第2話 進まない男
「やっと夏休みですね」
「ええ」
蒸し暑い空気が遠くの景色を歪ませ、冷房の利いた部屋が、蝉の声でおかしくなりそうな頭を幾何か冷静に保たせてくれていた。
「待ってましたよ、長かったぁ」
同僚の木下は大きく体を伸ばして、聞いてもいない日々の愚痴を私に話し始めた。
「いや本当、今のガキって生意気で腹が立ってしょうがないですよね。ちょっと言い間違えたらすぐ揚げ足取って、馬鹿は何回注意しても馬鹿のままだし、女子なんて私をババア呼ばわりして来るし。あのムカつく日常から解放されたと思うと清々して、こう、叫びたくなりません?」
「なりません。それに、授業が無くても研修があるんだから、我々に夏休みも関係無いですよ」
「そこはですよ、有給を上手く使ってますから。校内研修は仕方ないですけど、外部研修に当たらない様にしてるんで、私的には問題無しです。校内研修は出なくても何も言われませんからね、この学校は」
「まぁ、田舎ですからね。都会の学校に比べれば、皆やる気もありませんし」
「そもそも、校長教頭学年主任が旅行でいないのに、研修なんて何するんですか? 夏休みの私の仕事は家庭訪問のみです。それ以外する気はありません」
「木下先生、まだ私ここに居るから。その宣言は私の居ない所でお願いしますよ」
苦笑いの学年主任に、若さと顔の良さを理解した上での笑顔で、ふざけながら木下は謝罪した。
二十三歳の彼女は、社会的には大人でも、私と同じく子供のままなのだ。
「それで、橘先生はこの夏どう過ごされるんです?」
「僕ですか?」
何故彼女がそんな事が知りたいのか、いや、只のコミュニケーションの一環なのだろうが、私は必要の無い情報を聞きたがる理由を探してしまった。
「まぁ、普通ですよ。研修に出て、休みはゆっくり過ごす。特別用事はありませんね」
「へー、そうなんですね。てっきり予定をがっつり詰め込んでると思ってました。彼女とか」
「居ませんよ。こんなおじさんに構ってくれる女性なんて」
「そうですか? 絶対居ますよ。橘先生見た目若いし、清潔感あるし、話し方も丁寧で、こう、大人の男性って感じが出てますから」
大人と言われ、私は否定しそうになった。
だが、直ぐに思い直し、波風を立てない無難な答えを返した。
「偶に言われますね。でも不器用なんで、女性とのお付き合いは慎重になりすぎるんです。そしていつも機会を逃して、この年までズルズルと」
「言われて見るとそうですね、橘先生自分から告白とかする性格に見えませんし。でも、女性が嫌いって訳でも無いんですよね?」
「人並みですよ。そういう女性が居れば良いなって程度で、絶対に結婚したいとかは余り考えませんね」
「それじゃあ、誰かに告白されれば、それはOKって事ですか?」
「いや流石に、その人を知らないと何とも」
「先生って年下の子に好かれると思うんですよ。その告白してきたのが知っている年下の子だったら、何も問題無いんですか?」
「木下先生、僕の恋愛事情がそんなに気になります?」
「あー、人並みに?」
「確かに好いてくれるのは嬉しいですけど、流石に女生徒に手を出す勇気は僕にはありませんよ。恋とかより先に理性が前に出てしまって、必要以上に格好付けると思いますし」
そう答えると、木下は小さな声でボソボソと何か呟いた。
彼女が何を言ったのかを考えてみたが、考えるだけ無駄だと割り切り、私は自分の仕事に戻った。
恋など、もう何年も経験していないこの枯れた男には、女性の考えなど分かるはずも無いのだ。
○
「それは先生に気があるからですよ」
「まさか、僕に? もうすぐ四十だよ」
次の日、早速溜まった有給を使わされた私は、する事も無く、かと言って蒸し暑い部屋に篭もる事も嫌で、時々顔を出す山の中の喫茶店に午前中から居座ろうと家を出た。
玄関を出た瞬間、文明の有り難さが肌に染み、昨日まで貶していた古い冷房の存在が、如何に自分にとって大切なのか感じていた。
これは夏場に陥る私のルーティンであり、何も学習出来ない私を象徴する思考だった。
汗でも透けない黒のシャツは、太陽光を吸収し、信じられない程の暑さになり、数百メートルの道程で茹だった私の頭は、冷房と水以外何も考えられなくなっていた。
足取りも重く、店の姿が見えた時には、私はオアシスを見つけた遭難者の如く、残った体力を絞り出し、いつまでも治らない謎の痛みを抱えた膝を酷使してまで走ったのだった。
古い小民家を改装した喫茶店は、店構えもメニューも至って普通である。
むしろ、特別な何かを持っていないこの店は、今の時代には珍しい事だろう。
よくテレビなどで、閑散とした山奥の客足が途切れない店を紹介しているが、ここにそんな取材が来る機会は無いと思う。
だが、いつどこで儲けているのか、私以外の客の姿を見た事が無いこの店は、平穏な心で遠くの海を眺める事の出来る、私にとっては秘密基地の様な、一人静かに時を刻める特別な場所だった。
