黎明

がたんごとん。

電車に揺られながら

いろはちゃんや麗ちゃんと

楽しく話をしていると、

いつの間にか人がいなくなっていた。

外の景色も、都会らしい

建物ばかりのものから

植物や閑静な町並みが見える

穏やかそうなものになっている。

が、その景色が延々と続いている。

長いこと停車せず

走り続けている電車に違和感を持ち、

隣の車両に駆け込むも

そこには不自然に置いてある箱や

ボタンのある装置などが置いてあった。


リアル脱出ゲームのようで心が躍る。

2人ともそれほど嬉しそうではなく、

私が率先して解くことになった。

見えるヒントから謎を解いて、

わからなくなったら

麗ちゃんやいろはちゃんに聞く。

車両を進む度、窓の外は段々と

水の下へ、海の下へと

潜っていくように深い青色になっていた。

そうして最後の車両まで辿り着き、

ぐわり、と大きく電車が揺れた。

同時に瞼が重くなっていく。


次に瞼を開いて電車を降りた瞬間、

目の前に広がっているのは

空から微かながらに光の届く仄暗い街。

崩れた駅のホームから

ぐっと遠くを見る。


宙には魚が飛んでいる。

1人で泳いだり、群れを作ったりしながら

すいすいと鳥のように飛んでいく。


七「わあっ!」


捕まえようと手を伸ばす。

すると、まるで空気は水のように重たく、

動かすまでに時間がかかった。


いろは「すごーい。」


七「本当に来れちゃったんだ!見て、お魚さん!」


いろは「取っちゃ可哀想だよー。」


七「後で逃すから!」


そう言ってはねてみたり、

魚の軌道を予測し先にジャンプをしても

魚はすいすいと逃げていってしまう。


七「駄目だー。」


いろは「無茶しないでねー。」


七「ね、麗ちゃんも!」


麗香「…。」


七「麗ちゃん?」


麗香「うん?」


麗ちゃんはぼうっとしているのか

遠くの方を眺めて

鋭い視線のまま立ちすくんでいた。

声をかけてようやく瞳がこちらを向く。

空気は水のようで、

麗ちゃんがこちらを見ると同時に

髪の毛がひどく遅く揺らいだ。

視界では僅かな間

波を作って焦点が合わなかった。


七「考え事してるの?」


麗香「そんなところ。そろそろ行こう。」


いろは「だねー。いつまでいられるかもわからないしー。」


七「うん!うわあ、跳ねたら落ちるまでちょっと時間かかるよ!」


いろは「ふわふわしてるねー。」


七「スイミングスクール行ってた時のこと思い出すなぁ。」


麗ちゃんの背中を追いながら

いろはちゃんと並んで後ろを歩く。

麗ちゃんとは10年ほど前だろうか、

一緒のスイミングスクールに通っていた。

入った経緯は確か、

私がパパに「水泳やってみたい」と

駄々をこねたことだったと思う。

スポーツが好きで、

とりわけ水泳が好きだった。

走るのも好きだったけれど、

泳ぐのはもっと好きだった。

だからお願いしたんだっけ。


スイミングスクールでは

もちろん知らない人だらけで、

はじめ、どこにいればいいかすらも

てんでわからなかった。

たまたまそこらにいた女の子に声をかける。

それが麗ちゃんだった。

それからスクールの度に

話すようになって…。


いろは「水泳好きなんだねー。」


七「うん!大好き!もう何年も前に辞めちゃったけど。」


麗ちゃんはどこを目指しているのか

口数少なくただ真っ直ぐ歩いていく。

電車内で話したことを…

水泳は好きだったこと、

けれど辞めさせられたこと、

麗ちゃんが足を悪くしていたと

いろはちゃんから聞いたことは伏せながらも

なぞるようにして話していた。

私の中ではとても大きな記憶で、

大切にしたいものだったのだろう。


歩く間に、前回ここに来た時のことを

麗ちゃんに聞いてみると、

謎解きなんてものはなかった、と言う。

麗ちゃんは「七専用なのかもね」と

特に茶化しもせず淡々と言った。


あれやこれや話していると、

街並みの奥、まだまだ遠くだけれど、

ひとつぎざぎざとした構造物が見えた。

まるで途中から折れちゃったみたいに

断面がぐちゃぐちゃになっている。


小学生の頃はあれが流行った、

あれが楽しかったと話す。

でも、やっぱり1番は水泳で、

麗ちゃんと出会って離れたことが寂しかった。


七「でも、10年ぶりぐらいに再会できたの!本当に嬉しかったなぁ!」


いろは「そっかぁー…麗香ちゃんも?」


麗香「え、何が?」


いろは「10年ぶりの再会、嬉しかった?」


麗香「…まぁ、ほどほどに。」


いろは「麗香ちゃんは話を合わせてるだけ?」


七「そんなことないよ!本当に嬉しかったんだよね?」


