第19話
あまりに大きいものだから、それがあのコリッとした軟体生物だと、すぐには気がつかなかった。
シロナガスクジラよりもはるかに大きなそのイカは、宇宙を優雅にただよっている。そのうすく地球を包みこめてしまえそうなヒレは、宇宙に満ち満ちたダークマターをかくように動く。
その太い、天の川のような触腕は、絶えず宇宙をかき混ぜ、星々を衝突させる見えない力を生み出していた。
「あれが、神様……?」
「たぶん。言い伝えでは神がいる、というだけで実際に見たヒトはいませんでした」
「どう見たってイカだよねえ」
「イカですね」
わたしとプリンちゃんの考えが一致したところで、わたしは気がついた。
渦の中心は、あの超巨大イカの口にあった。今まさに、刷りばりをぐーるぐるとすべり落ちていった、橙色の浮きが、土星ほどの大きさの口に吸いこまれていって消えた。
「あれがわたしたちの未来かあ」
「よく冷静でいられますね」
「冷静って言うか、なんだか夢見がちってだけ。それよりなんとかしなきゃ」
わたしは、手すりの根元にひっかかっていた旧神の印(コピー品)を拾って、渦へとほうり投げた。
ぼちゃんと沈んでいった石は、驚異的な吸引力によって、瞬く間にイカの胃の中へとすべり落ちていった。
それだけだった。
「効果なし、と」
「あ、相手は神様ですから!」
「でも、どうしよう……このままだとわたしたち、アイツのおなかの中だよ」
渦は次第に勢いを増している。もう、渦の中ほどまでわたしたちは滑り落ちてきていた。
ボロボロの船の破片が水に飲まれて、イカの口の中へと次々消えていく。いつかは、あのがれきたちと同じような末路を、わたしたちもたどるのだろうか。
その中にゆったりと漂っているものが見えた。
それは樽であった。
ヒトが二人くらいは入れそうな大きな樽は、もとは飲料水を入れていたものだったはずだ。それがぷかぷか流されるままになっている。その横を、カラフルな浮きがすうっとすり抜けていく。
それを見たとき、一冊の本のことを思いだした。おじいちゃんの本棚にあった、本。
――その登場人物も、こんな大渦に巻き込まれて。
「そうだ!」
「な、なんですか。いきなり頭に豆電球がついたみたいな声出して」
「ついたんだよ! プリンちゃん、樽ってどこにあるのか知ってる?」
わたしの疑問に、プリンちゃんは不思議そうに首をかたむけた。
わたしが読んだその本は『メエルシュトレエム』という、ハンドルネームにしたいくらいカッコいい名前のもの。ある男が大渦に飲みこまれたときのことが書かれている。その大渦というのが、タイトルのメエルシュトレエムである。
そういえば、プリンちゃんはさっき渦のことをメイルシュトロームって言ってた気がする。もしかしたらおんなじのを言ってるのかも……?