「堅いんですよ、頭が。それとも只の馬鹿なのか。女性が、それも年下の同僚がそんな質問をすれば、男なら大凡察します」
「君はいつも、キツい言い方をするね」
「作者の思考を読みとれと年中宣ってらっしゃる先生が、さらけ出されている女性の好意に気が付かないのですから」
五十鈴さんはいつもの様に、私が座るテーブルを向いて、カウンターに肘を置き携帯をいじっていた。
彼女はこの店の店員で、オーナーは別にいるらしいのだが、この店で彼女以外の姿を私は未だ嘗て見た事が無い。
それが理由なのかは分からないが、彼女の接客態度は定員のそれとはかけ離れていた。
私は気にはしないが、他の客が来た時も彼女はこうなのかと考えると、この店の先行きが不安になる。
不憫には思うが、常に店を空けているオーナーにも責任があるだろう。いつ潰れてもおかしくないこの店に、いつまで通えるかを考えながら、私は彼女が勝手に持ってくるコーラに口を付けるのだった。
「話を変えるけれど、何故いつも注文する前に持ってくるんだい? 僕にも選択の余地があると思うのだけれど」
「ええ確かに。しかし、それ以外を注文しますか? 先生に別のものを注文する度胸は無いでしょう?」
「注文に度胸も無いと思うのだけれど」
「先生は変化を望まない人ですから。証拠に私が勝手に持って行っても、何も言わないじゃないですか。それは先生が何も拘りが無く、後腐れ無く済めば良いと考えているからで、他人から強く押されれば断る理由も考えない流される人間だから、つまり根性無しなんですよ」
五十鈴さんは変わらず携帯をイジりながら「私も楽ですし」と言い、私は彼女に一切言い返せない事実に、密かに衝撃を受けていた。
この店に通いだして一年になる。五十鈴さんは最初からこの調子であり、私を客として見た事が無い。
彼女と交わす会話はほんの僅かで、私は一年の付き合いがある彼女の事を何も知らなかった。
私が一歩彼女に近づきさえすれば、少しは彼女を知るだろうが、私は今の関係に満足し、自分で距離を線引きしていた。
肩まで伸びる髪をどこで整えているのか、エプロンの下の毎日変わる服はどこで買っているのか。聞くのは失礼だろうが歳は幾つなのか。
この他にも一年の間に聞けた話は山ほどあっただろう。 だが私は変わってしまうかもしれない関係を拒み、一年もの間、時間の進みを止めたのだ。
怖かった訳では無い。私は変わるであろう関係に対応出来る自信が無かったのだ。
「話を戻しますけれど、先生はその同僚とどう成りたいのですか?」
「まだ続けるんだ、その話」
「ええ、面白いじゃないですか。格好付けの中年なのか、はたまた勘違いが過ぎるおじさんか。どっちに転んでも私は楽しめるので」
「以外とそんな話が好きなんだね」
「いえ別に。それを相談してくる先生が面白いだけで、その同僚の情報を聞く気はありません」
「……そう」
「それで、どうするつもりですか?」
質問をされても、私は何も返す言葉が出なかった。
私は木下とはどうにも成りたくは無い。近づく事も離れる事も選択したくないのだ。
その旨を伝えると、彼女は小さな声で「つまらない人」と、単純だが刃物の様に鋭い言葉を呟いたのだった。
「仕方がないだろ? 僕にはどうする事も出来ない。仮に彼女が僕に気があったとして、こんなおじさんと一緒になっても不幸なだけだ。かと言って、彼女の意志を否定する権利も僕には無い。その内彼女は飽きるだろうから、それまで下手に触らない事が最善なんだ」
「最善? それはそれは、ご立派なお考えで。いい大人の考えそうな模範的な答えですね」
「……その大人って呼ぶのは止めてくれないかな? 嫌いなんだ。歳で区別されるのは」
「どこに不都合が? 先生はいい大人であって、それに見合った答えを出しました。良いものだけを追い求めるのは大人の性です。ですが、それが人の求める答えでは無いとまでは分かっていない。……傷ついても構わないと、本気で考える人もいると、先生は知らないんです」
少し顔に陰りを見せ、声も低くなった気がした。
いつもと違う彼女を眺めていると、それを隠すように五十鈴さんは今日はもう閉めると言い、私を店から追い出した。
最善を求めるだけが答えじゃない。
五十鈴さんは私に、何を伝えたかったのだろう。
彼女の不思議が、また一つ増えた。
呼吸をすると夏の香りは濃霧の様に蔓延り、夜の匂いにはまだ暫く時間が掛かりそうだった。
旋毛を燃やす太陽は、夏休みだと言うのに仕事熱心で、私は早く夏バテで倒れれば良いのにと思いながら、また年寄りには辛い道程を息を切らして歩を進める。
暑さで呆けた頭で、この後何をしようかと考えてみると、明日が家庭訪問の日であった事を思いだし、私は自分の歳も忘れて全力で家に帰ったのだった。
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