麗香「まぁ。」


七「何その反応ー!」


いろは「そこじゃなくて。」


七「どういうこと?」


いろは「…あのね。」


七「なあに?」


いろは「突っ込んでいいことかわからなくて…いつ話そうかも悩んでたことがあるんだ。」


「おかしいなって思ってたの」と

いろはちゃんは口にする。


ひとつ。

足音が消える。

隣からいろはちゃんの姿が

緩やかに見えなくなった。

慌てて前にいた

麗ちゃんの袖を引っ張る。

振り返ると、いろはちゃんは

海に馴染んだ海藻にように立っていた。

ひと息吸うのがわかる。

そして。


いろは「……麗香ちゃんが水泳をやめたのは高校に入ってからだったはずだよ。2人とも、本当にその記憶で合ってるの?」


麗香「…っ!」


七「え?」


と、言葉を発した瞬間だった。

ぐわり、と大きな波が立ったように

頭の中が一気に

ごちゃ混ぜになっていくような、

はたまたバスに揺られて

酔ってしまったかのような

変則的な波が脳へと直接ぶつかっていった。

視界が刹那、ぼやけだした。

気づくと地面に足をついていて、

のちに頭痛だったのかと知る。

ずきずきとした痛みが頭を走っていた。


いろは「…!2人とも、大丈夫…!?」


麗ちゃんも同じような状況のようで、

いろはちゃんはらしくもなく

慌ただしく駆け寄ってきてくれた。


そうだっけ?

そうだったっけ?

疑う言葉と同時に、

そうだよ、どうして忘れてたの、と

諭すような言葉も思い浮かぶ。

どうして忘れていたのだろう。

そうだ。

出会ったのも別れたのも

全然小学生の時じゃない。

つい3、4年前のことだ。

顔だって覚えていたはずなのに。





°°°°°




七「ねぇねぇ。ここで待ってればいいの?」


麗香「え、うん。新しく入るの?」


七「そうなの!コーチがね、先に行っててって言ってくれたんだけど、どこに居ればいいかわからなくって。」


麗香「そっか。でも急にこのクラスなんだ?」


七「前ね、別のスイミング教室行ってたんだけど、変えたの!」


麗香「そうなんだ。ここ、プール広いしね。」


七「ね!びっくりしちゃった。ねねね、名前なんて言うの?」


麗香「私、嶺麗香。」


七「そうなんだ!私はね、藍崎七だよ。七って呼んで!」


麗香「分かった。」





°°°°°





そして地区大会の日。

確か、私が麗ちゃんに勝って、

それが嬉しくて駆け寄ったんだ。





°°°°°





七「やった!やった、麗ちゃん、私進めたよ。」


麗香「すごいね。」


七「ううん、麗ちゃんのおかげだよ。」


麗香「私?」


七「そうだよ。」


麗香「賞取れて浮かれてるんじゃない?嘘は大概に…」


七「だって、ここの教室にきてから麗ちゃんみたいになりたいって思ってずっと思ってたの。かっこよくて、人形さんみたいで!」


麗香「馬鹿にしたいだけなんでしょ。」


七「え。」


麗香「今まで目標にしてきた人が落ちぶれているのを見て、内心嘲笑ってるんでしょ。」


七「違」


麗香「違わない、さっさとどっか行ってよ。」


七「…麗ちゃん……。」


麗香「水泳なんてしなきゃよかった。」





°°°°°





頭痛が止んで、あたりを見る。

麗ちゃんも落ち着いたのか、

へたりと座り込んで

こちらをじっと見ている。

ぱっと立ち上がって駆け寄る。

いろはちゃんが手を差し伸べて

麗ちゃんを起こしていた。

互いに未だに信じられず

頭が処理を拒んでいるようで

少しの間ぼうっとしてしまう。

辛うじて口を動かすも

芯のない声になって吐かれた。


七「どうして忘れてたんだろう。」


麗香「ほんと。普通に考えればわかるのに。」


いろは「2人同時に、しかも同じように忘れてるっていうのが気になるよねー。」


七「あの時散歩してよく気づいたなぁ。」


麗香「あぁ、数日前の。」


七「うん。私、ぎりぎり気づいて振り返って。それで追いかけたの。」


いろは「七ちゃんが覚えていなかったら再会すらできてなかったかもしれないんだー。」


麗香「…なんだか、再会させたくなかったみたいだよね。」


七「私はそんなことないよ!覚えてたもん!麗ちゃんがそう思ってたってこと?」


麗香「そうじゃなくて…あまりに突飛でファンタジーな話になるけど……。」


いろは「誰かが記憶を書き換えちゃったってこと?」


麗香「簡単に言えばそう。それまでの何かしらの行動が関係して、危うく記憶を落としかけたのかも…とか思っちゃって。もしどこかで間違えていたら、私も七もお互いのことを忘れて…いや、そもそも出会ってなかったことになってた可能性だってあるんじゃな」


