第14話 俺は、神様なんかじゃない。

〜X年9月14日:双郷平和


高校1年生の文化祭。それが、俺の人生を変える転機だった。

 当時通っていた高校では外部の人にも公開して文化祭が催された。

 そのとき、たまたま見つけてしまったんだ。

 糠部壮介は、継父の明星航一の高校以来の旧友だ。彼は明星に金を貸す代わりに俺を要求した男だった。

 糠部は元々男も女も好きになる人だった。顔が良ければどちらでも構わないし、年齢も問わないらしい。

 彼は、自分の姪っ子を見に文化祭に来ていたらしい。

 多分、俺も相当疲れていたのだと思う。もはや自分のことは動く大人のオモチャ程度に思っていたが、それでも自分にもどこか人権があるのだと信じたかったのかもしれない。

 そのときに思い出したのは、明星航一を殺した日のことだ。

 俺は、殺すことに多幸感を覚えていた。自分より強いと思っていた人間をねじ伏せられた事実、何より死ぬ前にピクピクと痙攣したり血肉が飛び散るのを見るのが、痛快だった。

 お前らが俺を使ってヨガってるんだから、俺だってお前らを使って気持ちよくなりたい。

 そんな邪な考えが過ぎってしまう。

 殺したい。

 別に、糠部だけが嫌いな訳ではなかった。母さんとだって児相の先生とのセックスだって嫌だ。

 ただ、糠部が特別だったのは……はじめての相手だったからだろう。お父さんが性的な遊びをしていたとはいえ、幼児だった俺に性器を入れようとしたのは最後の一度であり、入らなかった。母さんも俺が高学年になるまでは本番はしなかった。だから本番をした最初の相手は、糠部壮介だった。  

文化祭を終えて迎えた夏休み、2週間の一時帰省が許可された。

母さんと二人で夕食を挟んでいるときに、思いきって家に戻りたいと話をした。夕食は、珍しく母さんが作ったハンバーグだった。冷凍食品ではあったが、それでも俺のために焼かれたハンバーグは美味しかった。

俺の話を聞いたとき、母さんは意外そうに目を丸くした。

 「意外だわ、アンタ私のこと嫌いでしょ」

 「そんなんじゃない」

 正直、好きという一言で片付けられる感情ではなかったが、少なくとも彼女に息子として愛されたいという気持ちだけは確かだった。だが、高校生にもなってそれを言葉にするのは恥ずかしかった。

でも、何故か俺のことを完全に見捨てることなく施設まで面会に訪れる母さんに、もしかしたら反省しているのかもしれないとうっすら期待しているのも事実だ。

 母さんは児相の家庭訪問対策で、俺が外泊している間だけは酒を我慢していた。小学生の頃なんて素面の母を見ることの方が少なかったのだから、こうやって普通に会話ができること自体がある意味凄いことだ。

 「まあ、私も和雄が来るよか平和の方がいいけどね。よくよく考えたらそこらの男引っかけるより、アンタの方がイケメンだしね。自分の息子ながら本当に顔好みだわ」

 そう言ってゲラゲラ笑う母は、やっぱり反省なんてしていなかった。母は、夕食の途中なのに立ち上がり、俺の腕を掴んだ。

 「私もバカじゃないのよ。仮にもアンタの母親なんだから、アンタの考えなんてわかるの。アンタの帰りたい理由は私じゃない。アンタは自分を肯定してくれるなら誰でもいいのよ」

 「……」

 「ねえ、私のこと抱いてよ。そしたら、家に帰してあげる」

 「……何で、そんなこと」

 「もう高校生でしょ? アンタ自身興味持ってきたんじゃない? エロ本なんて施設じゃ買えないだろうし、それにアンタやたら男にばっかり目つけられてたんだから、私が鬱憤晴らさせてあげるわ。良いお母さんでしょ?」

 力で抵抗すれば、母さんなんて簡単にどうにでもできるとわかってはいたが、抵抗する気も起きなかった。それに、母であろうと彼女は女性だ。確かに、女を抱けば自分は全うな男なのだと思えるはずなのだ。もっと、自分が男である自信がほしい。この、腹部の痛みを無くしてほしい。

 「そうそう、古積……ああ、アンタのいうお父さんね、前に一回ここに来たの」

 「え?」

 満足をしたところで、母さんはタバコを吸いながらそんなことを言った。

 母さんは裸のまま、服を着ようともせずベッドでゴロゴロしている。俺は衣類をしっかり着こんで部屋の隅に体育座りをした。結局、下腹部の違和感はなくならない。気持ち悪い。

 「よりを戻そうって言われたんだけど、自分が女捕まえてきて蒸発したんだから無理に決まってるでしょって話したら帰っていったわ」

 「……あの女の人と別れたんか」

 「多分ね。まあ、今は何してるのかわからないけど」

 「……母さんは、どうしてお父さんと結婚したんだよ」

母さんは俺を変なものでも見るような目で見て、溜め息を吐いた。

 「何か、そうだなー。あのときは、この人なら私のこと一番に思ってくれそうって思ったんだけどね。でも間違いだった。アイツの目当ては、アンタだったわけ」

 「それって……」

 「ロリコンよ、ロリコン。古積と結婚したとき、アンタまだ赤ちゃんだったから。アンタが可愛くって可愛くって仕方なかったわけ。でも、それってフツーの、子ども好きじゃなくて」

 「よくわからねぇ」

 「わかってるんでしょ、本当は。バカじゃないの?」

 俺は、母さんの言葉に何も言えなかった。

 わかってはいる。でも、ここで絶望するわけにはいかなかった。ここで絶望してしまえば、俺はもう立ち上がることができそうにもなかったのだ。

 お父さんのことは、嫌いではない。多分、俺のことを一番可愛がってくれていたから。それがどんな理由でも、お父さんは俺を愛してくれた。

 迎えに来てほしい。

 もしお父さんが迎えに来てくれたら糠部を殺すのもやめよう。それで、お父さんを説得して母さんと再婚してもらって、和雄も呼んでまた4人でやり直したい。 

 母さんと表面上わかり合って、お互いに協力して生きていくのだと児相の先生に嘯いた俺は、どうにか高校2年生の5月に家庭復帰を認められた。

 糠部を殺すと決めたはずだったが、それでもすぐに殺人を決行できるほど勇気があるわけではなかった。殺すこと自体に臆したわけではない。ただ、殺しをしてしまえば二度と幸せな夢を見ることも、叶えることもできないのだとわかっていたから動けなかった。きっともう、明星を殺したときのようにはうまくいかない。

