第2話天使の忘れ物

「アポカリプスカフェテラス」の午後は、いつもと変わらず穏やかだった。アルマはカウンターの奥で、静かにカップを拭きながら次の客を待っていた。カフェテリアの外からは、遠くに広がる青空がちらりと見え、窓際の席に柔らかな日差しが差し込んでいる。


そのとき、カフェの扉が音もなく開いた。現れたのは、白い翼を持つ一人の天使だった。彼は長い金髪を揺らしながら、少し慌てた様子でカフェに飛び込んできた。


「いらっしゃいませ、どうぞおかけください。」


アルマがいつものように優しく声をかけると、天使は慌てて席に着いた。


「アルマ、助けてくれ!大変なんだ!」


天使の名はリフ。彼は若く、まだ少し未熟なところがある天使だった。アルマは彼の慌てぶりに少し驚きながらも、静かに紅茶を淹れて彼の前に置いた。


「落ち着いて、リフ。何があったの?」


リフは息を整えながら、話し始めた。「実は、今日渡すはずだった重要な書類をどこかに忘れてしまったんだ。天国への昇格リストだよ!これがなければ、魂たちがどこに行くべきか分からなくなってしまう…」


アルマは一瞬考え込んだ後、穏やかに言った。「リフ、それは確かに大事な書類ね。でも、焦っても仕方がないわ。まずは、その書類を最後に見た場所を思い出してみましょう。」


リフは顔を曇らせながら、思い返そうとした。しかし、慌てていたせいか、記憶が曖昧で思い出すことができない。


「どうしよう、アルマ…。僕のせいで、みんなが迷子になってしまう。」


リフは肩を落として、今にも泣きそうだった。アルマは彼の手にそっと触れ、優しい声で語りかけた。


「大丈夫よ、リフ。きっと思い出すわ。私たちができる限りのことをして、あなたを助けるから。」


その時、カフェの扉が再び開き、一人の魂が入ってきた。彼は少し気まずそうにリフとアルマを見つめた後、そっと手に持った書類を差し出した。


「えっと…これ、落としていたみたいなんですが…」


それはまさに、リフが探していた昇格リストだった。リフは目を見開いて、すぐにその魂に感謝の言葉を伝えた。


「ありがとう!本当にありがとう!」


魂は少し恥ずかしそうに微笑んだ。「いえ、こちらこそ…助けてもらったんです。アルマさんがいなかったら、僕はまだ自分の道を見つけられていなかった。」


アルマは微笑んで、その魂に紅茶を勧めた。「あなたの心の準備ができたら、次の旅路に進むことができるわ。」


リフはホッと胸を撫で下ろし、改めてアルマに感謝の気持ちを伝えた。「アルマ、君のおかげで助かったよ。僕、もっとしっかりしないとね。」


アルマは優しく頷き、リフに向かって言った。「大切なのは、困ったときに誰かの助けを借りること。そして、それを忘れないことよ。」


リフはその言葉を胸に刻み込み、再び翼を広げて飛び立っていった。その背中は、少しだけ大人びたように見えた。


アルマは静かにカフェテリアを見渡しながら、心の中で微笑んだ。今日もまた、一つの忘れ物が見つかり、一つの魂が新たな旅に出発したのだ。カフェの外には、次の訪問者を迎えるための準備が整っていた。


「アポカリプスカフェテラス」の天井を打つ雨音が、静かなリズムを刻んでいた。この日は朝から降り続く雨のため、店内はいつも以上にひんやりとしていた。窓の外を見れば、霧のように細かい雨がカフェの周りを包み込み、外の景色はぼんやりと霞んでいる。カフェテラスには人影もなく、店内は独特の静けさに包まれていた。


アルマはカウンターで温かい紅茶を淹れ、息を吹きかけて一口すすった。雨の日には、いつもより少し濃い目に淹れた紅茶が心に染み入る。店内には彼女だけで、静かな時間が流れていた。


