第16話 続く日々、変わらない思い。
X+1年1月某日:相沼優志
すっかり白銀の世界になった年明け、僕はいつもと変わらない冬を過ごしていた。
朝、目が覚めると大量の雪が家の前に積っているのを確認し、仕方なく雪かきを1時間かけて行った。僕がようやく雪を片付け終わると、心春が「手伝うー!」とスキーウエアに身を包んで登場した。そして、雪だるまつくりに付き合わされる羽目になってしまった。
雪だらけになって家の中に入ると、心春は手洗いうがいを早急に終わらせて今度はココアを要求した。本当に人使いの荒い妹だ。僕は呆れながら彼女の言いなりになった。
「お兄ちゃん、ありがとー!」
「うん」
心春は柔らかい笑顔を浮かべ、ふーふーとココアに息を吹き掛けた。妹の穏やかな雰囲気に僕は何だか安心感を覚える。
テレビを点けると、情報番組が流れていた。彼らは年明けだというのに楽しい話題ではなく難しいことを辛辣な言葉で話し合っている。
ココアを片手にソファーに座ると、隣に心春も座った。心春がテーブルの上のリモコンを取る。多分、録画したアニメでも見るのだろう。案の定、心春は録画画面を開き、魔法少女が闘うアニメを選択した。
「ねえ、おひっこしするところってどんなところー?」
「自然に囲まれたところだよ。ほら、叔父さんがいるところ」
「じゃあ、虫さんとあそびほうだいだね!」
「そうだね」
心春がやっぱり笑顔で話すので、僕もなるべく笑顔を貼り付ける。
僕らは、3月にこの住み慣れた街から引っ越す予定だ。お父さんがへーちゃんの一件で人事異動になったからだ。公にはされてないとはいえ、一般人に暴行を加えたこと、今回単独で犯人のところに向かったことが原因らしい。
12月、へーちゃんは医療少年院への送致が決まった。動機が虐待にあるため刑事的な罰は適当ではないと判断されたのだ。現在は継父でもなくなり「他人」である古積殺害に関しても幼少からの虐待が認められ、それが今回の殺害の動機になったと判断された。また、彼の著しい情緒の不安定さも治療を必要とすると判断されたようだ。
テレビではへーちゃんの兄である和雄くんのコメントも報道された。彼はへーちゃんと違い、生粋の不良で怖いイメージだったが、いつの間にか僕の知る彼よりすっかり大人になっていた。
「事件を知ったときのお気持ちや、過去の虐待についてお話できる部分がありましたらお願いします」
「母が殺されたと聞いて真っ先に弟のことが頭に過りました。弟ならやりかねない、と。幼い頃から日常的に暴力をされ支配されてきたので、殺したいと思っても当然だと思いました。小さい頃から母が連れてくる男や、母本人にも暴力を振るわれていました。相当恨んでいたはずです。母の機嫌が悪いときとか、よく殴られていました。酒で大体酔ってるのでその勢いもあると思いますけど。あと、弟は見た目がキレイだとよく言われていて……親の知り合いにはわりと従順にしてたので、母が連れてくる男に好かれてました。だから、嫉妬もあったと思います。弟は継父にはなついていましたが、些細なことで殴られていたし、置いていかれたとも思っていましたし……。なので、複雑な思いがあったと思います。根っこでは継父のことを恨んでたんだとも思います」
「お二人とも児童養護施設で暮らしていましたが、何故弟さんだけが家庭復帰したのでしょうか」
「わかりません。弟は途中で施設変わったので。でも、施設に馴染んでる感じではなかったです」
「施設が変わった理由は?」
「職員に暴力を振るったからです。弟は、当時かなり不安定だったので自制が効かなかったんだと思います。話していても噛み合わないことも何度かあったし、正気じゃないんだろうなと思ってました。今思えば、その頃からきっと治療が必要だったんだと思います。今さらですけどね」
「施設が変わってから連絡を取ったことはありますか?」
「ええ、何度か電話はしました。会ったのは弟が家に帰ってから一度だけです。そのときに弟に今は大丈夫なのかと聞くと変わっていない、母さんは相変わらず暴力的だしまた知らない男を連れてきていると。その男と別れたらお前のせいだと酒瓶を投げられたと言っていました」
「そのとき、お兄さんはどうしたんですか?」