 家庭復帰するまでは糠部を殺すことばかり考えたのに、いざ家に帰ってしまえばそんなことより母さんと過ごしたい、お父さんに会いたいという気持ちが膨らんでしまった。

本当はきっと、殺すよりも何よりも、あたたかい家族が欲しかった。やり直すことが一番の望みだった。俺にだって、身体以外に価値があるのだと認めてほしかった。

 ……でも、家庭復帰した後も、母さんは俺を彼氏ができるまでの性処理道具にするし、糠部は変わらず俺の「キレイ」な顔が好きな様子だし、お父さんは迎えになんか来ない。

 現実は、何も変わらない。

 やり直しなんか、できやしない。

 俺も、何も変わらない。

 汚くて、弱いままだ。



糠部への復讐を心に決めて、俺は母のいる家に帰ってきた。家にはお父さんのものも、明星のものも殆ど無くなっていたのは知っていたが、更に和雄のものもなくなっていた。そんな中、俺のものだけが部屋に残されていて、不謹慎にも安心した。

 児童相談所も、すぐにさよならできる訳ではなく、家庭復帰してから月に一度家庭訪問することが約束された。俺も母も、反論せずに受け入れた。そうしなければ自分達がやっかいもの扱いされることはわかっていたからだ。

 母も俺も、家庭で過ごすからといって仲が修繕された訳ではなかった。俺は彼女が次の男を見つけるまでのストレス発散の道具。それだけのことだった。

 それでも、児童相談所にもうお世話になりたくないというのは共通認識なので、文句を言われないように家の中は綺麗にしようということだけルールにした。もちろん、掃除をするのは俺だが、母も以前のごみ屋敷にはしないようにゴミはゴミ箱に捨てるようになった。その小さな変化だったが、俺との約束を守ってくれているという事実が、少しだけ嬉しかった。

 6月に糠部のいる新徳高校に転入した。そこで、まさか相沼優志がいるなんて思ってもいなかったから驚いた。

 俺にとって、優は友達の一人だった。ただ、他のダチと違うのは彼が俺によくわからない感情を抱いているということだった。俺は、大体のことはやればすぐできるタイプだったので、学校ではよく称賛されていた。優も同じように俺を「すごい」と言っていたが、彼は俺を超人か何かと勘違いしているようだった。他のダチとは明らかに違う、羨望のような憧れのような好意的な目が怖かった。気持ち悪かった。

 本当は、俺はそんなに凄い人間ではない。俺はただの玩具で、既に人を殺した最底辺の存在なのだ。だから、こんな俺を凄いと言ってほしくない。そんな目で見ないでほしい。

 むしろ、優の方がよっぽど凄い人間だということを俺は知っている。俺は彼が不登校になっても仕方ないと思っていた。自分と一緒だった小学校時代も逃げ出しても許されるようないじめがあった。でも、優は小学も中学も高校も、登校していたのだ。勉強ができるとか、運動が得意だとか、そんなことよりも逆境に立ち向かえる人間の方が凄いに決まっている。それに、彼は何事も人のせいにしない。何でも自分のせいにするのは間違っていると思ってはいるが、それでも外界に責任を押し付けない優が、本当に凄いと思っていた。

 俺は、彼と再び友達の関係に戻ることを避けることにした。俺は、優に期待してしまうのだ。俺よりも凄くて、偉くて、強い彼なら、もしかしたら俺の逆境すらふっ飛ばしてくれるのではないかと、勝手に期待してしまうのだ。それが、優には重圧になるのだとわかっているのに、勝手に求めてしまう。それに、彼のような人間の隣にいると、自分の醜さが浮き彫りになるようで惨めだった。だから、もう関わりは最小限にすることにした。

 優は、俺に突き放されて寂しそうな顔をした。そうなることもわかっていたが、仕方ない。

 俺は、将来に期待しに来たのではない。

 終わらせに来たのだ、全てを。

 その為には、優は要らないのだ。



 転入して1ヶ月もすると、学校生活に慣れてきた。俺は、すぐに糠部に復讐することなく、無駄とも言えるような時間を過ごしていた。

 すぐに殺しても良かったが、まだ俺の中にある良心的なものが邪魔をしていた。明星のことは殺したのに今更とも感じるが、それでもすぐに殺人を決行できるほど勇気があるわけではなかった。このまま過去のことを忘れて次に進むことで、自分も普通の人間に戻れるような淡い妄想すら抱いていた。

 俺の考えが甘かったことは、すぐに思い知った。糠部は過去を謝るどころか、肉体関係を求めてきた。内心、彼の欲の深さにゾッとしたが、受け入れた。一緒にいる時間が増えれば殺したいときにすぐに殺せる。別に、警察に捕まることなんてどうでもいい。ただ、俺が糠部を支配できるならそれでいい。

 糠部は俺が好きと言いつつ、その目は俺の中にある明星航一の面影を求めていた。彼が気付いているのかはわからないが、糠部は俺に対して時折「明星」と呼ぶ。それは、俺が殺した継父の名だ。俺じゃない。糠部は学生時代から明星を好きだったのだ。

 俺のことを好きというくせに、俺に関係を強要するくせに、糠部は俺を見ない。別に、こんな男からの愛情なんて要らないからいいはずなのに、それでも何だか腹が立った。俺は結局、コイツらにすら存在を認識されないのだ。

 糠部は1週間に一度、必ず俺を呼び出す。合図は、アイツが俺の肩を叩くという形で取った。メッセージアプリは使用しなかった。肩を1回叩けば糠部が俺の家に夜来るということ、2回叩けば糠部の帰宅時間まで待つようにという指示だった。

