ダイヤモンドの代償

のざわあらし

ダイヤモンドの代償


 世界が滅亡する様を目の当たりにしているようだった。

 正午過ぎの太陽は暗雲で遮断されていた。全てを押し流すかのような暴風雨も吹き荒れる。そして暴力的な勢いで鋭い落雷が地表に降り注ぐ。

 東京二十三区を爆撃している雨の量は一時間に百ミリを超す勢いらしい。気象庁は不要不急の外出自粛を呼び掛けた。地上を走る公共交通機関はことごとく運行を取り止めている。

 観測史上に残る日曜日は俺が待ち侘びていた運命の日だった。



 一本の木さえも生えていない近所の公園の中心で服と靴を脱ぎ捨てる。唯一残った白いブリーフ上には弛んだ腹が乗っている。我ながら完璧な身体作り。貧相な体型はネタの敵だ。

 衣装の準備が済んだら次は撮影機材だ。防水処理をしたスマホを三脚にセットし画角調整を済ませると配信開始ボタンをタップする。

 最後に小道具の出番だ。抱えてきた物干し竿を最大限に伸ばし両手で抱える。目印・・の完成だ。

 一瞬の明滅。そして轟く遠雷が始まりの合図を告げた。



「リアクション芸人にとって鼻水はダイヤモンドなんだよ!」


 偉大な先輩が唱えた格言を人生の指針にしている。

だからこそ俺は意識的に鼻水を垂らせるよう努力した。人目に触れる機会を得た時に常に最高のリアクションを取るためだ。養成所の同期生から冷めた目で見られても試行錯誤と特訓を欠かした日は無い。


 いつしか俺は自在に鼻水を出せる技を会得していた。

 原材料は心の痛みだ。

 胸の奥に隠した傷口をえぐり出しモルモットのように鼻の頭を小刻みに震わせる。すると自然に鼻水が垂れ下がってくる。

 秒速で思い出せる経験なら何だっていい。例えば買ったばかりのBluetoothイヤホンを洗濯機に入れてしまった悲劇。鳥籠から出していたピヨヒコが窓から飛び立ち“迷子鳥”のポスターを貼って回った帰り道。好意的な反応を一切得られなかった合同ライブのアンケート。ゲスト出演した芝居の稽古で台詞を何度も飛ばし演出家から靴を投げ付けられた屈辱。

 意識を一瞬だけ過去に向け傷口を探してこじ開ける。そして垂れた鼻水をリアクションに重ね合わせる。これぞ同業者の誰にも明かしていない秘伝のレシピ。ダイヤモンドは人生の積み重ねの結晶だ。



 雨は頭蓋骨を穿うがつ勢いで降り続き一向に収まる気配を見せない。全ては相方の仕業だ。

 今日俺は芸歴八年目にしてピン芸人からの転向を果たした。相方は地球だ。コンビ名は決めていない。

 温暖化のせいだか何だか知らないが相方はご機嫌斜めだ。俺は一向に構わない。無茶振りにも全力で応えるのが相方の務めだろう。


 稲光と雷鳴の一つ一つにリアクションを重ねていく。耳を塞ぎ身体を震わせ天変地異に恐れる姿を晒け出す。

 だが鼻水はまだ出すべきでない。最初から全力を出せば全体的なメリハリに欠けるし演技臭さが表に出てしまう。まずは平気な調子を装い徐々に加減を強めていく。カメラの画角に収まる程度に大袈裟な仕草を取りながら落雷の接近をただ待つ。ライブやバラエティ番組の収録と同じ。輝きを見せるには時期尚早だ。

 俺は暗雲を貫く勢いで物干し竿を掲げた。

 見えるか。これが目印だ。遠慮はいらない。そろそろ本気で掛かって来い。



 深夜帯のバラエティ番組でベタな企画に耐え忍ぶ度に名前と顔が売れた。釣られてショート動画の再生数も伸びた。揚げ立てのエビフライを口に挿れられた程度で五百万再生を突破した時には思わず拳を突き上げた。その際のダイヤモンドの種はエビフライの熱さではなく“一家の恥晒しだ”と家族から縁切りを宣告された瞬間だった。人気と親戚が同時に増えるジンクスは俺とは無縁のようだ。


 心地良い追い風は一瞬で向かい風に変わった。唯一の準レギュラー番組の打ち切りが唐突に決まった。大々的な番組改編で新設が決まった深夜ドラマ枠に潰されたらしい。

 テレビ以外の活動にも暗雲が立ち込めていた。ライブの集客も捗らなくなりからのパイプ椅子を見る日が増えた。収益化の条件を満たしたばかりにも関わらず動画の再生回数は最盛期の十分の一以下まで減少した。


