第4話 思いがけない訪問先
「これで最後なんだがなぁ」
流れる汗を拭いながら、私はそのアパート前に立ち尽くしていた。
前日の準備が項を奏したのか、家庭訪問は滞り無く進み後一軒を残すのみだった。
しかし、最後に残ったこの一軒こそが鬼門であり、平穏に過ごす私が持つ唯一の頭痛の種なのだ。
「渡世の奴、どこに行ったんだ」
沈黙を貫く扉を前に、私は鳴っているのか分からないインターフォンを幾度と無く押した。
さらに迷惑にならない程度に扉をノックし、私がここに居る事をアパートの住人全員に聞こえる声で叫んだ。
ここまでする義理も責任もないのだが、私は渡世カイトと言う生徒の事を何も知らない。
と言うのも、この生徒は今年編入してきたのだが、まだ一度も登校してきた試しが無いのである。
何故転校して来たのか理由は定かでは無いが、普通で無い事は明白だった。
その様な人間が起こす行動と言えば、クレームに置いて他に無い。
都会の学校に赴任していた頃に、嫌という程浴びせられた罵詈雑言。その大半が対した内容も無い、もしくはこちらに非が無いものなのだが、電話の向こうで猿叫する保護者様には非の在処など知った事では無いのだ。
自分の意見が通らない事が腹立たしい、そしてその責任はお前だと、独裁者ばりの妄言でまくし立て、ルールに雁字搦めにされている聖職者が反論出来ない事を良い事に、自分が満足するまで喚き散らすのである。
そんな都会生活で身に付いた技が、言い訳出来る様に事実で固める事であった。
自分はやるべき仕事を全てやりきったと言える様に、そしてそれを後押ししてくれる目撃者をつくる。
完全に目的を見失った行動だが、人間を相手にする仕事に付く者には必須の能力だと私は考えている。
私の様に安定した生活に逃げ、毎日を無難にこなす教員からすれば、この仕事は大した事は無い。だがそれは本来の私達教員が行う仕事だけの話であって、実際の所その仕事の殆どは保護者からのクレーム対応で一杯一杯なのだ。
都会の学校で嫌と言う程処理させられたクレームを、この田舎の学校でも体験したくは無い。
もう、面倒事などこりごりなのである。
だから私は渡世がクレーマーであった時の対策として、確実にインターフォンを鳴らし、もしクレームが入った時アパートの住人の証言を得るためこの暑さの中声まで張ったのだ。
「もう十分だろう」
不在を確認した私は鞄に携帯していた水筒の中身を飲み干し、頬を伝う汗をタオルで拭った。
後は今日の記録をまとめてしまえば、この夏の仕事は終わりで、私は早々に余ってしまった今日の午後をどう過ごすかを考えた。
「五十鈴さんに会いに行こうかな」
昨日気まずい雰囲気で別れてしまった為、少し行き辛くあるが、五十鈴さんの事だから気にもせずいつもの様に無愛想に接客してくれるだろう。
残りの仕事は帰ってからすれば良いと、私がドアに背を向けたその時、ドアの向こうで足音が聞こえた。
気のせいかと思ったが、足音は次第に大きくなり、ドアの前までやってくると、乱暴に鍵を空け、開かずのドアは軽快に私を迎えたのだった。
「すみません先生、シャワーを浴びていたもので」
「……五十鈴さん?」
「馴染みの顔に確信が持てませんか?」
私は動揺し、飲み干した水筒に口をつけ、中身が無いと分かっていながら飲むふりをしていた。
シャワーを浴びていたと言っていた五十鈴さんは、ほかほかとした湯気を上げながら、濡れた髪をそのままにタオルを首から掛け、無地の大きめの白いTシャツ一枚と言うだらしのない格好で表に出てきていたのだ。
大きめのシャツは五十鈴さんの太股まで隠し、そこには未知の空間が創り出されていた。
何故五十鈴さんがここに居るのかと質問したかったが、今の私にそんな事を聞いていられる余裕は無かった。
「家庭訪問でしたね、どうぞ中へ」
頭がこんがらがっている私と違い、五十鈴さんは当たり前の事を当たり前に言った。
マニュアルに慣れ親しんだ中年は、突如やってきたイレギュラーに対応する術を知らず、あられもない姿の顔見知りと何から話せば良いのか分から無いまま、ドアの中に吸い込まれてしまったのだった。
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