 その日も糠部から夜家に来ると伝えられ、帰宅後はシャワーを浴びて待機した。母は夜に働くため、家にはいない。

深夜1時になると、糠部がインターホンを鳴らす。俺は無言で糠部を家に招き入れた。

家に入った途端、糠部は俺の口に自分の口を重ねた。奴の息が掛かって気持ち悪い。それでも、俺は両手を糠部の背中に回した。こうすれば、糠部が喜ぶことは知っている。

糠部は何度もキスした後、俺の手を引いて俺の寝室まで行った。ベッドに押し倒し、荒い息をしたまま、俺に覆い被さる。

後は、彼の指示に従えばいい。糠部を満足させることは簡単なことだった。

行為中は、気持ち悪さと同じくらい快感があって、自分でもよくわからなかった。嫌なはずなのに、苦しいは ずなのに、身体は気持ちがいいと訴えている。そんな自分が汚物のように思えた。

「これ、前から気になってたんだけど、まだ持ってたんだな」

糠部が衣類を着ながら俺の寝室にある兎のぬいぐるみを手に取った。俺は、腰の痛さに耐えながら、糠部の手からぬいぐるみを奪い取る。

「触んな」

「悪い悪い。それ、誰から貰ったやつだっけ。古積?」

「違う、母さん」

糠部が触ったぬいぐるみの腹を撫でる。気持ち悪い手で触られてしまったから、後で洗わなくてはならない。

俺は、別にぬいぐるみが好きな訳ではなかった。だが、それでも母が幼い頃に買ってくれた誕生日プレゼントを捨てられなかった。施設での生活が始まってからも、児童相談所を経由して母にこのぬいぐるみを施設に送って貰った。

「お前、案外可愛いところあるよな」

「うるせぇ、悪いかよ」

「いやいや」

糠部がおかしそうに笑う。俺はぬいぐるみを抱き締めて、糠部を睨んだ。高校生にもなって、不釣り合いだとか思われるかもしれないが、誰かに笑われる筋合いはないと思う。人によって大切なものは違う。俺は、これが大切なのだ。

いつもポケットに忍ばせているお父さんから貰ったお守りも大切だった。別に、ご利益があるとかそういうことが重要なのではない。要は、お父さんがくれたから大切なのだ。

殺してしまったのに、明星から貰った剣道の面タオルや竹刀だって捨てられない。それらも、児童養護施設菫学園で剣道を習っていたときは使用していた。はじめは抵抗感があったが、それでもこれも母に送ってほしいと頼んでいた。

親から貰ったものを大切にして、何が悪いのだ。物であっても、これが俺の唯一の親との繋がりなのだ。

糠部は、家族にバレないように3時には我が家を必ず出ていく。シーツ等は洗濯機に入れていくが干すのは俺の役目だった。

俺は、糠部が帰れば決まってトイレで嘔吐した。気持ち悪い。糠部も、糠部に抱かれて悦ぶ自分も。全てが気持ち悪い。

何故、吐いてまで泣いてまで、俺はアイツに抱かれているのだろう。自分でどうしてここに来ることを望んでしまったのだろう。復讐すると決めたはずなのに、何でまだ躊躇ってしまうのだろう。

死んでしまえば楽なのかもしれない。でも、死ぬための勇気はなかった。

多分、俺はまだ期待している。誰かが助けてくれることを。お父さんが、手紙を読んで迎えに来てくれることを。根拠もないのに、期待している。

でも、自ら助けを呼ぶ勇気はない。

何に対しても勇気が出なくて怖じ気づいている。俺はどこまでも弱くて情けない存在だ。



7月になり、クラスは文化祭の準備で賑やかだった。

俺は、ひょんなことからステージで歌を歌うことになってしまっていたが、以前ほどの抵抗感はなかった。

今までは汚い自分が人前に出ることに引け目を感じていた。しかし、今となってはどうでもいい。俺がどこで何をしたところで、自分の世界は何ひとつ変わらないのだとわかった。だから、別に何をしても、何もしなくてもいいのだ。

学校にはいるのだから、最低限できる範囲でクラスに貢献すればいいだろう。でも、俺にできることなんて殆どない。俺は、彼らとは違う。汚くて、どうしようもない人間以下の存在なのだから。

気分が落ちれば、とことん沈む。加山や近衛は俺の態度が気になるのか、時々「ボーとしてるぞ」とか「大丈夫か?」とか声を掛けてくれる。その言葉を自分の中で切り替えの言葉に勝手に設定して、「この言葉を言われたらとりあえず頑張ろう」と自分を奮い立たせる。それで、何とか言葉を紡いだ。せめて、彼らの前だけでも普通の人間を装いたかった。

生活費のために転校してすぐにアルバイトも始めていたので、7月に入ってからは更にシフトを増やした。以前、施設にいたときはカラオケ店でバイトをしていたが、今回は喫茶店で接客をしている。うまく笑えているのかはわからないが、客からは評判は悪くないはずだ。

日常は、文化祭日課やアルバイトを増やしたことで変化があった。でも、糠部との性生活は変わらない。何なら頻度が増えた。週1回から2回になった。土曜日の夜は必ず糠部から誘いが入った。

どんどん、腹が痛くなる日が増えた。吐き気がする頻度が増えた。微熱の日が増えた。それが、糠部との行為による一時の体調不良だとわかっていても、心のどこかでは妊娠してしまったのではないかと心配になる。腹を擦れば太った気がして怖い。