七「出会ってなかったことになんてやだ!絶倒覚えてるもん!覚え続けるもん!」


麗香「…多分そんな簡単な話じゃないんだよ。」


七「それでも覚えてる。麗ちゃんのこと、ずーっと!」


麗香「…私も善処はするよ。それにしてもよくいろはは覚えてたよね。」


いろは「2人が再会してなかったら、私もそのまま忘れてたりしてー。タイミングが良かっただけだよ、きっと。」


七「今日ここにいろはちゃんがいてくれて良かった!」


麗香「本当ね。」


いろは「役に立てて良かったよー。」


「2人とも急に蹲るからびっくりした」と

先ほどまで慌てていたのに既にいつもの

のんびりとした口調でそう言った。

焦ることなんてなさそうだな、と思う。


どうして記憶違いが発生したのか、

あくまで憶測の範囲から

出ることはできずに

また歩いていると、

遠くに見えていたぎざぎざとした構造物の

すぐ近くにまできていた。

近くで見るとその迫力は凄く、

思っていた何倍も高いことがわかる。

瓦礫の山があり

中に入ることは叶わなかったが、

こうしてものすごく近くで見れるだけでも

よかったと思うほかない。


麗ちゃんは建物をぼうっと見上げた後、

静かに振り返った。

1匹、魚がそばを通り抜けた。


麗香「少しだけこのあたりを見てくる。1人で行ってくるから待ってて。」


七「え!なんで!一緒に行こうよ!」


麗香「危ないから。」


七「えー。じゃあ麗ちゃんも危ないよ。」


麗香「1回来たことがあるから大丈夫と思う。いろは、よろしく。」


いろは「はーい。」


七「なんでなんで!いろはちゃんにはお願いしてくれるのー!」


その質問に答えはなく、

その代わり麗ちゃんは背を向けて歩き出し

片手を小さく上げた。

行ってきます、なのか

来るな、なのか

私にはその意図がちゃんと掴めなかった。


麗ちゃんは崩れた建物の方に向かった後、

しゃがんで何かを探しているように

足元の石やら何やらを

拾って眺めてはまた捨て、

そして街の建物の間の方へと消えていった。


七「ねーねー、1人で危なくないの?逸れちゃったらよくないよ。」


いろは「だねー。」


七「じゃあついていこうよ!」


いろは「1人になりたい時間もあるんじゃないかなー。」


七「でも、今そんなのんびりしてること言ってる場合じゃないよ!」


いろは「そうかもしれないけど…でも、麗香ちゃんに取っていいか悪いかはさておき大切な場所なんだと思うよ。」


七「大切?」


いろは「そう。思い出すことがたくさんあるんじゃないかな。」


七「だからって1人にしておいていいわけじゃないよ。」


いろは「麗香ちゃんが待っててって言ったんだから、待っていよう?少しくらいは信じてあげようよー。」


七「でも…。」


いろは「それに、麗香ちゃんの方がこういった不思議な出来事の経験はあるはずだから、確かに気は抜いちゃ良くないけど、大丈夫な気がするよー。」


近くを通った魚に向けて

手の甲を差し出しながら言った。

餌だと思ったのか

1匹、いろはちゃんの手の近くを泳いでいる。

まるで猫に向かって

警戒しないでいいよと

手を差し出している時のようだった。


むすっとしてその場でしゃがんで

地面を観察してみる。

ちっちゃいカニが岩陰から出てきて、

触ろうとしたらすぐにまた

隠れてしまった。


すぅ。

息の音がして、いろはちゃんが

優しく言葉を紡ぎ始めた。


いろは「麗香ちゃん、いろいろ変わっちゃったから心配してたんだ。」


七「変わった?確かにスイミングスクールの時からは変わった気はちょっとするけど。」


いろは「ううん、ここ2年間の間で、かな。」


手の甲を差し出していたのに、

刹那魚を掴もうとする。

魚はびっくりして逃げていった。


七「魚逃げちゃったね。」


いろは「逃したんだよ。」


平然とそう言う。

なら驚かさなくてもいいのに、

なんて自分のことを鑑みずに思う。

いろはちゃんに手招きされ、

近くにあった椅子のようになっていた

岩に並んで座った。

思っていたよりも歩いたらしい。

じんわりと足へ血液が

循環していくのがわかった。


いろは「麗香ちゃんはね、自分を逃すために自分の仮面を作ってたんだけどね、それをもう使わなくなっちゃったんだ。」


七「うーんと、難しい。お面持ってたってわけじゃないんでしょ?」


いろは「うん。何て言えばいいのかな…自分をこういうキャラだって決めつけてその通りに振る舞っていた方が楽な時があるって言えば伝わるかな。」


七「私は全然ないよ!」


いろは「そういう人もいるかもね。例えば、人前に立つのが苦手な子だとして…私は人気者でリーダーの素質があって、プレゼンだって上手って思っていた方がうまくいくなんてことがあるんだよ。」


