第5話 惑わせる女

「どうぞ」


 風呂上がりの良い香りを振りまく五十鈴さんは、麦茶と煎餅を正座する私の前に置くと、テーブルの上に置いてあった煙草の箱に手を伸ばした。


「吸っても?」

「どうぞ」


 自分の家なのだから、私の許可を取らなくてもと五十鈴さんに言うと「一応の礼儀です。今先生は先生をしているのですから」と甘い煙を吐き出しながら言った。


「煙草吸うんですね」

「意外でしたか?」

「勝手に嫌いだと思ってました」

「決めつけ、駄目ですよ?」


 煙を昇らせる五十鈴さんは私とテーブルを挟んで向かい合って正座すると、ガラスの灰皿に灰をふわりと落として

 から吸いかけの煙草を灰皿に置いた。


「色々と聞きたい事があるのでしょうが、今日はあの子の話以外は受け付けませんので」

「その本人が学校に来ず、今この場に居なくては話が進まないのですが。何を聞こうにも私は彼を見た事も無いので」


 そう言うと五十鈴さんはクスリと笑い、私の手元にあった麦茶を一気に飲み干してしまった。


「それ自分で飲むんですね」

「先生飲まないんで要らないのかと。まだ要ります?」


 じゃあと私がお願いすると、五十鈴さんはニンマリとした顔を私に近づけ、空になったコップを持って冷蔵庫に向かって行った。

 冷えた麦茶を注ぎ、コップを私の前に置くと、彼女はまたニンマリと顔を近付けた。


「ここ、私が口つけた所ですよ」


 五十鈴さんはグラスの縁を指で撫で、その指を自分の唇に当てる

 機械的な印象から一転、若い女性の雰囲気を醸し出す彼女に私は年甲斐もなく緊張してしまっていた。


 プライベートだからなのか、はたまた私をからかっているのか。どちらにしても、いつもの彼女とは違うその差は、この年のいった中年には余りにも刺激が強いのだ。


「本当に五十鈴さんですよね?」

「何かご不満で?」

「あまりにもいつもと印象が違いすぎているので、顔の似ている別人じゃ無いのかと」

「それが思いこみですよ先生。先生は私をどれだけ知っていらっしゃるのですか。あの喫茶店での私が私の全てだとでも? 居場所事に人格が変わるのは誰しもあるのでは無いですか」


 確かにそうだ、と納得はしたが、彼女の変わりぶりは完全に別人のそれだった。


 他人との関係に鋼鉄の壁を幾重にも張っているかの様な冷たさから一変、こんなにも距離を詰めてくる彼女を同一人物だと認めるなど、直ぐには出来ないし出来そうも無い。


 私に読解力が無いと言うのであれば、最早それは仕方が無い事なので甘んじて受け入れよう。

 だが、この問いに解があるのであれば、随所にその手がかりが残されていなければならない。


 昨日の段階ではいつもの冷たい五十鈴さんが、今日こんな女性らしさを醸し出す事となった原因がどこかに有るはずなのだ。


 私は何とか手がかりを探り当てようと顧みてみた。だが、こうなったと思われる原因が何一つ思い浮かばない。厳密にはいつもと違う事があったが、まさかあれが原因になる筈は万に一つも無いだろう。


 しかし、目の前で起こっている現象の解釈が、私の思い込みであるのならば、一つの答えが浮かび上がる。


 五十鈴さんのこの態度が好意的だと思っているのは私の思い込みであり、実際は彼女の反感を買っていて、嫌がらせの意味でこう言った対応をしてきたのではないか。


 ならば私のするべき事は一つだった。


「昨日はすみませんでした。何か不快にさせるような事を言ってしまったのですね」


 テーブルに手を付き深々と頭を下げると、暫くの沈黙の後、堪えきれなくなった五十鈴さんが声を上げてケタケタと笑ったのだ。

 怖かった。日常との差異がここまで大きくなると、人は恐怖を感じるのだと初めて実感した。


 例えそれが人間が行う常識の範囲での行動であっても、それが予測の付かない展開であれば、もう対処のしようが無いのである。


 生まれて三十九年、働き初めて十六年。学び初めてから学びを教える様になってまで、今の今までマニュアルという絶対的な存在に頼り続けて来た私では、目の前の女性が起こす次の行動を全く持って予測出来ないのだ。


「まさか怒っていると思われていたとは考えませんでした。先生、頭は直ぐに下げてはいけませんよ」


 五十鈴さんが優しい口調で私に言った。

 それに従い恐る恐る顔を上げると、柔らかい表情をした五十鈴さんがいた。


「素直に謝罪する心意気は尊敬出来ますけれど、それが責任逃れなら関心しませんね。先生のそれはどちらですか?」


 直ぐに答える事が出来なかった。この状況に対応出来ていない事もあるが、それに対する自分の答えが恥ずかしく思ったからだ。


「私は……」


 言い掛けた言葉を五十鈴さんが制止する。


「意地悪でしたね、先生は先生でした」


 五十鈴さんは煙草の煙を高く吐きながら、夜空の星を見て囁くように言った。


「教師である先生の言葉は、どれも正しくどれも程々に人に響くと思いますよ。でも、程々では納得出来ない人だっています。子供は特に、綺麗だったり正しい言葉を望んでいる訳じゃ無かったりするんです。間違っていても汚くても、教師じゃないあなたの、橘正志と言う人間の考えを聞きたいと、そう考えていたりするんです」


 五十鈴さんは、とても悲しそうだった。


 彼女は多分、今ここにはいない。今言った言葉は私の知らない誰かに向けてのモノだろう。私と言う例えを使い、伝えたかった言葉を今、空に上げてるのだろう。


 私には過去がある。彼女の倍近いであろう歴史が、私と言う中年の男の中で、鮮明に記録されている。

 そして彼女にも同じく、私とは全く違う過去がある。


 だが、その内容は濃密で、短くとも壮大な物語が語れるのだろう。

 星新一のショートショートの様に、たった数分で読み終えるのに、展開される世界を満足だと言い切れるような、底の深い過去があるのだろう。


 それに比べれば、私とは何なのだろうか。やたら長いだけの内容の無い、読めば一ページで閉じられてしまうような駄文の様な人生。


 私の人生はつまらない。そうハッキリと言える。

 何故ならば、私は誰かの為に、あんなに悲しそうな顔は絶対に出来ないのだから。

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