そんな中、母が男を連れてきた。母と年の近い真面目そうな男は、新しい彼氏らしい。彼は林道と名乗った。

「平和くんだよね、よろしく」

「……どうも」

握手を求められ、手を伸ばしたがその自分の手が震えていて慌てて引っ込めた。それを見て、林道は優しそうに笑った。

「すいません……」

「緊張するよね、大丈夫だよ」

林道は俺の肩を優しく叩いた。俺は、それが怖くて反応できなかった。

珍しく、母と食事を摂った。林道も一緒だ。俺が用意したカレーライスを二人は「おいしい」と言って食べる。

林道は、介護施設で介護士をしているのだと話した。母は、林道の仕事の話を林道にべったりとくっつきながら聞いていた。俺は黙ってカレーを咀嚼する。味はわからない。

「平和、昭文さんここで暮らすから、くれぐれも失礼ないようにね」

「わかってる」

「まあまあ、和葉ちゃん。僕がお邪魔してるんだから」

俺の前で、二人はキスをする。カレー食べた後なのに凄いなと感心しながら、俺は三人分の食器を運び、洗った。


それから、三人での生活が始まった。林道は、すぐに化けの皮を剥がした。

「平和くん、ちょっと来て」

「何」

俺が近寄ると、林道は突然俺の顔を叩いた。あまりにも唐突すぎて訳がわからず林道を見ると、林道は笑っている。

「あのさ、ご飯炊いた?」

「え、冷凍庫に入ってるから今日は炊かないけど。三人分あるし」

「炊いてよ。何作る気なの?」

「炒飯」

「ダメ。鮭買ってきてくれない? 今日はムニエルがいいな」

え、何で叩いたの。

意味がわからず立ち尽くしていると、林道は笑顔のまま、また俺の顔を叩いた。明星に殴られた時ほどの痛みはないが、それでも頬がジンジンと痛む。

「まさか、お金待ってる? バイトしてるんならお金あるよね?」

「金は、大丈夫だけど……」

「今から行ってらっしゃい」

林道が三度手を上げたのがわかり、俺はすぐに寝室へ向かいリュックを持ち出した。そして、そのまま玄関で靴を履く。

後ろから大きな声で「行ってらっしゃい」と言う声がした。


林道昭文のことは、すぐに嫌いになった。

全く意味がわからない。理由がわからない。会話の前に必ず叩き始める。

しかも、自分で食べたいと言ったくせに、材料を買ってきた後に「やっぱり違うのがいいなぁ」と言って出前を取ることもしょっちゅうだった。訳がわからなかった。

林道が来たことにより、俺は糠部とは糠部の車で性行為をするようになっていた。糠部が我が家の前に深夜1時頃に車を停める。俺がそこに行くようになった。お陰さまでシーツを洗う手間は俺ではなく糠部へと変わった。

「ソイツ、いつまで家にいるんだ?」

「さあ。母さんか林道が飽きるまでじゃね?」

「嫌だなぁ」

糠部が舌打ちをする。俺も、林道がいつまでも家にいるのは嫌だった。

「和葉さんって、男見る目ないよな」

「そーだな。アンタも相当見る目ねぇけど」

「そうか? 俺はお前が好きで良かったよ」

気持ち悪。

糠部が笑うので俺も取り敢えず笑う。彼らの笑う顔を見ると、何故か笑わなければならない気がした。そうだ、お父さんがよく言っていた。「私が笑ったら、平和も笑いなさい」と。そうすれば、大人が喜ぶことは経験として知っている。明星は例外だったが。

糠部の車から出て、家に戻る。玄関の鍵を閉めると、胃から込み上げてくるものを感じた。

俺は、トイレに向かおうと靴を脱ぐ。口を抑え、吐き気を必死に抑えた。

「平和くん」

名前を呼ばれ、顔を上げると林道が薄気味悪く笑っていた。コイツは本当によく笑っている。

返事をしたくても、喋れば吐きそうで声が出なかった。俺は少しだけ首を横に振る。今は話せないと伝えたかった。

「君は、顔は綺麗なのに、随分汚いことをしているんだね」

また、林道は俺の顔を叩いた。それほど強い力ではなかったが、足がもつれて転ぶ。

「げほっげほっオエッ……」

「うわ、きたな」

堪らず、四つん這いになって我慢していたものを吐くと、頭上で林道が笑った。

「顔が綺麗な人はいいねぇ。羨ましいなぁ」

呼吸を整えようと必死に酸素を求める。林道はそんな俺の頭を思いっきり踏んづけた。額が床にぶつかり、ゴンと音が鳴る。

「和葉ちゃんは従順で可愛いんだけどなぁ。君ももう少し、可愛げあるといいんだけど、顔だけだもんね」

林道は笑ってそれだけ言うと、足を避けてそのまま2階へ上がっていった。彼は母の部屋で寝ている。

俺は床に寝転がり、呼吸が落ち着くのを待った。なのに、涙が溢れて落ち着かない。苦しい。涙も抑えられず、うまく呼吸もできず、何分も玄関でもがいていた。自分でも、こんな自分が滑稽だった。

何分経ったのかわからないが、何だが1時間くらいのたうち回っていた気分だった。俺はよろめく足で浴室へ向かい、自分の汗や糠部の体液を流した。

せっかく落ち着いたのに、身体を洗えば涙がまた溢れてきた。強引に目を擦っても、溢れるものは止まらない。

涙は止まらないまま、俺は自室に戻りぬいぐるみを抱き締めて布団に転がった。嗚咽が漏れないように、顔をぬいぐるみに押し付ける。涙で汚れるからまた洗わないといけないけど、今はそんなことはどうだっていい。

下腹部が痛い。気持ち悪い。何かが溜まっている。おかしい。もう出してきたはずなのに。空っぽのはずなのに。痛いおかしい痛い苦しい苦しい痛い痛い痛い痛い。

やり返してしまいたい。殴りたい。何で俺がこんな気持ちにならないといけないのだろうか。俺が何をしたというんだ。俺は言われた通りにしているのに、何が違うんだ。

糠部のことも、やっぱり殺してやる。社会的にも、殺してやる。死ねばいいんだあんな奴。林道も殺してやる。お前はどこから沸いてきたんだ。邪魔をするな、死ね。何で家族でもないお前に叩かれないといけないんだ。死ね。母さんも殺してやる。俺よりあんな男が大事なんだろ。じゃあ一緒に死ね。