「今日は静かね…」とアルマは独り言をつぶやいた。


その時、カフェの扉がかすかに開き、鈴の音が鳴った。入ってきたのは、若い男性だった。彼はずぶ濡れで、服から雨水が滴り落ちている。濡れた髪が顔に張り付いていて、全身から疲労感がにじみ出ていた。


「いらっしゃいませ、どうぞおかけください。」アルマは静かに微笑みながら、彼を窓際の席へ案内した。


「ありがとう…」彼は小さな声で礼を言いながら、アルマが差し出したタオルで顔や髪を拭き、やっとのことで席に着いた。彼の目はどこか遠くを見つめるように虚ろで、肩を落としている。


アルマはそんな彼の様子を見て、静かに温かいスープを用意し始めた。雨の日には、温かいものが心にも体にも染み渡る。彼の前にスープを置き、アルマはやさしく声をかけた。「どうぞ、体を温めてください。」


彼は一瞬驚いたようにスープを見つめ、それからゆっくりとスプーンを手に取った。ひと口すするごとに、彼の顔に少しずつ生気が戻っていくようだった。


「…なんだか、とても懐かしい味がする。」彼はぼそりと呟いた。


「それは良かったです。心が疲れているときには、懐かしいものが一番ですね。」アルマは微笑みながら答えた。


しばらくスープを飲んでいた彼だったが、やがて重い口を開き始めた。「…僕は、ここに来る前に、ずっと歩いていたんだ。何も考えずに、ただ歩き続けて…気がついたらここにいた。」


アルマは彼の言葉を黙って聞いていた。彼の目は再び遠くを見つめ、何かを思い出すかのようにぼんやりとしている。


「僕は、どうしてこんなに疲れているんだろう…。どうして、何もかもがうまくいかないんだろう…。ここに来るまでのこと、あまり覚えていないんだけど、ただ、心が重くて、何かを失ったような気がしてならないんだ。」


アルマは彼の言葉を受け止めながら、静かに紅茶を差し出した。「この紅茶を飲んでみてください。心を落ち着けて、少しずつ思い出していきましょう。」


彼はお礼を言って、紅茶を手に取った。しばらくカップを見つめた後、ゆっくりと紅茶をすすった。温かな液体が喉を通ると、彼は少しだけ息を吐き出した。


「そうだ…僕は…家族がいたんだ。でも、いつの間にか、その記憶が霞んでしまって…。それでも、何かを守らなければならないって思って、ずっと走り続けていたんだ。」


アルマは彼の苦しみを理解するかのように、静かに頷いた。「大切なものを守ろうとする気持ちは、とても素晴らしいことです。でも、自分を追い詰めすぎてしまうと、心が壊れてしまうこともあります。」


彼はアルマの言葉に耳を傾けながら、再びスープをすすった。「…そうかもしれない。でも、どうしても守りたいものがあったんだ。だから、自分がどんなに苦しくても、それを守るために…」


「でも、今は少し休んでもいいのかもしれませんね。」アルマは優しく言った。「ここは、そんなあなたが立ち止まり、心を癒す場所です。過去の重荷を一旦置いて、少しの間、何も考えずに過ごしてみてください。」


彼はしばらく黙ってアルマを見つめていたが、やがて小さく頷いた。「ありがとう…少し休ませてもらうよ。」


その後、彼は静かに席を立ち、窓の外を見つめた。雨はまだ降り続いていたが、彼の表情には少しだけ安らぎが見えた。


「ここに来てよかった…君に会えて、本当に救われたよ。」


アルマは彼に微笑みかけた。「またいつでもお越しください。あなたの心が軽くなるまで、私はここで待っています。」


彼は再び感謝の意を表し、カフェの扉を開けて外に出た。雨の中を歩く彼の背中は、最初に来たときよりも少しだけ軽く見えた。


アルマはカフェの中に戻り、また一つの魂が癒されたことに満足感を覚えた。雨音が静かに続く中、彼女は新しいお茶を淹れながら、次の訪問者を待つのだった。今日もまた、アポカリプスカフェテラスでは小さな奇跡が起こり、そして続いていく。





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