七「そうなんだ。人前でお話しするのも楽しいんだけどな。」


いろは「緊張で頭がいっぱいになっちゃう人だっているんだよー。」


七「だから自分を逃す仮面…?」


いろは「そう。それをね、麗香ちゃんも持ってたの。」


七「緊張しい感じはしないよ?」


いろは「それはあくまで例だからね。緊張とかとはまた別のものから自分を逃してたの。」


七「それを使わないっていい事じゃないの?」


いろは「どうだろう。面と向かえるくらい強くなったとも言えるし、退路を絶ったとも言える。」


七「退路を。」


いろは「そう。一層自分を追い詰めるようにしてるようにも見えちゃって。」


七「そうじゃないと思う。」


いろは「どうして?」


七「麗ちゃんだもん。自分で決めて、かっこよく進むことができる麗ちゃんだもん。ちょっぴり大人になったんだって信じてる。」


いろは「そっかー。麗香ちゃんも大人だからって言ったのは私だったね。」


いろはちゃんは笑った。

まるで失恋したのに仕方がなかったと

区切りをつけて笑っているみたいだった。

なんだか大人びていて悔しい。

何でもかんでも

区切りをつけて譲歩するのが

大人のように見えちゃうのかな。

それなら私はずっと子供のままだけど、

それでも口にした方がいいことは

あるように思えて、

長いこと考えていたことを

不意に伝えることにした。


七「いろはちゃん。」


いろは「んー?」


七「私、さっきの電車での話、ちゃんと麗ちゃんに伝えた方がいいと思う。」


いろは「電車の?」


七「そう。水泳やめてよかったねって言っちゃったこと。」


いろは「あー。それねー。」


七「悪いことをしたのかもって思ったなら謝った方がいいし、ずっと言えないままだと2人とも辛いままになっちゃうよ。時間が経てば経つほど謝りづらくなっちゃうし…。」


いろは「それを言うなら時間が経ちすぎてるように思うけどー。」


七「それでも、今思ってることがあるのなら言った方がいいよ!」


いろは「んー。」


七「伝えたくないの?」


いろは「怒ってるかもなーって思うから、傷を抉らないでいいんじゃないかなって思うの。」


七「もしすれ違ってるだけだったら悲しいよ。」


いろは「七ちゃんは優しいんだね。」


七「だって2人とも仲良しでいて欲しいんだもん。」


いろは「……わかった、考えてみるねー。」


七「ほんと!?」


いろは「うん。ほんとほんとー。」


「長年謝りたいとは思ってたからねー」と

彼女は岩に座ったまま手をついて、

ゆらりと前のめりになった。

横髪のせいで顔がよく見えなかったけれど、

口元は微か口角が上がっているのは

見逃さなかった。

目元が見えないと、

喜んでいるのか困っているのか

全然わからないものだ。


少しして麗ちゃんが帰ってきた。

何かあった?と聞いても

何もなかった、と返事をされるだけ。

麗ちゃんは歩きっぱなしで

疲れているはずなのに、

それでも「すぐに行こう」と

また歩き始めてしまった。

追うようにして2人で歩く。

ちょいちょい、と

いろはちゃんの袖を引っ張る。

すると、わかってるよーとでもいいたげに

こちらを見て笑っては

ひとつ小さく頷いた。


そして向き合うことを決めたのか、

それとも何かを諦めてしまったのか、

隠すように手を後ろで組んだ。


いろは「ねー、麗香ちゃん。急なんだけどさ、水泳を辞めた時のこと、覚えてるー?」


麗香「急だね。…そこそこじゃない?記憶違いがあったところも今はだいぶ思い出せたし。」


いろは「じゃあさ、辞めた後に私とした会話、覚えてるー?」


麗香「え、何でその話?」


いろは「いいからいいから。」


麗香「覚えてるよ。」


麗ちゃんは緩やかに

声をワントーン下げて返事をした。

無意識に下がっているようで、

顔もやや俯いていた。





°°°°°





麗香「…。」


いろは「麗香ちゃん。」


麗香「…。」


いろは「麗香ちゃーん。」


麗香「…何。」


いろは「大会、誘ってくれてありがとう。」


麗香「…。」


いろは「かっこよかったよ、麗香ちゃんの泳いでる姿。」


麗香「…。」


いろは「久しぶりに思い出しちゃったんだよね。私が水苦手でさ、プールに入れなかった時、麗香ちゃんが手をとってくれたこと。」


麗香「…あったっけ。」


いろは「あったよー。」


麗香「あはは…いろはでも覚えてることとかあるんだ。」


いろは「ちゃんと大切なことは覚えてるよ。」



---



いろは「麗香ちゃんなら大丈夫。見つけられるよ。目も当てられない程ぼろぼろになりながら出来るような事。」





°°°°°





麗香「…っていう話をしたよね。いろははにこにこ笑っててさ。」


いろは「そうそうー。」


麗香「昔、私がいろはに言った言葉がそのまんま返ってきたのにびっくりしたから、覚えてたよ。」


いろは「そっかー。」


麗香「それに今だからいうけど、あれ、水泳を辞めてよかったって言ってるようなもんだよね。」


いろは「だねー。実際そういう意味合いで言ってたしー。」


麗香「最近は何とも思ってないけど、当時は結構傷ついたよ。」


そうは言いながらも、

思い出話のなった今は

懐かしむものになったのか、

麗ちゃんは少し楽しそうに言っていた。


いろは「それをね、今更だけど謝りたいなーって思ったの。あの時私の思うままに言ってしまってごめんなさい。」


麗香「怒ってないよ。むしろ私の方こそ態度悪かっただろうし…申し訳ない。」


いろは「ううんー。こちらこそだよ。」


麗香「でも、ああ言った理由はあるんでしょ?理由もなしに人の不幸を喜びはしない気がする。」


いろは「…うん。まあねー。」


麗香「差し支えなければ言って欲しい。」


いろは「そうだねー。…あの時、麗香ちゃんは足を悪くしてたでしょー?時々びっこをひいてるのを見たことがあって心配してたんだ。でも状況的に休めなかっただろうから…無理矢理にでもお休み…いや、おしまいにできる方法が見つかってよかったなって思ったの。」