俺は、ゆっくり身体を起こし、キッチンへ向かった。包丁を手に取り深呼吸する。

「平和」

仕事から帰ってきたのだろう、母が包丁を握る俺に声を掛けてきた。俺が包丁を持ったまま振り返ると、母はそれでも平然としている。

「それ、置いて」

「何で」

「これ」

「……?」

母はコンビニの袋からプリンを取り出す。俺は、意味がわからずじっと母を見つめた。

「二人分しかないの。私と、アンタの分。一緒に食べてから殺すなり死ぬなりしなさい」

「……」

仕事で酒を呑んできているはずなのに、どうやら今日は酔えなかったようだ。いつになく冷静に話す母に、俺は何故か素直に従い包丁をしまった。

二人で食卓を挟むのは、恐らく施設退所前の外泊以来だった。俺は吐いたばかりで食欲が沸かなかったため、黙って母を見つめていた。母は、そんな俺を気にせず「おいしい」と言ってプリンを食べた。

「殺す気だった? それとも死ぬ気だった?」

「殺す気だった」

「ふうん。アンタ、本当に航一さんに似てきたわね」

「……そう思う」

母がプリンを食べ終えたので、俺は自分のプリンを差し出した。母はそれを黙って受け取った。

 明星に似てきたのは、自分でもはっきりわかる。腹が立つ瞬間も、殴りたいと思うタイミングも、あの血の繋がらない継父と似ている。俺は我慢するが、明星は我慢しない。それだけのことだ。

「取って置こうか?」

「いい。買ってきてくれてありがとう。食べてくれ」

「そ」

母は、頷いて2個目のプリンの蓋を剥がす。

「母さんは、アイツのどこが好きなわけ」

「わかんないわよ、そんなの。でも、いると安心するのよ」

母はそう言うと、プリンの空を2つ持って立ち上がった。

俺は、母の手を掴んだ。無意識だった。

「今日は甘えたさんなのね」

「……」

「ほら、殺すなら今よ?」

「……嫌だ」

視界が歪む。また、涙が床に落ちていく。

「嫌だ……嫌だ、違う、そういうつもりじゃない……」

「古積のところ、行くんでしょ?」

「行かない。まだ、行かない。ここにいる。いるから、だからお母さんといるから」

母の手を放したくなかった。

こんなつもりじゃなかった。本当は、期待している。糠部を殺さないのも、良心に縛られているからだけじゃない。本当は、まだやり直せると期待している。お母さんと、できればお父さんと。和雄も入れて、みんなでやり直したい。普通の、どこにでもいるようなありふれた家族になりたい。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

「アンタも、本当にバカよね。まあ、私の子だから仕方ないのか」

母はゴミ箱にプリンの空を投げた。投げたゴミは見事にゴミ箱に入る。何度も洗ってから捨てるように話しているが母には通用しない。

「アンタがどう思ってるのかわからないけど、私はね、アンタと望んでることが違うのよ。私はもう、過去に戻りたくないの。やり直すとか、そんなことはしたくない。自由に生きるのよ。その方が楽だから」

「……はい」

「アンタのことも、顔以外好きなところないし」

「はい」

「だから、アンタもさっさと古積のところ行くなり好きなことしなさいよ。私を殺して自由じゃなくなるなんて、馬鹿みたいよ」

「はい」

母が俺の手を振り払う。俺は、抵抗せずそのまま手を放した。

保身のためではなく、母は本当にわざわざ自分や林道を殺すのが無駄なことだと思っているのだろう。それは、確かにその通りだった。

 でも、せめて嘘でも振り払わないでほしかった。ハッキリと好きではないと言わないでほしかった。聞かなくたってわかっているのに。

それでも、殺そうとしたときに優しくするのはズルイだろう。林道の分は買わないのに、俺の分だけ、俺の好きなものを買ってくるなんて、殺してもいいって言うなんて、ズルい。

 部屋に戻れば、母がくれた兎のぬいぐるみが俺を待っていた。俺はまたそれにすがって寝るのだった。



夏休みも終わりに近づいた頃だった。

母か酔っ払いながら唐突に「昭文さんと結婚するから」と言った。

俺は、母の呑んだ酒瓶をゴミ袋に詰める手を止めていた。驚いて母を凝視すると、母はおかしそうに笑った。

「いいでしょ? 別に。私の勝手だもん」

「でも、2回も結婚で失敗してるだろアンタ」

「今度こそ大丈夫よ。児相にも昭文さん好印象だったし」

「そうかもしれねぇけど、だって」

二人で決めたゴミ屋敷にしないというルールすら、林道が住み着いてから自然消滅してしまった。母は完全に、林道の操り人形に成り果てた。

「せめて、俺が卒業するまで待って……」

「何でアンタに合わせないといけないのよ。てか、聞いた? 和雄も結婚するんだって」

「は?」

突然の兄の話に、思考が纏まらない。和雄が結婚? 

そんなこと、全く聞いていなかった。児童相談所だって知っているはずなのに何も話してくれていないし、何なら和雄本人から伝えてくるべきことではないのだろうか。

「後さ、アンタの財布から5千円貰ったから。昭文さんとデートしてくる」

「……」

何も言えなくなって、俺は部屋掃除を止めて自室に戻った。林道はまだ戻ってきてはいない。あんな暴力男が介護なんてしているのだから世も末だ。

部屋に戻ると、脱力感に襲われた。力なく、ドアの前でへたりこむ。もう二度と立ち上がりたくなかった。

あの時、殺しておけばよかったのだろうか。いや、そんなことをしても無駄だっただろう。意味なんてないのだ、俺の行動にも、存在にも。

誰かに助けてほしかった。もう、自分では手詰まりだ。どうすることが正解なのか、全くわからない。

そこで、ふと優の顔か頭を過る。そう言えば、俺は彼に手紙を渡していた。小学6年生の拙い手紙には、助けてほしいと書いている。でも、大人に読んでほしいと言ったから、優はまだ読んでいないだろう。

俺は、それを回収しなければいけないと思った。ここで優の顔が浮かんだのは、間違いなく優に期待したからだ。

そうだ、期待をするから苦しいのだ。お父さんに期待して家庭復帰したから、今バカを見ている。母に期待をしたから、今無駄な時間を過ごしている。自分に期待をしたから、更に首を絞めることになっている。

