした言動で気分を害されるくらいなら、大人しく犬の様に従った方がマシだと。

 中年とはそう言う生き物なのだ。


「流石に私も暑いので、あそこで涼みましょうか」


 五十鈴さんが指さしたのは、名前だけは知っている足を運んだ事の無い有名カフェのチェーン店だった。

 噂だけでしか知らないが、私は恐れ慄いた。


 中年を小馬鹿にした様な、名前だけでは何が出てくるのか分からないラインナップ。

 独自のドレスコーデでもあるのか、お洒落な客以外は寄せ付けないインテリア。


 そして、若者にあらずんば人にあらずと確信させる客層。


 こんな場所に私が入ろうモノなら、忽ち周囲の目にいたたまれなくなり、小声で臭いとでも言われれば、二度と都会に足を踏み入れなくなる。


 カフェの向かいには、来るもの拒まずのハンバーガー店もあるのに、彼女は何故こちらを選ぶのか。

 しかも予め決まっていたと言わんばかりに、彼女の服装はとても洒落ていた。


 白のノースリーブのワンピースに女性が好む愛らしいサンダル。何が入るのか分からない小さなバッグも、彼女の可憐さを際立たせるのに一役買っていた。


 こんなお嬢さんと都会の魔境を闊歩して、周囲の目は私の事をどう見ているのだろう。

 親子に見られているのならば、私の心は救われる。


 だが、これがもし援助交際中の中年とでも思われてようものなら、もう私は文明の利器溢れるこの大都会の地を二度と踏む事はないだろう。

 そして、未来永劫海と山に囲まれた、あの田舎の地に根を生やし、無縁仏として葬られる事を望むのである。


「じゃあ先生行きましょう。先生と言うのも駄目ですね。橘さん、行きましょうか?」


 夏の日差しにも劣らない、眩しい笑顔がそこにあった。 

 そしてその宝石にも似た奇跡の産物を、一人の中年に向けていると言う事実に、私は優越感よりも罪悪感に苛まれるのだ。


 ただ彼女と知り合いだと言うアドバンテージがあるだけで、一般中年が望んでも手に入らない、若いお嬢さんの笑顔をタダで鑑賞出来るのである。


 世間のお父様方は娘さんの笑顔を得るため、休日も返上し小遣いも削り、それでも目すら会わせてくれないの言うのに、私は家庭訪問をダシにして、彼らをまるであざ笑うかのような罪を犯してしまっている。


 私がまだ若ければ、素直に喜べたのかも知れない。

 だが、私は中年だ。人生を家族に捧げる彼らお父さんと何ら変わらない中年なのである。


 結婚してようが独身であろうが、若者と中年の線引きは保たねばならないのだ。

 手と手が触れ合い時めく青春。登下校を共にする幼なじみ。健気に好意を見せてくる後輩等々。


 我々中年は、それらを望んではならないのだ。


 在りし日の青春に思いを馳せるのは大いに結構。だが、二度と手に入らない青い春を、もう一度などと考えてはならない。

 あの日、あの頃こうであったならと、妄想の苗を大事に育てる程度に納めなければならないのだ。


「こう言うお店って入った事あります?」


 五十鈴さんはニマニマと、意地の悪そうな顔で言った。

 それにより、彼女が態と私を困らせようとしている事が確定した。


 幸い、今日の私はスーツなので、ドレスコーデには引っかからないだろうが、これがもし私服だったとしたら、赤っ恥をかかされた事だろう。


 自動ドアが開き一歩足を踏み入れると、余りの温度差に汗が凍りそうだった。


 照りつける太陽の反射で見えていなかったが、五十鈴さんも大層な汗をかいていて、透き通るように白い彼女のうなじには、玉のような汗の粒が浮き上がっていた。


 何を見ているのだと、私は自分を咎める様に首を振った。

 レジの前には注文待ちの客が数人並んでいて、待ち時間の間にメニューを確認する余裕があった。


「橘さんは何にします?」


 五十鈴さんは聞いてきたが、私は一体どれが何を記しているのかサッパリ分からなかった。

 この店にはトッピングなる、中年に対するハードルを無駄に高くするサービスがあり、それが我々の脳を混乱させるのに一役買っていた。


 どこからどこまでが飲み物で、一体どれがトッピングなのか。この客待ちの時間でそれを解明させるのは不可能であった。

 私は何が出てきても仕方がないと諦め、他の客の注文を真似る事にした。


 それであれば最悪の事態を避けられるし、無駄に甘いトッピングになっても甘党で片づけられる。

 だから私は「まだ決まっていないと」凛とした面持ちで五十鈴さんに言った。


 しかし彼女はクスクスと笑い「良いんですか?」と口に手を当てていた。

 嫌な予感がした。私は何かとんでも無い間違いを犯しているのではないかと。


 そうこうしていると、私たちの前の人が注文をし始めた。どれ、何を頼むのだと、耳を大きくしていると、聞こえてきたのは呪文だった。


「ショートソイオールミルクアドリストレットショットノンシロップチョコレートソースアドホイップフルリーフチャイラテ」


 テクマクマヤコンで止まってしまっている私は、今の若者の魔法学に対する勤勉さに脱帽してしまう。

 そもそも注文など、ここ最近ではメニュー表を指さしてコレとしか口にしていない私に、そんな舌筋は無い。


 呆然としてしまっている間に、私たちの順番が回って来てしまった。

 完全に処理落ちし、フリーズしている私を余所に、五十鈴さんは華麗なる発音で見事にこの難関をクリアした。


「どれにするんですか? 後ろつかえてますよ」


 五十鈴さんは笑っている。私が注文出来ないと分かっていたのだ。

 後ろの方のご迷惑になるのに、私は注文を決められないのでは無く、注文が分からないのである。


 犬に算数を教えるのと同じなのだ。どうしたって無理なのだ。


「すみません、同じモノもう一つお願いします」


 たった一言で全てを解決してしまう魔法の言葉。そんな単純な発想にも至れなかった自分を、私は顔から火が出そうな程恥じたのだった。

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