麗香「そういうことだったんだ。」


「よく見てたね」と

歩くペースを変えずに

振り返ることもなくいう。

どんな表情をしているんだろう。

見たかったけど、

会話を止めてまで見る気にはなれなかった。


麗香「確かに痛めてたね。捻挫か何なのかわからなかったけど。」


いろは「あのまま続けていてもいい結果はなかったの思うんだー。」


麗香「そうかも。イフの話だからもうわからないけど。」


いろは「…あの時、辞めない方が良かった?」


麗香「さあ。でも全部仕方のないことだったんだよ。」


2人の中で区切りがついたのだろうか。

それ以上会話は続くことなく、

しゅる、と魚が

近くを通る音だけが耳を掠めた。


麗ちゃんの背中の先に、

青い青い地面が見えた。

ゆらゆらと波と踊っており、

近づくにつれ

青い花畑だということがわかる。

そして、その奥。

花畑の中には巨大な蕾があった。

私の身長以上であることには間違いない。

そのまま歩いていくのを見て、

目的地はここなんだろう、と

直感がそう告げる。

その前に聞かなきゃいけない気がして

声をうんと張った。


七「麗ちゃん、水泳なんで辞めちゃったの。」


既にいろはちゃんから

母親からやめろと言われて

辞めさせられたと聞いていたし、

先ほど思い出したものの中では

「水泳なんてしなきゃ良かった」

という発言があったけれど、

どうしても本人から聞かないと

納得できなくて

思わず声に出してしまう。

本人じゃなきゃ真相はわからない。

隠していることだって

あるのかもしれないから。


麗香「うーん…。」


七「私が麗ちゃんに話しかけたから?」


麗香「ううん、話しかけた段階では違う。」


七「じゃあ…仲良くなったから」


麗香「地区大会。」


七「え?」


麗香「地区大会がきっかけ。」


七「私が勝ったのがいけなかったの…?」


麗香「やっぱりそこも思い出してるよね。」


初めて振り返ってくれた。

苦い顔をして笑っていた。


麗香「いけないってことはない。負けていろいろあったっちゃあったけど、落ち込んで辞めたんじゃないから。」


七「でも」


麗香「…大会の勝敗もただのきっかけでしかなくてさ。」


麗ちゃんは髪を耳にかけた。

いくつかの毛束が

歩く振動によって海に揺蕩う。


麗香「母親に辞めさせられたってだけ。」


七「地区大会のことがあって怒られて…ってこと?」


麗香「それもあったけど…けど、それは根本じゃない。普通だったらもっとのめり込め、これまでにかけた時間と金を無駄にするなくらいはいいそうだから。でも、そうしなかった。」


七「…その時だけ何か違ったの?」


麗香「そう。七が勝ったことで、母親が七のことを知ろうと検索をかけたんだと思う。多分、それで。」


七「私のこと?」


当時とても強かった

麗ちゃんのことを追い抜いたから

知ろうとしてくれたのだろう。

けど、それが原因でとは

どういうことなのか。


七「私のことを知って、それがどうして麗ちゃんが水泳を辞めたことと繋がっちゃうの?」


麗香「うちの母親はなんていうか…影響のありそうな人やものを近づけたくない、みたいな思想があるんだよね。」


七「影響…?」


いろは「ずばっと言ってあげた方が七ちゃんはわかりやすいと思うよー。」


麗香「いや、それは流石に。」


いろは「どちらにせよ、わかるまでずいずい聞いてくるでしょー。」


七「うん、聞く!ここもで話してくれたんだもん!途中で終わるのはやだ!」


麗香「……傷つかないでよ。」


七「大丈夫!」


ふう、息を吐いて肩が下がった。

もう花畑まで数歩ほどだった。


麗香「母親は悪影響のあると思ったものを私に近づけたがらないんだよ。私の意見を無視して、独断で。」


七「悪影響があったの?」


麗香「七自身と話してみて、私はそんな感じしなかったけど…やっぱり本人と関わりがないと世の中の色眼鏡で見てしまうことはあるじゃん?どう足掻いても過去のことはくっついてくるから。」