思い至って優の家へ向かった。優から押し付けられた彼の机の鍵も念のために持っていった。彼が何故これを俺に手渡したのかはわからないが、もしかしたらこうやって俺が優の家に行く口実でも作りたかったのだろうか。それなら要らないのに。こんなものなくたって、ちゃんとお前は俺の友達だったのに。でも、俺はお前の友達でいる資格すらなくなったけれど。

優のお母さんは俺を覚えていたようで「男前になったね」と笑った。嬉しくなかった。どこへ行っても、結局みんな俺の容姿を褒めた。それが怖い。俺の存在は容姿でしか認められないのだろうか。

 優は案の定、手紙を読んでいなかった。彼は手紙を返してほしいと伝えると拒んだ。だから、それを好機だと思ってお父さんから貰ったお守りと交換してもらった。

 お父さんへの期待を、無くそうと思ったから。だから、それを手放した。

 家に帰って、手紙をぐしゃぐしゃに丸める。ゴミ箱に捨てようとして、何故か躊躇われた。手が震える。捨てたいのに、捨てられない。俺は、諦めてそれを机の上に置いた。

 代わりに、ずっと使っていた剣道の道具を捨てることにした。明星から貰ったそれらを、ゴミ袋に詰めると涙が出てきた。あれだけ、殺すほど恨んでいたのに、明星から貰った繋がりを何故か捨てたくないと思ってしまう。

 「平和はセンスあるよ、上手」

 普段褒めることのない明星が、俺のことを称賛してこれをくれた。その時は、本当に嬉しかった。「ありがとう、大切にする」と言うと、明星もその時は優しく笑っていた。彼はアルコール依存症だったと思われるが、アルコールが抜けた一瞬、優しい顔をする時があった。それがあったから多分6年間我慢できたのだと思う。恐らくだが、俺は明星の本当の人格を知らない。彼は常に不安に支配されていてアルコールに頼っていた。それに、母さんとの結婚当初から病院からもらっている薬を飲んでいて、どこか不安定な人だった。本当の彼は俺の前にはいなかったのだと思う。そうはわかっていても、やっぱり彼のことを好きにはなれないが。

 お父さんとの繋がりも、明星との繋がりも手放し、残りは母から貰ったぬいぐるみだった。

ぬいぐるみを持つ手が震える。無様にも嗚咽が溢れる。俺はどうしてこんなことをしているのだろう。もう、わからない。

 結局、夜までぬいぐるみは捨てられなかった。俺はリビングのソファーに座りながらぬいぐるみを抱き、テレビを見る。テレビの中では虐待で死んだ女の子の日記が紹介されていて、心臓が痛くなる。

 「平和くん」

 既に我が物顔で我が家に住み着く林道が、隣に座った。俺はどうせ叩かれるとわかっているので反応しなかった。

 しかし、彼は叩かなかった。その代わり、俺の頭を掴むと乱暴に口を重ねてきた。

 意味がわからず、慌てて林道の身体を押して引き剥がす。林道はやっぱり優しく笑っている。

 「君、今までずっと男の人と関係持っていたんだよね?」

「離れろ」

「何でさ、こういうことしたくてやってるんでしょう?」

お父さんや、糠部が向けるよくわからない好意も、林道からは伝わって来ない。林道にはそんな好意は無いだろう。それなのに、俺を笑いものにしようとしてキスなんかしてくるのだ。

林道は完全に、俺で遊ぶ気だ。俺と、ではない。完全に物だと思っている。林道は、俺の両手を掴んだ。

「嫌に決まってるだろ、ふざけんな!!」

「いいでしょ、どうせ誰にでも腰振るんだから」

「いいわけねぇだろ!!」

言葉ではいくらでも反論できるのに、何故か俺は奴が押し倒してきたのを振り払うことができない。手が、体が、震えて力が出ない。口の中が渇く。怖い。

行為自体も怖い。でも、反発した後の暴力も怖い。コイツを振り払って母にもっと嫌われるのが怖い。独りになるのが怖い。怖い。全部、怖い。

何故、俺が出会う大人はこんな奴ばかりなのだろう。彼が悪いのだろうか。

いや、ここまで来たらきっと悪いのは俺なのだ。俺が、存在しているから悪いのだ。

抵抗したらいいのに、それでも抵抗できない自分がいる。殴ればいいのに、殴れない。震えは止まらない。頭はグルグルと思考が纏まらない。

よくわからないまま、俺の思考は完全に停止した。

よくわからなかった。

何かしたかもしれないし、何もされてなかったかもしれない。

でも、もう突然プツンと世界が消えた。

次目が覚めたときは、ウサギのぬいぐるみと一緒にソファで寝そべっていた。

林道は、いない。

もしかしたら、最初からいなかったかもしれない。

もう、訳がわからない。

ただ一つはっきり言えるのは、俺が汚いことだけだった。



「ふざけんじゃねぇ!!」

翌日の夜、俺はついに声を張り上げていた。

夕飯は、用意していた。体調が優れなかったので、肉を焼いて野菜を盛り付けた。それでも十分なご飯なはずだ。

それでもいつもの如く、林道は「今日はスパゲッティーが食べたい」とか抜かしてきた。いつもなら我慢して新しいものを用意したが、今日はもう限界だった。

林道のために用意した食事を、林道に投げつける。せっかく焼いた肉も、盛り付けた野菜も無造作に散らばった。皿はガシャンと大きな音を立てて散らばる。

散々俺を叩いたくせに、自分に危害があると林道は目を丸くした。その態度も腹が立った。

「家に突然来たと思えば好き勝手やりやがって!! ふざけんな、誰が飯用意してやってると思ってんだよ!! そこはフツーありがとうございますだろ!! 感謝もできねぇのかクソが!!」