「施設に戻ったらいいと伝えました。自分もとても弟を養う余裕なんてないので。でも弟は施設も自分のことを信じてくれないから嫌だと拒んでいました」
「殺害について、何か言っていましたか?」
「……自分が冗談で殺したら? と聞くと笑ってできたらいいのにと話していました。まさか、本当に殺すとはそのときには思いもしませんでしたけど」
「弟さんが、お母さんとお父さん殺害後、自殺しようとしたことについて、キレイにしたかったと話していますが、それについてどう思いますか?」
「本当にキレイにしたかったんだと思います。小さい頃からお腹が痛い、内蔵を取り出したいと言うことはありました。自分は本気ではないと思ってたんですけど……。でも、本当に本人はキレイにしたかったんだと思います」
「……殺人を止められるとは思いませんでしたか」
「わかりません。でも、もっと気にかけてあげていれば変わっていたかもしれません」
和雄くんの人が変わったような疲れ切った声が、流れるとやるせなかった。彼もまた、複雑な気持ちを抱えているのだと思うと、マスコミにもソッとしてあげてほしいと思ってしまう。
僕は、あの日以来へーちゃんと会っていない。あの、ドロリとした血の感触を手のひらに残したまま、へーちゃんは遠くへ行ってしまったのだ。
年末に一度、和雄くんが我が家に来た。数年ぶりの彼はすっかりやつれていて、何だか可哀想だった。隣にはキレイな女の人がいて、お腹が大きくなっている。和雄くんはお父さんになったのだ。
「相沼さん、平和が……弟が、ご迷惑をおかけしました」
リビングに招き入れると、和雄くんが僕とお父さん、それからお母さんに頭を下げた。それに倣って、奥さんも小さく頭を下げる。世間ではへーちゃんと僕は家出を計画して逃亡したことになっていた。僕は彼が殺人を犯したとは知らなかったことになっている。それでも、何故だか和雄くんは僕らの逃亡生活の事実を知っていた。へーちゃんが教えたのだろうか。
既に退院していたお父さんは足を組んで座り、無言だった。お母さんは困ったように眉を八の字にして「顔を上げて」と声をかける。頭を上げた和雄くんは涙目になっているが、泣かないように唇を噛んでいる。そういうところは、へーちゃんによく似ている。
「弟が捕まる前に、手紙が届いたんです。母さんを殺した後にでも書いたんでしょう。優志くんを巻き込んでしまったこと、弟も後悔しています。本当に、申し訳ありませんでした」
「和雄くんが謝ることじゃないよ!」
僕が思わず反応すると、和雄くんは弱々しく笑った。
「こんなことを言うのも変かもしれないけど、平和の友達でいてくれてありがとう」
「……僕は、何もできなかかったよ……」
「でも、一緒にいてくれただろ」
和雄くんの穏やかな声を聞くと、涙が出そうだった。僕は乱暴に目を擦り、和雄くんの目をしっかりと見る。
「和雄くんは、これからどうするの?」
「どうもしない。家族と一緒に暮らすよ。……もうすぐ子どもも生まれるし。そんで、平和が戻って来たら一緒にやり直そうと思う。遅いかもしれないけど、俺もようやくアイツと向き合える気がする」
「そっか……よかった」
僕が笑うと、和雄くんはうなずいてくれた。彼が穏やかな顔を浮かべてくれたことに、僕は少しだけ安心した。
「うちはここから引っ越すことにした。今後一切うちに……優志に関わらないでくれ」
僕らを見かねたお父さんが捨て台詞を吐いて席を立つ。バタンと大きな音を立ててドアを閉めた。
そんな言い方しなくてもいいだろと腹が立ったが、お父さんに何を言っても無駄なのだ。彼は、自分が正しいと信じて疑っていない。僕は怒りを自分の中で抑えこんだ。
「そうだ、平和が捕まってからクラスのみんなで平和に手紙書いてくれたんだってな」
「うん。届いては……いないのかな?」
確か、少年院は親族以外手紙を送ることができなかった気がする。僕らが手紙を書いたときはへーちゃんが病院か鑑別所にいるときだから、もしかしたら読んでもらえるかもしれないと淡い期待を持って出したのだ。
和雄くんは眉を八の字にして申し訳無さそうに目を伏せた。
「本人が読もうとしなかったらしい。……お前にもし会えたら伝えてほしいって言われたんだ。もう、平和のことは忘れてほしいって。クラスの人にもお前から、伝えてくれないか」