七「…?」


過去のこと。

一体何なのだろう。

私が覚えていないだけだろうか。

きょとんとしていると、

麗ちゃんは目を疑うようにして眉を顰めた。


麗香「もしかして…覚えてない?」


七「え…うん。」


麗香「本当に覚えてないの…?」


麗ちゃんの声がこわばる。

彼女の足が止まる。

花畑を進んで少ししたところ、

ちょうど蕾の前だった。

時間が止まったような錯覚すら覚える。

それで視界の奥の魚は泳ぎ、

麗ちゃんの瞳は波のせいか

潤っているように見えた。


麗香「七の事務所で起こったあのこと。」


七「そういえば電車から出る前に…。」


その時だった。

視界が暗くなった。

青色の影だった。

ふと顔を上げる。

何かがゆっくり近づいており、

みんなして慌てて走って花畑の方へと下がる。

見上げると、音もなく突如ふわっと

鮮やかに開花したらしく、

花びらが近くにまで迫っていた。

麗ちゃんは小さく

「あの子がいない」と呟いた。


青々しい花は何枚もの花弁を携え、

そこからは雄蕊や雌蕊らしい

細長いものが伸びており、

花びらのうち数枚が

まるで登っていいよというように

地面に触れた。


そして。


七「…………麗ちゃん?」


麗香「…。」


花の中心には、蕊に体を支えられている

麗ちゃんらしい姿があった。

眠っているのか

こちらに気づく気配はない。

精巧に作られた

人形なのかもと思ったが、

どういうわけか呼吸をしているみたいに

体が動いている。

近くに来すぎたせいで

あまりよく見えないけれど、

花の青色が吸い取られたように

足に染みているのが見て取れる。

けれど、その面積はほんのわずかで、

しっかり見ていないと

見逃すほどのものだった。


七「あれ、麗ちゃんだよね…?」


麗香「…だね。」


七「え、じゃあ…麗ちゃんって2人いるの?」


麗香「そうだよって言ったら信じるの?」


七「麗ちゃんがいうなら…?」


麗香「純粋すぎじゃない?」


いろは「でも、これは本当に何なのー?」


麗香「……多分だけど、過去の私じゃないかな。」


七「過去の?」


麗香「足を悪くしていた時の私。」


足を悪く。

そして麗ちゃんは過去に

ここに来たことがあって…。

今度は友達が足を悪くしている。

その解決策を探っている。

何だか嫌なふうに

結びついてきてしまう。

私が口を開く前に、

麗ちゃんは目を伏せ独り言のように言った。


麗香「あの花のせいで、先輩も足を悪くしたの。」


七「じゃあ捕まってる方の麗ちゃんを今すぐ助けなきゃ!」


麗香「待って。」


走り出そうとしたが

麗ちゃんが強く腕を引いた。

あまりに力が強くて、

何で、と反抗心むき出しで

麗ちゃんを眺む。

すると、彼女はどういうわけか

辛そうな顔をしていた。


七「何で!助けなきゃ麗ちゃんの足がもっと悪くなっちゃうんでしょ!?」


麗香「そうだけど」


七「なら」


麗香「待って、聞いてよ。落ち着いて。」


七「だけどっ!」


今の間にも麗ちゃんの足が

どんどん悪くなっているのだとしたら。

もし、そうだとしたら

怖くてたまらなかった。

どれだけ焦っても

麗ちゃんは掴む力を強めるだけ。


いろは「七ちゃん。聞いてみようよー。」


麗香「大切なことなの。聞いて。」


七「……っ。」


麗香「…私は…このまま自分の足を犠牲にしたい。」


七「…!駄目だよそんなこと!」


麗香「もし完全に私が動けなくなれば、もしかしたら先輩はここに捕えられたとしてもどこも…大切な足を犠牲にせずに済むかもしれない。」


七「違う!麗ちゃんが犠牲とか、そういうのは駄目なの!」