「いや、感謝してない訳じゃないよ? ただ、今日はスパゲッティーが」

「我が儘言うなら自分で作れよ!! いい年にもなって我が儘言ってんじゃねーよ!!」

心臓が怖いほどドクドクと鳴っている。頭に血が昇る。もう、限界だ。我慢できない。

俺は、自分の分の食事も林道に投げつけた。林道の腕に当たり、皿はまた砕ける。彼の腕から血が流れる。

「落ち着きなよ、平和くん!」

「うるせぇ! 出ていけ!! ここはお前の家じゃねー!! 出ていけ出ていけ出ていけ!!」

椅子を持ち上げ、林道に投げつける。林道は無様に転んだ。

俺はすかさず奴に馬乗りになり、思い切り顔面を殴る。

「や、やめ」

「この害虫が! 母さんに言い寄りやがって!! 母さんは男がいないと生きていけないからって変に言いくるめやがって!! ふざけんなクソが!!」

何度も何度も顔面を殴る。林道の鼻から大量に血が吹き出るが、それでも手は止まらない。止めたくない。

 「お前のせいだ!! またお前のせいで、俺は孕むんだ!! 痛いんだよ、なぁ、テメェにわかるか? なあ! なあ!?」

 林道は顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。俺は、その顔を見ると不思議と愉快な気分だった。明星が車に吹き飛ばされたのを見たときのような快感がある。

 「う、訴えるぞ……」

 林道が振り絞るように声を出す。でも、その声も震えていておかしかった。

 「いいぜ、訴えろよ。俺もその時はお前のこと訴えてやるよ。今までの暴力のこと」

 「……」

 俺は、林道の上から降りる。林道はフラフラと立ち上がった。顔は、腫れており痛々しい。涙と血が混ざりあってあまりにも無様だった。

 「お前が訴えるなら俺も訴える。お前が黙って俺たちの前からいなくなるならお互いになかったことにしようぜ。どっちがいい?」

 「……去るよ、こここら去る。だから、頼むから、殺さないで」

 殺すなんて言っていないのに、怯えながら林道は言った。俺は、林道の怯える姿を見ていると、本当に楽しくて楽しくて仕方がなかった。

 本当は、もっと殴りたかった。もっと泣いてほしかった。何なら、死んでほしかった。でも、今は我慢するときだろう。殺す相手は選ばなければいけない。コイツをここで殺せば糠部のことは諦めないといけないかもしれない。慎重に動くべきだ。

 「じゃあ、今すぐ消えろ」

 「に、荷物を」

 「後10数える間に家から出ないなら殺す」

 俺がカウントダウンを始めると、林道は慌てて走り去った。彼は俺を振り返ることもなく消えていった。

 「あははは……はは」

 無様な林道の姿に、俺は床に座り込んで笑っていた。もう、アイツに会うこともないのだ。俺は、アイツに勝ったんだ。

 俺は久しぶりに大きな声で笑っていた。面白くて堪らなかった。

 なのに、手は震えている。

 どうして震えるのだろう。

 わからない。何も、わからない。



 母は、林道がいなくなったとわかった途端、俺に酒瓶を投げつけた。

「アンタのせいだ! アンタがいると私は幸せになれない!! あの人は私を愛してくれたのに!! アンタがいるから海斗さんもアンタばかりに夢中になった!! 航一さんもいなくなった!!」

母は、仕事を辞めた。そして、酒を煽るだけの機械になった。そんな母が、滑稽に見えた。

母は、もうダメだ。

俺も、きっともうダメなのだろう。

下腹部の痛みは、どんどん膨れ上がる。食べたものを吐いては生理的な涙が溢れる。

 毎日、腹が痛い。

 「はぁっクソ、クソが、おえっ、し、ね、ゲホ、ゲホ、オエ」

 9月に入って、バイトも辞めた。笑顔を貼り付けて何時間も過ごすなんてことが、もうできなくなっていた。

毎日、学校が終われば腹が痛かった。何かが体の中で蹴ってきている気がする。そう言えば昨日も糠部とヤったんだ。本当に孕んだのだろうか。

 心配になってきて、眠れなくなった。いつだか貰った睡眠薬を飲んで、寝るようになった。それでも、気持ち悪さに目が覚めて、何度もトイレに行っては吐いた。

 自分が、もう何を望んでいるのか、どうしたらいいのか、考えることもなくなった。

 腹が痛い。気持ち悪い。解放されたい。それが、俺の感情の全てだった。

 気付いたら、猫の死体で遊んでしまっていた。どうしてそんなことをしたのかわからない。でも、やってしまったのは事実だ。近衛も加山も顔をひきつらせていた。もう、彼らとはダチではいられないのだろうと感じると、お父さんに置いていかれたときのような気持ちになった。それでも、猫の死体を明星の車に轢かれて頭のぐちゃぐちゃになった死体と重ねている自分が、確かにいた。そしてそれを楽しんでいるのも事実だった。

 家に帰れば、酒で潰れている母と、そんな母から貰ったぬいぐるみが待っている。俺は、包丁を持ち出し、兎のぬいぐるみを刺した。何度も、何度も刺した。それでも、まだ母を殺そうとは思わなかった。こんな状態になっていても、俺はまだ母への期待を残していたのかもしれない。

 ある日、優に糠部と性行為をしているところを見られた。俺は、その時にいよいよ今が復讐するときなのだと感じた。このときのために、自分たちの行為は録画してある。糠部の妻にでも送ってやろう。お前の夫はこんなにも穢れているのだと、教えてやろう。

 「双郷」

 糠部を殺すと決めた日、担任の天川に声を掛けられた。心底うざいと思いつつ、返事をする。

 彼は俺を応接室に入れた。俺は、席についてすぐに貧乏揺すりをした。落ち着かない。もはや、体裁なんてどうでもいい。はやく、解放されたい。

 「お前、最近どうだ?」

「別に、フツー」

彼は、俺が施設出身だと知っている。だからこそ、こうやって気にかけている。余計なお世話だ。

「家は?」

「フツー。俺、もう帰りたいんだけど」

「最近、顔色が悪い。苛々してることも多いし。何かあったんじゃないのか」

「何もねぇって!」

俺は、声を大きくして返事をした。いつもなら我慢できたことが、我慢できなかった。

「双郷、落ち着け。いいか、お前を責めてるわけじゃないんだ。ただ、先生はお前のことを知りたいんだ」

「知るも何も、何もねぇんだって」

声が震えている。何故だかわからないが、涙が目に溜まっている。自覚しているが、俺の涙腺は本当に緩い。

「……泣いてもいいぞ」

「泣かねぇ。つえー奴は、泣かないんだ」

「お前は一体、何と闘ってるんだ?」

何と闘ってる?

