第3話 偽りの流星
「まぁ、何とかなるかな」
その日の夜、私は身体の疲れを実感しながらベランダで煙草を吸っていた。
あの後、私は直ぐにクリーニングに出したスーツを引き取りに行き、それを家に置いた後、息を切らして床屋に駆け込んだ。
都会ならばこんなに焦る必要が無いのだろうが、この町の床屋は店を開けたままどこかに行ってしまう事が珍しくない。
スローライフを憧れる若人は一定数いると思うが、組織に属している人間からすると、時間にルーズな環境はたまったものでは無い。
現に私が駆け込んだ時には、床屋の店主は釣り竿を片手に出かける寸前だった。
頻りに後でと言う店主に拝み倒し、何とか髪を整えて貰えたのは本当に幸運としか言いようがない。
散髪を終えると首筋がチクチクと気になったが、急ぎの用を済ませた安堵から、肩に鉛が乗った様にどっと疲れが押し寄せ、私は帰るなり直ぐに横になって眠ってしまい、目が覚めた時には辺りはもう真っ暗だった。
それから明日の準備をし、生徒宅のルートを再確認して今に至る。
正直、この家庭訪問の日程はどうかと思う。
学年主任曰く、一日あれば生徒の生活は激変し、二日目にはそれが定着してしまう。生活態度を指摘するならば、休みの二日目が最善らしい。
尤も、本音はもし面倒事があった場合、その処理の対応をしたく無いからだろう。
長期旅行に出て行った学生主任が帰ってくるのは、八月に入ってからだ。
仕事だが、調査の真似事をするのはいい気はせず、私は適当な理由を付けて、電話で済ましてしまおうかと本気で考えていた。
この町の人間は大らかであり、悪く言えば適当なのだ。
例え教師が夜遊び回ろうが、授業に遅れようが、都会の様に電話が鳴り止まなくなるなどと言う事は無い。
ふと道端で会った時に、あの時はどうのこうのと半分笑い話にして伝えてくるのである。
田舎は不便だが、この人の大らかさには、私は随分楽をさせてもらっている。
だから電話で済ませようとも、騒ぐ保護者はいないだろう。
「さて」
そろそろ寝ようかと電気を消した時だった。
私の耳が、何かの弾ける様な音を拾ったのだ。
気のせいかと思ったが、それは不定期に何度も町に響き、音は月の光も射さない町を覆う山から聞こえていた。
「何事だ?」
気になり、私は寝間着のままアパートから出た。
他にもチラホラと音を耳にした人たちが表に出ていたが、目を合わせ会釈をするだけで会話をする事は無かった。
私は山を見た。
別段何かが住み着いているとか、霊力があるなどと話を聞いた事は無い普通の山。
寺や神社などは無く、あるのは農家が育てているみかんの木と、都会とこの町を繋ぐ意外と綺麗に舗装された峠道。そして五十鈴さんの喫茶店があるだけである。
その音は峠道を移動している様で、絵の具で塗りつぶされた様な真っ黒な山から、チカチカと輝く光が凄い速さで移動していた。
「暴走族かな」
車かバイクか分からないが、街頭も無い真っ暗な、しかも落石も落ち葉も多い道を夜に飛ばすなど、命知らずも良いところである。
都会から流れて来たのだろうが、今夜限りの事だろう。
走りやすい道は他に山ほどある。わざわざあんな道を走ってもつまらない筈だ。
私は長くて一時間の我慢だろうと家に入り、寝床で音が消えるのを目を瞑って待った。
ああいう輩はごく希に現れる。去年の今頃にも、一日だけ現れた事を私は思いだしていた。
幾つもの光が山を駆けめぐり、随分と距離がある筈なのに、独特な甲高い音が響き渡って、町の人たちの大半が叩き起こされていた。
皆迷惑そうな顔で文句を言っていたが、その中で私は一人、その光景に感動していた。
赴任して来たばかりで、何もない町にウンザリしていた私には、峠を駆け抜ける光がまるで地を行く流星に映ったのだ。
綺麗とは言い難く、眠りを妨げる音は気に食わなかったが、着実に前に進み光の尾を伸ばす姿は、力強く、消えたくないと必死で抗議している様で、同じ毎日を繰り返していた私は、少しの元気と刺激を貰ったのだ。
あの時の心境は、遊園地に連れて行って貰った子供に近いだろう。
非日常が目の前に現れた事による期待。
だがその期待は長くは続かなかった。
子供と私で違う事。あの心境を持続出来ないのは、私が同じ経験を幾度と無く体感し、現実に反映出来ないと知っているから。
退屈だが面倒事の少ない生活の居心地の良さ。そして、今の生活を打開する一歩を踏み出す気も無かったから。
セメントで固められた様な頭の中には、安定した生活がギッシリと詰め込んであり、現状打破などと言う言葉が割り込む隙間などあるはずが無く、その気持ちが一過性であるに過ぎないと早々にシラケ、流星の終わりを見る事は無かった。
今日現れたあの光は、去年現れた光と同じなのだろうか。
しかし、同じだろうと違おうと、大した差など無い。
あの光は本物の流星と同じなのだ。
ただ流れるだけ、願いを叶えたりはしない。
現れて消えるだけのものに、自分の願いを唱えるなどと、そんな迷信を信じるには、私は歳を取りすぎているのだ。
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