第2話

 どこまで落ち続けるのかわからなかった。


 だが、不思議と怖くはない。なんとかなる、という根拠のない自信だけがあった。


 突然、下の方が明るくなった。


 足元に床が見えたかと思えば、ぼろ衣をまとった男女がおおきくなって――。


 彼らを踏みつぶしてしまった。


「ご、ごめんなさいっ!」


 足元から、踏まれたネズミみたいな声がして反射的に謝る。


 おじいちゃんが言ってたんだけど、なんかしてしまったら、とりあえず謝っとけって。


 あれだけの高さから――数十分は落ちてたと思う――落下したというのに、痛みはなかった。2人に感謝しなきゃ。


 いやそもそも、頭上に闇はなかった。金やら赤やらをふんだんに用いた、宗教っぽい絵が縦横無尽に描かれている天井があるばかりだった。


「あれ……おかしいな。わたし、落ちてたはずなのに」


 そこは、広い空間だった。畳が敷きつめられており、壁は漆喰でできている。


 木造の窓には障子紙が張られており、太陽が透けて見えた。


 まるで、修学旅行で見たお城の天守閣そっくりだった。


 そう思って、正面を向けば、お侍さんが座っている。和装に身を包んでいるし、日本刀を腰に下げている。なによりちょんまげだ。お侍さん以外にいない。


 若い――といってもわたしよりは年上の男は、わたしを見て目をぱちくりさせていた。


「お、おぬしはどうやって――」


「あ、あはは……わたしにもよくわからなくて」


 ポリポリと頭をかいていると、


「おいっどけっ」


 そんな悲鳴が聞こえてきた。


 わたしは、男女を下敷きにしていたことを思いだして、とびのく。お侍さんが、待った、と言っていたけれど、どうしてだろう。


 下敷きになっていた2人が立ち上がる。黄ばんだローブで身を包み、フードで顔を隠した男女は、懐から剣を取りだした。


「ちょ、ちょっと?」


「だまれっ。誰だか知らんが、こうなればついでだ、しねえ!」


「ついでってどういうこと」


 言葉の途中で、男が剣を突きだしてきた。わずかに刃こぼれしたそのロングソードが、ゆっくりゆっくり迫ってきて。


 わたしは横へステップ。


「あっぶないな、死んだらどうするのさ!」


「殺すためにやってんだよ!」


 ぶおん。


 風を切り裂いて、最上段から剣が振り下ろされる。金属製の剣は、わたしの細くて長い首の骨をへし折れるほどに重そう。でも、お母さんのこぶしよりかはずっと遅い。


 服が切り裂かれるスレスレで回避。


 わたしは男の腕をぎゅっと抱きしめる。


 男の困惑した目にウインク。


「ぽーい」


 わたしは体をねじって、男を背負い、放り投げる。


 漆喰の壁に叩きつけられた男は、落ちて、がくんとうなだれた。


「イトー!?」


「やっば、やりすぎちゃったかも」


「よくもやってくれたな、彼を!」


 そりゃ、悪いことをしたとは思うけど、最初に襲ってきたのはそっちだよ。


 そんなことを思っているうちに、女のフードがするりと落ちる。


「あっ」


 思わず、そんな声が漏れてしまったのは、女の頭に生えているねじ曲がった角が見えたから。


 長くてぼさぼさの髪の向こうからのぞく目が、わたしを爛々らんらんと見つめている。


 横に長い四角い瞳孔が、怒りに燃える。


 口から出てくる言葉は、ヒトのことばではない。わたしは日本語と英語がそれなりに話せるけれど、聞いたことのないもの。


「いあ! いあ! くとぅるー!」


 むしろ耳をふさいで聞きたくなくなるような、奇妙な言葉だ。


 同時に、ぞわりと大根おろし器で撫でられたような不快感が、全身を駆けめぐっていく。


 なにかが起きる。


 とてつもなく不気味で、わたしたちの常識から外れた不可解な力が現れようと――。


「君!」


 背後で、そんな声。ふりかえればお侍さんが、わたしめがけて刀を投げようとしていた。


 放物線を描き、飛んできたその剣をキャッチする。わたしが想像していた剣とはちょっと違った。


 刀身に反りがないし、ヘビみたいにうねっている。


 突然、不快感が膨れ上がる。女を見れば、『透明な触手』がのたうちあばれまわりながら、わたしめがけて伸びてくる。


 直感的に、手にした剣でそれを切った。


 ――いや、切れるわけがない。鞘は抜いていないのだから。


 だが、触手は真っ二つになった。透明な、でも濡れはしない液体がわたしに降ってくる。


 裂かれた触手は、畳の上をコイのようにピチピチ跳ねまわっていたものの、ついには止まった。


「な……」


 わたしは茫然としている女に近寄って、剣をフルスイングした。






「助かったよ」


 と、お侍さんが言った。


 気絶した男女は、すでに麻の縄でグルグル巻きのボンレスハム状態になっている。縛りおえてから頬をぺちぺち叩いたんだけど、起きてはくれなかった。


 わたしは、お侍さんに刀を返す。


「おぬしはいったいどこから……」


「わたしにもわからなくて。というか、ここどこなんです?」


「ここは――」


 言葉の途中で、ダッダッダッと足音がやってくる。部屋の前までやってきて、ふすまが勢いよく開く。


 あらわれたのは、真っ白でうねるようなローブを身にまとった女の子。


 その女の子は、息を切らしながらも、ぎょろぎょろと部屋を見まわす。その焦ったような視線が、お侍さんとわたしを見た。


 わたしを――わたし『だけ』を――睨みつけ。


 何事かをつぶやいた。


 次の瞬間、わたしは見えないなにかにぎゅっと押しつぶされる。体全体、そして心までをも圧縮するかのような力に、わたしはなすすべなく意識を手放した。


 暗くなっていく視界の中で最後に聞いたのは、お侍さんの焦った声であった。

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