 芸人としての稼ぎは激減。主な収入源はスーパーの品出しに逆戻り。何が本職かも曖昧になった行き詰まりの先で俺は思い至った。

 ぬるいんだ。生き方も。考え方も。何もかも。

 もっと自分を追い込む必要がある。芸人生命──いや。生命を賭けるほどの経験が欲しい。正真正銘ヤラセ無し。本物の極限状況に置かれたリアクションから生まれるダイヤモンドこそが真に俺を輝かせてくれるはずだ。

 最大級の絶望を与えてくれる状況について俺は考えを巡らせた。パスポート以外を取り上げられた状態でジンバブエから自力帰国。インストラクターの同伴無しで米軍ヘリからHALOヘイロー ジャンプ。現役強豪プロレスラー相手に電流爆破デスマッチ。全て不可能だ。個人にできる企画なんてたかが知れている。テレビ局の企画力の有り難みが身に染みた。

 とにかく現実的なアイデアが欲しい。脳に電撃が走るように突然何かが降ってくれれば──。

 何気なく脳内に流れた慣用句こそが求めていた答えだった。




 稲光と雷鳴のタイムラグは限りなく小さくなっている。光速と音速が重なる瞬間が近付いている証拠だ。

 だが体力の限界が迫っていた。倒れるにはまだ早い。その時・・・が訪れるまで立ち続けなくてはならないのに。

 かつてない強さで脈打つ心臓は肋骨をし折って飛び出しそうだ。豪雨に打たれ続けて冷え切った全身が小刻みに震える。顎を食いしばると石を噛み砕く感覚があった。きっと奥歯が削れたんだろう。それに三十分ほど前から足の感覚が消えて痛みすら感じない。本当に三十分前だったかもわからない。錆び付いた頭にとっては痛覚どころか時間の感覚さえも曖昧だ。

 違う。迷うな。甘えるな。限界なのは身体ではなく我慢だ。とっくに準備はできている。


 破滅的な願いを込めて俺は天を仰いだ。

 空を覆った頭上の暗雲が白く煌めいた。

 興奮が脳を突き動かし意識が暴走した。滝のように降り注ぐ雨粒に煌々こうこうと輝く暗雲。全てが静止したような世界に紫色の輪郭を帯びた稲光が現れた。

 ついに来た。カメラに顔を向けろ。俺の姿を映し出すんだ。

 心を抉れ。今の俺は本物の絶望に見合う心の傷を知っているはずだ。



 何よりも深い心の傷とは孤独を超えた先に生まれる。癒しも慰めも不要だ。だから俺は彼女から──絶対的な味方から自分を遠ざけた。

 以前バイトしていた居酒屋で出会った彼女は非常に出来た人間だった。汚れ芸人に文句を言わず付き添う異性なんて物好きか聖人のどちらかだろう。後者に巡り会えた俺は間違いなく恵まれていた。どれだけ失敗続きでも肯定を重ねる彼女の存在は俺に残された最後の拠り所だった。



 ある日俺は彼女に秘伝のレシピ・・・・・・の正体を話してしまった。芸の話を立ち入ってする機会は初めてだった。酔いが回り過ぎて口を滑らせたらしい。

 彼女の肯定に心配が混ざるようになった。“頑張って”の一言に変わり“無理をしないで”と言われる機会ばかりが増えていった。絶え間なく浮かべていた笑顔は深刻な表情に塗り潰されていた。

 やがて仕事を全てキャンセルし長期休暇を取るよう薦められた俺は思い立った。切り出すタイミングは今だ。

 休む余裕なんか無い。心配を重荷に感じる。もう構わないでくれ。取って付けた理屈を一方的にまくし立てて俺は彼女を部屋から追い出した。

 かくして大粒のダイヤモンドの種が生まれた。


◇



 地上に降り注ぐ雷雨は、勢力を弱めながらもなお続いている。ガラス窓に衝突する雨が奏でる一期一会の旋律は、きっと芸術的な響きを放っているのだろう。そんな奇跡の演奏も、布団の中に封じ込めた俺の耳には届かない。


 結局、俺の避雷針は相方に無視され、公園に程近い街路樹に直撃した。その直後、土砂降りの中で放心状態に陥っていたらしい俺を自宅に引き連れてきたのは、二度と会わないと思っていた元彼女だった。俺の配信を目にし、よく見知った撮影場所だと気付いたという。