そうだ、俺、何と闘ってるんだろう。

俺は目を強引に擦り、天川を見た。天川は眼鏡越しに俺を見ている。彼が何を思っているのかわからない。

「……話したいときに話なさい。無理はしないように」

「……はい、大声出して、すみませんでした」

自分を知ってもらう勇気がなかった。自分をさらけ出すことが怖い。

天川から解放されると、安心した。彼に何も侵されなかったことに、心の底から安堵した。

そして、俺は糠部が仕事を終えるのをただ待っていた。図書室で本を読んでいるフリをして、糠部に呼ばれる瞬間を待った。

「平和」

糠部が甘ったるい声で俺を呼ぶ。

俺は、糠部に連れられ体育館へ向かった。



糠部壮介が、屋上から落ちた。それを見届けると、喜びや安堵が込み上げる。

家に帰ると、母はいなかった。多分、男を探す旅に出掛けたのだろう。俺はさっさと手洗いうがいを済ませて寝室に向かう。

母から貰った兎のぬいぐるみは、腹から綿を出している。俺はそれを抱きしめて床に寝転んだ。

「ははは……ははははははは」

笑いが収まらない。誰もいないから何も気にせず大声で笑った。

俺は、勝ったんだ。

俺を散々殴りまくった明星も殺した。かつて言い寄ってきた汚い女共も脅せば逃げて行った。俺の生活を邪魔する林道も暴力で追い出した。性的な玩具として扱ってきた糠部も、殺してやった。

俺は、もう弱者ではないのだ。勝ったのだ。勝者だ。俺は、強いんだ。

「ははは……はは……」

また殺そう。こんなに簡単に人を殺せるのだから、まだ殺したっていいはずだ。次は母さんを殺そう。殺すのは楽しい。もっと、殺したい。

俺は、存外自分が強いのではないかと錯覚していた。いや、本当は弱いことを知っていたが、強いと思い込むことにした。



 「へーちゃんは凄いね」


 まるで、呪縛のようだった。

俺は、汚い人間だ。

たくさんの人たちと肉体関係を持った。その人数も覚えてない。誰と、何回ヤッたかなんて覚えてない。

 身体の中は、きっと彼らの汚いモノで溢れている。どれだけキレイに洗い流しても、こびりついた汚れは剥がれ落ちない。

 たくさんの動物を殺した。それに欲情している自分はまさに惨めで、恥ずかしい存在だった。手は、どれだけ洗っても血の匂いがするようで……それでまた興奮するような、変態だった。

なのに、彼がいつだってキラキラと眩しい笑顔を浮かべるのが嫌だった。

 怖かった。

 俺を、キレイだと、凄い人間だと、信じて疑わない彼が怖かった。

 友だちだと言われるなら構わない。

 ヒーローなどと思われるのは、居た堪れなかった。

 いや、違う。

 そんなもんじゃない。

 優は、俺を神様が何かと勘違いしている。

 周りよりは要領が良かったのは自覚している。学校の授業で困ったことはないし、家族をのぞいて他人とのコミュニケーションに困ることも殆どない。何となく、自分がどういう役割を求められているのか理解できるから、器用に生きていけてたと思う。

 でも、完璧ではなかった。給食セットを忘れることだってあったし、先生に怒られて不貞腐れることもあった。どこにでもいる、フツーの小学生だった。

 なのに、優は俺の失敗を見ない。凄いところしか見ないし、俺が間違っても「先生が間違ってる」と言う始末だ。

 なんだそりゃ。俺が間違わないってか?

 優は、そう言って俺を神様のように扱っていた。

 それが気持ち悪くて、怖くて、嫌だった。

 だから彼に手紙を書いた。

 これを読んだら、どんな顔をするのだろう。

 人や動物を殺した俺を、軽蔑するのだろうか。

 「大人になったら読んで」

 もし、優が本当に俺のことを知りたいと思うなら、約束を守らないで読んでくれるはずだった。

 でも、彼は読まなかった。

 神様の言うことは絶対だった。

 彼は、俺に逆らったりしなかった。

 でも……それは、俺が悪いんだ。

 俺が、そういう関係にしてしまった。恩を着せるような対応をしてしまった。優は、俺に依存している。

 なら、優の父親が「お前がいると優志がおかしくなる」と言ったのは間違いではなかったのだろう。

 俺が間違ったんだ。

俺は、神様なんかじゃない。



優へ

 

急にごめん。書いていいのかわからないけど、俺多分お前がこれ読んでるとき、お前のとなりにはいないと思う。

俺、父さんのこと殺したんだ。車が来たときに、背中を押して車道につきとばした。そしたら死んだんだ。もうがまんできなかったんだ。ずっと近所で動物の死体が出てたと思うけど、あの子たちを殺したのも俺だったんだ。猫は好きなのに、生きてるより死ぬ瞬間とか死んだ後の方がずっとかわいいんだ。

俺、本当はお前が思ってるようなすごいやつじゃないんだ。死んだ方がマシかもって思ってる。でも父さんとか猫の命は簡単に奪うくせに自分は死ねないんだ。死んだらこんな俺でもキレイになれるかもしれないのに、なぜか死ねない。

それに、こうやって書けばお前が俺を助けてくれるんじゃないかって、ちょっと期待もしてる。勝手に期待し てるんだ、ひどいよな。もう限界なんだ。どうしたらいいのか教えてほしい。俺が生きてたら教えて。俺はどうしたらいい? 

お前はきっとりちぎに大人になるまで読まないだろ。だからお前にわたすんだ。せっかくお前があんなにすご いって言ってくれてるのに、すごい人間になれなくてごめんなさい。

きたなくてごめんなさい。

許してもらおうとしてごめん。

ごめんなさい。


平和より

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