麗香「それに、これは贖罪だから。」


しょくざい。

罪を償うだとか

そういう意味合いだっけ、と脳内で呟く。


麗香「先輩が足を悪くしたのは私のせいなんだ。私がもっと早くに助けに行っていれば、今頃こうはならなかった。」


七「その人は足、動かなくなっちゃったの?」


麗香「たまに力が入らなくなるの。それこそびっこをひいたり、鶏歩…つま先が上がりきらなくて歩きづらい…みたいな症状もある。」


七「それなら歩けるんじゃ」


麗香「だけど、先輩…大好きだった陸上ができなくなったの。私のせいで、大切なものを奪ったの。」


私の言葉を制して、

強く、角のある声で言った。

自分に置き換えて考えてみなよ。

そう言っているみたいな

鋭く、そして寂しい眼差しだった。


もし私だったら。

大切な水泳をパパに取られて、

本当に悲しくて駄々だって捏ねた。

それでも駄目で。

…でも、パパのことは恨んでない。

悲しかったけど、

いつだってパパは私のことを

大事にしてくれているから。

だから、恨んでなければ

怒ってもいない。

これからも今までのようにいて欲しい。


七「その人、今でも会ってくれるんでしょ?話してくれるんでしょ?なら怒ってないよ。大丈夫だよ。だから麗ちゃんが犠牲にならなくていいよ。」


麗香「……でも、先輩に何も返せてない。」


七「先輩って人と麗ちゃんの間で何があったか全く知らないけど、こんな海のところまできて治そうってしてるんだから、何も返せてないことないよ。」


麗香「奪ってばかりだから、独りよがりだけど…これをもって恩返しをしたいの。…ごめん。」


七「…っ!」


視線すら合わせず

俯いてしまった麗ちゃんに向かって

躊躇うことなく手を挙げた。

そして頬を叩く。

水のせいで思っているよりも全く力が出ず

音もしなかった。

けれど、突然の衝撃にびっくりしたのか

ぱっと彼女は顔を上げた。


七「そんなことをして恩返しになるわけがないじゃん!どうやって考えたらそうなるの!先輩は麗ちゃんに向かって消えろって言ったの?犠牲になれって言ったの?」


麗香「いや、そんなことを言う人じゃ」


七「じゃあこの前その人のお家にお見舞いに行った時はどうだったの!怒ってたの?それともずっとずっと落ち込んでいて助けようと思っても難しいところにいたの?」


麗香「いつもみたいに笑って受け入れてくれたよ。でも、それはただの強がりの可能性だってある。」


七「その人は陸上だけが唯一の楽しみだったの!?」


麗香「唯一では…。でも、大きな割合を占めているのはきっとそうで」


七「それならその人は陸上がなくなったら他に楽しみを見つけられる人じゃん。」


麗香「…っ。」


七「麗ちゃんと会うのだって、楽しみのひとつだと思うよ。」


麗香「そんなわけない…。」


七「どうして?」


麗香「……だって…。」


麗ちゃんは堪え消えなくなったのか、

顔を伏せるだけにとどまらず

隠れるようにして

その場にしゃがんで縮こまった。

見たくないものから離れるように

顔を手で覆っていた。


きゅう。

彼女の喉が鳴る音がした。

それ以降、言葉は紡がれず

ただただわずか時間が流れる。

しゃがんで目線を合わせる。

まるで子供みたい、と思ってしまう。

実際、少し前まで子供だったのだ。

今大人になろうと、

成り切ろうと頑張っている

最中だったのかもしれない。


でも、やっぱり思う。

麗ちゃんは大人だ。

だから、自分で決められるんだ。

そっと頭を撫でる。

くるくるした毛が猫みたいだった。


七「今もしも麗ちゃんが犠牲になったら…足だけじゃなくて全部全部動かなくなっちゃったら、次その先輩がピンチだったとき駆けつけられなくなっちゃうよ。」