そんなわけないよね。
それよりも、そのメエルシュトレエムだけど、わたしたちが飲みこまれようとしている大渦と変わらないくらい大きかったとわたしは思っている。
「その本の中で、登場人物は
「樽に?」
わたしは頷いた。小さい頃はどうして助かったのかわからなかったけれども、実際に見てみるとわかった気がする。
球体に近ければ近いほど、速く流されてしまう。逆に球体からかけ離れると、流れるのがゆっくりなんだ。
「だから、樽なら流されるのもゆっくりなんじゃないかな」
「それで大渦が消えるまで待つ……ということですか」
わたしはおおきく頷いた。自信があるわけじゃないけど、あんなデカブツにアンカーを刺すようなことをしたって意味があるとは思えない。
だからといって、このまま神様のごはんになりたくもない。
「とにかく、やれることはやってみよう。このままイカに食べられるのも、樽に入って食べられるのも、ほとんどいっしょだし」
「それについてはワタシも同感です」
プリンちゃんが目をつぶる。スッと上げた手をワイパーのように動かせば、ポンポンポンっと樽が次々生まれてくる。
あっという間に、甲板は樽まみれ。憔悴しきっていた船員たちも驚いている。
「すみませーん。信じられないかもしれないですが、この樽に乗ってください」
わたしが言っても、だれーも動いてくれない。みんな、コイツ誰だって顔してるし、なにより、そんな他人の指示を聞けるような顔をしていなかった。
でも――。
「みのりの言うとおりに! ほら急いで!」
プリンちゃんの一声に、船員たちはいっせいに動き始めた。これが人徳ってやつなのか。あるいは、プリンちゃんのかわいい見た目からは想像できないほどのカリスマがそうさせるのかも。
船員たちはガタガタ震える船上で、すっころびながらも、一人また一人と樽の中へと入っていく。
「それから、海に飛び込んで!」
そう言われたときには、プリンちゃんの命令であっても、船員たちはとまどった。最終的には、わたしたちのをのぞくすべての樽が、原初の宇宙みたいに泡立つ渦の中へと飛び降りていった。
静かになったウツロブネに残っているのは、もはや、わたしとプリンちゃんだけ。
「みのりはどこに」
「もう入ってるよ」
わたしは、最後の樽の中からプリンちゃんに手を振る。プリンちゃんは、ほっと胸をなでおろすようにして、こっちへとやってくる。
その前に、ちいさく頭を下げた。この船に対して、感謝を伝えるかのように。
それから、プリンちゃんはちょっと心配になるような足取りでこっちまでやってきた。
「大丈夫……?」
「ワタシのことはいいですから、この樽を」
やっとのことで、プリンちゃんは樽の中に入っていった。ちょっと心配だけれど、今は船から降りなきゃ。
入れ替わるようにわたしは樽の外へ。
ウツロブネは今にもバラバラになってしまいそう。揺れは大きくなり、帆を失ったマストが悲鳴を上げながら、倒れていく。
そうこうしているうちにも、船の頭としっぽがさがって、胴体が上がる。バキバキ床が裂け、船は胴体から真っ二つになっていく。
「うわっとと」
わたしは、今やほとんど垂直の甲板を転げ落ちるようにしながら、樽の中へと滑りこみ、フタをする。
強い衝撃。
中は二人が膝をつき合わせられるだけの広さがあった。でも、そのおかげで、わたしとプリンちゃんはピンボールの球よろしく、ぶつかり合う羽目になった。
「いったたたた……。プリンちゃん、どこも怪我してない?」
「痛みだけです」
その声は、あまりにちいさくて、今にも消えてしまいそうなロウソクみたいだった。
「本当に? やっぱりどこかぶつけたんじゃ」
「いえ。夢見を連続でしたので、ちょっと疲れただけです」
「ああ、なるほど」
もしかしたら、MPみたいに夢見にも限界があるのかもしれない。夢見ゲージ的なやつが。
プリンちゃんは、樽のカーブに沿うように、もたれかかっている。その体には力という力が抜けていて、大丈夫だとわかってはいても、不安でしょうがない。
……不安なことは他にもある。
樽のフタをそっと開ける。うん、逆にはなってない。
頭だけを出して、あたりの状況を確認する。
下の方には、いまだ水を吸いこむ勢いに衰えがない超巨大イカ。その口の近くを、ウツロブネがくるくると回っている。
後方を振り返れば、無数の樽。
そして、今まさに私たちの樽にぶつかろうとする、がれきが見えて。
「やっば」
慌ててフタをしめたところで、樽がめちゃくちゃに揺れた。中のわたしたちはシェイカーで攪拌されているみたいになった。
さっきよりもひどくはげしく衝突しまくったわたしたちは、樽そのものにぶつかったのか、相手にぶつかったのさえわからないほど。
気がつけば、意識を失しなっていた。
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