 促されるままシャワーで温めた身体に厚着を纏い、寝慣れた万年床に全身を潜り込ませた。公園を覆った暗雲の下よりも仄暗い布団の中で、俺は左胸を抑え早まったままの鼓動を感じていた。漠然とした意識とは無関係に、身体は積極的に命を繋ごうとしていた。


 暗闇がもたらす安堵感で心臓の拍動が収まり始めた頃、掛け布団越しの肩に重くて硬い何かが当たる感触がした。ゆっくりと布団から上半身を起こして確認すると、肩には俺のスマホ、枕元には無言で立ち尽くす彼女の姿があった。

 彼女は俺に何かを催促しているような素振りを見せていた。心当たりは一つしかない。俺は布団に埋もれたスマホを握り締め、撮り立てのアーカイブ動画を再生した。


 何度も再生停止ボタンを押したくなる程、動画は酷い内容だった。

 画面の中の俺は、終始身体を震わせながら訳のわからない言葉を発していた。声は全て雨音と雷鳴に掻き消されてしまい、スマホのマイク程度の性能では一言も拾えるはずがなかった。

 そして、遂に落雷が来たと確信した瞬間。閃光と爆音が支配した時間の中で、俺は何よりも、誰よりも強く輝くはずだった。

 実態はまるで正反対だった。俺は待ち望んでいた状況の中で、ただ物干し竿から手を離し、頭を抱え、弱くて惨めな姿を曝け出しただけだった。渾身のダイヤモンドなど一欠片たりとも見えやしない。そもそも、雨で濡れた顔に付着する雨と鼻水の区別が、簡単に付くわけもない。徹頭徹尾、何から何までが失敗していた。“相方”は何の感想もくれそうにない。


 なおも続く映像から目を離し、俺は恐る恐る彼女の顔を見た。掛けなければならない言葉の量は数えきれない。いざ口を開こうとすると、彼女の言葉が俺を制止した。



「全っ然面白くないから」



 哀れみの込もった掠れ声を残すと、彼女は俺に背を向けた。

 引き止めようと声を出そうにも、何も言葉が出て来ない。疲弊しきった両脚には立ち上がる力さえ残されておらず、ただ濡れた後髪を目で追うことしかできなかった。

 玄関のドアが無慈悲に閉じる。代わりに訪れたのは、かつて俺が望んだ孤独だった。


 心身のやり場に迷った時にスマホを頼る俺は、どうしようもなく現代人だったらしい。


 親指を滑らせてロック画面を解除すると、動画の再生を終えた直後に現れる関連動画集が現れた。そのサムネイル画像の中に、とりわけ目を引く中年男性の姿があった。

 本能の赴くまま、俺の人差し指が彼の鼻元をタップした。過酷な海外ロケに挑む偉大な先輩の姿を映した、冠番組のダイジェスト動画だった。


 晴れ渡る空と透き通った海が映えるリゾート地の海岸で、彼はすっかり浮かれきった姿を見せていた。ところがゲストの俳優が近付けた小さな蟹のハサミが鼻を捉えた瞬間、顔面をしわくちゃに崩しながら鼻水を垂らし始めた。照り付ける太陽を浴びたそれ・・は、常々彼が言っている通り、ダイヤモンドのような輝きを放っていた。

 一見すると滑稽でみっともなく、でも可笑しくてたまらない彼の仕草は、どんな痛みや苦しみさえも洗い流せそうな笑いを振り撒いている。

 そんな姿に憧れて、俺はリアクション芸人を志したはずだった。


 ならば、いつから俺は間違えたのか。


 彼が放つ輝きは、誰かを照らす光だからこそ代え難い価値を持っていた。俺はどうだ。誰かに笑顔を届けようとする芸人の根源的な意思を、どうして忘れ去ってしまったのか。最後に人の笑顔を見た日はいつだろうか。単なる自己満足の為、積み重ねてきた自分の傷を無駄に晒して捻り出した鼻水に、一体何の価値があったというのか。どれだけ絶望的な状況に自分を追い詰めたところで、彼と同じ輝きを生み出せるはずもないのに。


 鼻の下を流れるぬるい感触と同時に、頬を二筋の雫が伝った。天井を見上げても雨漏りの気配は見えない。それが長年き止めていた感情が蓄積した果て、ダイヤモンドを得ようとしたために支払うべき代償だと、俺はすぐに気付けなかった。

 目と鼻から延々とこぼれ落ちるもの、そして喉から溢れ出した嗚咽を、布団の端で抑え付ける。

 雨はまだ降り止まない。




<完>

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