麗香「…。」


七「今できるのは犠牲になることじゃない。」


麗香「…。」


七「麗ちゃんが無事でいて、それでこのお花の原因を解明したり、治したりする方法を考えたりすることだよ。」


麗香「私が原因で先輩は…」


七「もしも麗ちゃんがいなかったらもっと悪い結果になってたかもしれないよ。」


麗香「…。」


七「先輩のためって言ってたけど、多分麗ちゃん…本当は救われたかったんじゃないかなって気がする。」


麗香「…!」


七「でもね、全部全部気負いすぎだよ。ないと思いたいけど…もし本当に麗ちゃんの先輩の足が悪くなったのが麗ちゃんのせいだとしても、今の先輩から更に楽しみを奪わないであげて欲しいな。」


麗香「先輩が楽しみに思ってるかどうかなんて…。」


七「だってお見舞いに行って嫌な顔しないんでしょ?」


麗香「それは…ただのマナーだとか…」


七「そういうことする人なの?私、麗ちゃんがここまで思う人なんだから、そんな裏表があったりひっかけたり恨みもったりするような人じゃないと思うな。」


麗香「……そういう人じゃ、ない。」


七「なら大丈夫だよ。」


麗香「何でそう言い切れるの。」


七「だって、私は麗ちゃんに会えたら嬉しいし楽しいから!」


麗香「………っ…。」


そっと手を離す。

恐る恐る彼女が顔を上げる。

小さな雫が溢れていた。

目元を拭って、

そして拭い切る前に

1人先に花の方へと歩いて行った。

彼女の後を追う。

いろはちゃんもきてくれているようで、

小さな足音がした。


麗ちゃんはそっと、

割れ物に触れるように優しく

過去の自分の手を握った。

まるで離さないようにしているみたい。

足にあった青いしみは

先ほどよりも更に広がっている。


次の瞬間だった。

目の前がぐるりと回転し、

まるで洗濯機の中に

入れられたような眩暈がした。

それなのに、大きな青い花は

どっしりとそこに構え、

ゆわり、ゆわりと揺れた。


さざ。

…さざぁ…。


ざざ。

…。


遥か遠くで海の音がする。

波打ち際の方まで

裸足でかけて行った時のよう。

咄嗟に息を止める。

渦巻く波が強く、

息ができないんじゃないかと不安になる。


目を閉じる。

ぎゅっ、と瞑る。

青色の海底を忘れないように。

目覚めてもちゃんと思い出せるように。





***





さざざ…。

ざざ…。


海の音がして、

ゆっくりと目を開く。

すると、遮光がこちらへと

真っ直ぐ刺さっているのがわかった。

あたりを見る。

肌に砂がくっついて、

近くからは海の音がする。

どうやら砂浜で寝転がっていたらしい。


上体を起こす。

すると、麗ちゃんやいろはちゃんも

今起きたらしく、

ゆっくりと立ち上がっては

砂を払っていた。


七「ねえ、ここ…。」


麗香「…帰ってきちゃったね。」


そんなつもりはなかったんだけどな、と

言うように

肩を少しだけ上げていた。


でも、何よりみんなで

こうして戻って来れたことが嬉しくて、

思わず2人の元にいって抱きついた。

急だったのか、

2人して後ろに後ずさった。

そして、最大限の元気を持って言った。


七「麗ちゃん!お帰りなさいっ!」


いろは「ふふ。おかえりー。」


麗香「……ただいま。」


声を振り絞ってそう言う。

尻すぼみになった音は

波とともに消えて行った。


無事に戻ってくることができたのだ。

日差しに見守られる中、ぎゅう、と

更に強く抱きしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る