「そんなの……」
「本人は、たかが3ヶ月クラスメイトだっただけだし、自分はただ我慢ができなくて人を殺しただけの犯罪者だから、さっさと見限ってほしいって言ってた。言い方はアレだが……俺もそう思う。あまり、平和のことを引きずらないでほしい」
たかが3ヶ月。確かに、へーちゃんからしたらそうだろう。一緒に調理実習をした思い出も、文化祭で一丸となって頑張った日々も、へーちゃんから見たら何でもなかったのかもしれない。
でも、そう簡単に切り捨てられないよ。
もちろん、もうへーちゃんのことを心の片隅に追いやってる人はいる。それはそれでいいと思う。だからといって、みんながみんなそう出来るわけじゃない。
3ヶ月だけなのに、まるでずっと一緒だったかのようにつるんでいた近衛くんと加山くんが忘れられるわけがない。自分のやりたいことを手伝ってもらった類沢さんが忘れられるわけがない。恋心を抱いていた榊さんが忘れられるわけがない。真面目な五木くんが忘れられるわけがない。
そして、君に世界を守ってもらっていた僕が……見限れるわけがない。
僕の気持ちを理解してか、和雄くんが肩をすくめる。
「本当に、ありがとう。でも、俺が会いに来るのもこれで終わりだし、平和がお前たちの手紙を読むことも……きっと、ないと思う。それだけはわかってくれ」
「うん。……わざわざ来てくれてありがとう」
和雄くんは奥さんと軽く頭を下げて小さな声で「お邪魔しました」と帰っていく。
その後ろ姿を見て、僕は本当にへーちゃんが遠い存在になったのだと実感した。
数ヶ月も経てば、世間はもう事件を風化させた。虐待死した女の子の日記も、へーちゃんが語った虐待の日々も、事件当初は嫌というほど目に入ったのに今では全く見なくなった。
また、最初の頃はネットにはへーちゃんの実名や写真など誰かが上げて騒ぎにもなっていた。そのときの書き込みは「イケメンだから刑罰を回避した」、「母親だけでなく男にまで色仕掛した変態」、「私が抱かれたかった」だとか、酷い書き込みだった。和雄くんの働きかけでそれらはネットから消えたが、あれを本人が見なくて良かったと心から思った。
虐待特集もすっかりなくなり、今は知らない芸能人の不倫スキャンダルで話題は持ち切りだ。
お父さんも、まるで事件なんか無かったかのように何も言わなかった。なんなら、僕とは殆ど口をきかない。人事異動に対してはよほど不満があるようで常に不機嫌だった。
当然のように、学校でもへーちゃんのことは話題に上がらなくなった。へーちゃんの名前は、もはや禁句みたいになっていた。唯一、近衛くんが先生に頼んで残ったへーちゃんの席が、彼がこの学校にいたことを思い出させてくれる。でも、来年度になればへーちゃんの席は撤去される。
僕はへーちゃんを忘れたくなくて、絵を描き続けていた。僕だけでも、彼の地獄のような日々を忘れたくなかった。風化させていいわけがないのだ。
僕がへーちゃんに会えるのはいつなのだろうか。彼が嫌がっていた大人という存在に、僕らがなった頃だろうか。
「へーちゃん、元気かなぁ」
心春がココアを飲みながら唐突に言った。僕が驚いて心春を見ると、彼女はにっこりと愛嬌のある顔で笑った。
「こんどあそんでもらうやくそくしたじゃん! いまはとおくにいるってお兄ちゃん言ってるけど、コハルはね、ずっとまつんだ」
「そうだね……僕も待つよ。最後まで付き合うって約束したから」
僕は大きく伸びて、あくびをした。心春もつられてあくびをする。僕には穏やかな毎日が戻った。
へーちゃんには、きっとこれからこんな穏やかな日々が訪れるのだ。そのとき、一緒に笑えるように今はお互いのことを頑張らなければならない。
目を瞑ると眠気が襲ってくる。何だか心地よくて、僕はそのまま眠気に抗わないことにした。
夢の中では、僕もへーちゃんも小学生だった。
僕が泣いている。へーちゃんは「仕方ねぇなぁ」と手を差しのべてくれる。
「ありがとう」
僕が手をとると、へーちゃんは笑った。
彼が素直に感謝を受け取ってくれて嬉しかった。
僕もつられて笑った。
君はいつまでも、僕の神様だ。
了
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